序章
最後に彼女と話してから、もう10年が経った。記憶を呼び起こすと、夏の草や土の匂いをはっきりと思い出すことができる。
僕は山の斜面の洞窟で、雨が止むのを待っていた。雨粒が地面に当たる単調な音と夏の湿度のせいか、僕の意識はぼんやりとしたものになっていった。そしてあのころ何度も見た不思議な夢を見た。
眠っているときに訪れることができる場所だったから、僕は最初それを夢だと認識していたが、それは本当は夢とは違う性質のものだったのかもしれない。
例えば僕たちが普段、暮らしている世界とは別の世界――こことは違う空間や時間の流れがあるとしたら……。
別に新しい物理学や数学の理論を証明したいわけじゃない。ただ実感としてそう思うだけだ。それだけリアルな実感を伴う体験だった。
僕はそこで、彼女と再会した。
どうして僕はペンを執ったのだろう。記憶はあいまいなもので、時が経つにつれその内容は簡素に、具体的だったものは抽象的になる。どこかでそれをしっかりとした形で記録する作業が、僕のなかでひとつの区切りとして必要だったのかもしれない。
それは過去との決別なのか、それとも僕なりの贖罪のつもりなのか。それはこれを書いている僕にもよくわからない。でも、これを書き終えたときに何かがわかるような予感が自分のなかにある。
たくさんの人が僕の前から去っていった。またいくばくかの人と出会った。記憶に色濃く残り続ける人もいれば、もはやその輪郭さえ思い出せない人もいる。
でも、この街ではそんなことは誰も気にしない。彼らは名刺や電話番号だけで人間という存在を充分に記憶できると信じている。
僕にはいずれこの作業が必要だったとわかっていた。地図を広げるように記憶を膨らませ、ルートを指で辿るように過去のエピソードの輪郭を思い出していく。
なぜ、これまでこの出来事を書き留めることができなかったのだろう。
きっとあの夏が僕自身のなかで、強い生々しさと共に、夢を見ているような現実感のなさが、複雑に混ざりあって存在していたからだろう。いままでは思い出すたびに混乱してしまったり、ひどく感情を揺さぶられることもあった。
それは嵐に遭遇したようなもので、自分の心をしっかりと抱え込んで離さないようにしなければならなかった。
でも近頃になって、ある程度落ち着いてこの思い出と向き合えるようになった。大人になったともいえるし、あるいは感受性が衰えたともいえるかもしれない。
いずれにせよペンを持って紙に向かい合う準備はできたということだ。 これは鎮魂の歌だ。薄れた記憶の中で今も生き続ける人に、
この現実から忘れ去られた人に送る歌だ。少なくともそうあってほしいと僕は願う。