第3章:烏合の戦場Ⅸ『開戦』
突如として、耳を劈くような叫び声があがった。
部屋の内側で、発狂した捕虜同士の殺し合いが起きたのだ。
――もちろん演技である。
しかし全数十名による迫真の熱演は、見張りの二人に扉を開けさせるには十分すぎるほどの衝撃をあたえた。
混じり者の男たちは、中を覗いた瞬間に声を出す間もなく繰り出された縄によって足をすくわれ、数人掛かりで咽喉を絞められ、四肢の自由を封じられた。
捕虜の拘束用に使われていた縄である。
そして憐れな貧乏くじを引いた二人が事態を把握するよりもはやく、東雲は飛び出した。
老人に教わったとおりに船内を駆け抜け、甲板へと踊り出る。
澄んだ陽光が照らす真昼のだだっ広い空間を、黒い身なりの男が走るのである。
当然目立つはずであったが、足音もなく一切の無駄を排した風のごとき走行に、東雲が役割をひとつ終えるよりも早く気づけた者は、わずかひとりであった。
運悪く真正面から彼と対峙することになった青鬼の男は、律儀にも「脱走者だ!」と叫んだ後に、腰の半月刀を奪われ咽喉を斬り裂かれた。
一斉に甲板にいたすべての視線が集まる。
しかしその時にはすでに、東雲はひと仕事かたづけていた。
帆綱が切られ、停留のためにたたまれていた白い帆が音を立てて広がった。
あいにくと凪の海域である。それでもささやかながらに吹く風は、帆を緩やかに膨らませ、船がわずかに前進をはじめた。
艦隊との接舷までもう少しというところであった。
「時を稼げ!」
遅れて甲板に現れた船長が、後に続く者たちへ力強い檄を飛ばした。
「霧の海域まで持ちこたえろ! 迷路海流へ入るまで、船と己の命を守り抜け! 雲海さえとらえれば、あとはワシが、お前たちを島まで連れて帰ってやる!」
練達の船乗りらしい気合いのこもった号令に、空気を震わせるほどの鬨の声があがった。
――海戦の幕開けである。
然るに忍のお仕事は、敵の首級をあげることでも、華々しい武者働きをすることでもない……。
東雲は、逃げる貿易船を追うために帆先を変えはじめた艦隊を睨めつけ、ふてぶてしく頬を引きあげた。
「ひい、ふう、みい……――多いわボケェ」
吐いた愚痴のぶん大きく息を吸いこみ、迷うことなく船の縁を蹴る。
皮肉にも、それは〝音無し〟の揶揄を体現するかのごとく、着水の瞬間まで一粒の水滴すらあがらない物静かな離脱であった。
この瞬間、彼がいなくなったことに気づけた者は、誰ひとりとしていなかった。




