もしもの話
この季節にしては珍しく長雨が続き、やっと晴天となった本日午後。せっかくだからと午後のティータイムを庭先で楽しんでいれば、やたらとご機嫌なメイドの少女が女主人に問いかける。
「雨が降ってグレン様が増えるとするじゃないですか。そうしたらフェリシア様はどうなさいます?」
あ、これ今から面倒くさい展開になるなあと、様子を見ていたカーティスはそう思った。
ポリーからの突然の暴投である。フェリシアは「え!?」と驚いたまま言葉に窮す。まあそれはそうだろうなとカーティスは頷く。まずもって前提が分からない。なんだその、雨が降って増えるって。
ポリーは屋敷で一番若い。少しばかりこう、夢見がちと言うかなんと言うか。大人達には想像もつかない話題を振ってくる。大抵は適当に話を合わせるか、華麗に流して別の話題を振ってうやむやにする。カーティスは後者だ。その時一緒に飴玉を渡してやればポリーはご機嫌に受け取るので、特に話を露骨に逸らしたところで問題は起きていない。
フェリシアはどうするのだろうか。これまでの彼女は良く言えば大人しい、悪く言えば暗いタイプであったので、ポリーもあまりこういった話をしてこなかった。少なくとも、カーティスがいる場では。
ところが本来のフェリシアは元気溌剌で、割とポリーと似ている。先日の騒動以降、フェリシアは屋敷の中で猫を被るのを止めた。まあ夫婦揃って鬼ごっこを繰り広げたのだから、今更猫を被る必要もないのだが。
そんなわけで、素の状態のフェリシアがなんと答えるのか。予測は付いているけれども、それが正解なのかどうかをカーティスは確かめたい。
「え、無理! 無理よ無理!! グレン様が増えるとか無理だから!」
言うと思ったー、とカーティスは己の予測の正しさに頷く。ポリーの暴投を打ち返すだけでなく、その答えも想像通り。そしてこれから先の展開もきっとはずれないだろう。
「グレン様が増えるのはいやなんですか?」
「いやって言うか……って言うか……無理、かなって。だって」
「だって?」
聞こえるはずのない声にフェリシアは大きく体を揺らす。数ミリ、椅子から腰が浮いたかもしれない。それほどまでに狼狽えている。そんなフェリシアを不思議そうに見つつ、ポリーは突如姿を見せた屋敷の主に「おかえりなさいませ」と声を掛けた。
「グレン様、もうお仕事は終わられたんですか?」
「いや、これからまた城へ戻らないとならないんだが……フェリシア」
「あの……今のは……あれですよ……あれなんですってば」
フェリシアは懸命に言い訳をしようとするが、何一つ意味のある言葉が出てこない。
「だから美形のすごみ笑いは怖いんです!」
堪らずフェリシアはポリーを抱き寄せた。椅子に座ったままぎゅう、と抱き締め、ポリーの肩越しにグレンを見る。
「だって、の続きは夜にでもゆっくり聞かせてもらおうか」
笑顔の圧が酷い。フェリシアは「ひぃ」と零してさらにポリーを抱き締める。ポリーは逆にどうしてこんなにもフェリシアが怯えるのかが分からない。こういう時の空気を読むには、ポリーはまだ経験値が足りていなかった。
「グレン様はフェリシア様が雨で増えたとしたらどうなさいますか?」
だから元気にグレン相手にでもこんなボールを豪速球で投げ付けてしまう。
「総取りだな」
それを迷うことなく投げ返す事ができるのは、流石と言えばいいのかそれとも本質的にポリーと同類だと言えばいいのか。どちらにせよ、即答でしかもその中身の残念さにカーティスは軽く瞳を閉じた。
ふっきれてからの主人のあれやこれやが酷すぎる――
「総取りって、グレン様がひとり占めってことですか? え、私にもください!」
その話続けるの!? とフェリシアは腕の中の少女に驚きの視線を向けるが、ポリーはそれに気付かず「欲しいです!」と元気にお強請りをしている。雨に濡れて増えたフェリシアを。
「そうだな……ポリーはフェリシアと仲がいいから、一人ならあげてもいい」
「あとマリアさんにもあげてください!」
「ああ、マリアにもあげよう」
「カーティスさんには……あげなくていいと思います。その分私とマリアさんでお世話しますね!」
「ポーリーィー」
圧を込めてその名を呼ぶが、ポリーはフェリシアに抱かれているので安全だと笑っている。
「フェリシア様どうします? 今晩の食事は子ウサギのパイと親ウサギの香草焼きにでもしましょうか」
主人を親ウサギ扱いにする不敬っぷりだ。乳兄弟って強いなあとフェリシアは引きつった笑いで誤魔化す。
親ウサギを食べた所で、反撃とばかりに夜には自分が食べられてしまうのだ。たすけて、とフェリシアは天に祈った。
一旦城へ戻ったグレンだが、夕食の時間には間に合うように帰ってきた。その頃には普段と同じの穏やかさで、午後のやり取りなどまるで無かったかのようだ。安心したフェリシアはそのまま湯浴みも済ませ、何の躊躇いもなく寝室へと足を入れた。
おかげでこのありさまだ。ベッドの上で足を伸ばして座るグレンの膝の上で横抱きにされている。
またこの状況、とフェリシアは両手で顔を覆ってひたすら己の中の羞恥心と戦う。せっかく身体を綺麗にしてきたというのに、じんわりと汗を掻いている。
「グレン様がひどい」
「ひどいのはフェリシアだろう」
抱き締める腕に力を込め、グレンはフェリシアのこめかみに軽く口付けた。
「どうして無理なんだ?」
無理、とは、とフェリシアは指の隙間からグレンを見る。話の中身はお茶の時間の時のであろうが、それをまだ引き摺っているのか。え、本当に? あんな他愛も無い話なのに? そう驚いているのが伝わったのか、グレンの眉間に僅かに皺が寄る。
「度量が狭くて悪いとは思っている」
それでも愛しくてやまない相手からの拒絶の言葉を、はいそうですかと受け入れる事はできない。それが与太話であったとしても。
「こ……拗らせすぎでは?」
「自覚している」
で? とグレンはフェリシアからの突っ込みを受け流して答えを促す。
「え……えええええ……」
どうして無理ってだって一人でもこんなに素敵でかっこよくって大好きなグレン様なのよ! そんなグレン様が何人もいたら私の心臓壊れちゃうじゃない!!
素直にそう叫べば終わるだけの簡単な話だが、素直に叫べないからこそこうなっているのだ。うう、とフェリシアはまた顔を覆って低いうなり声を上げる。
「そんなに言えない?」
「……と言いますか、グレン様もうわかってるんでしょう?」
「君は顔に出るからな」
「だったらいいじゃないですかー! 私の乙女心が無理だと言ってます!」
「俺の男心がぜひ聞きたいと言っているから仕方がない」
「お……おたすけ……」
「じゃあこうしようフェリシア」
グレンは片手でフェリシアの手首を掴むと軽く引き剥がした。真っ赤になって、目元まで潤ませた状態でフェリシアは見上げる。その無自覚の誘惑にグレンは苦笑を浮かべた。全くもってこの可愛い妻は、軽率にこちらの理性を揺さぶってくるからタチが悪い。
「どう……します?」
「君から俺に口付けて」
「……え」
「いつも俺からだろう? だから、フェリシアからの」
「無理です」
「じゃあ話をしてくれるか? 俺はどちらでも構わないけど」
グレンからすれば最大限の譲歩だ。フェリシアにとっては究極の二択だが。
うう、と真っ赤にしたままの顔で今度は恨めしげに見上げるフェリシアに、グレンはまたしても苦笑する。睨まれようがどうであろうが、この腕の中の存在が愛おしくて堪らない。そして欲望も最大限に刺激してくれる。
まだそういった行為に不慣れな彼女なので、どうかこのみっともなく反応している熱に気付きませんように――
涼しい顔をしている夫がまさかそんな祈りを捧げているなど露知らず、フェリシアは茹だった頭で懸命に考え、そして覚悟を決めて行動に移した。
グレンの両肩に手を置いて少しばかり身体を近付ける。そのまま彼の首筋に顔を寄せ、ほんの一瞬ではあるけれど、それでも確かに口付けた。
「……っ、フェリシア」
「し、ました、よ……!」
いっそ泣き出しそうなくらい瞳を潤ませフェリシアは羞恥に耐えている。グレンの我慢は残念ながらもう限界だ。
「どうして、ここに?」
唇、は流石に無理だろうなとグレンも分かってはいたけれど、まさか首筋にしてくるとは考えてもいなかった。てっきり額か頬で済ませてくるだろうとばかり思っていたのに。
「ぐ、……グレンさま、が、いつもここにするなって……」
フェリシアにとって、口付けと言えば唇か頬、そして額とあとは掌くらいしか知らなかった。こんな所に、と驚いたのも、そこから伝わる衝撃も全てグレンから教えられた。
「だから、ここかなって、おもって」
あと単純に一番恥ずかしくない場所だから。そんな理由で選んだ場所が、グレンの理性の壁をぶち抜いたなどフェリシアが気付くわけがない。
これで終わった、と安堵の息を吐くフェリシアは次の瞬間にはベッドに押し倒された。すっかり見慣れた寝室の天井にこれから先の未来を知る。
すまない、と切羽詰まったグレンの声に、フェリシアは最早悲鳴を上げることすら出来なかった。