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第2章:泳ぐ極楽島Ⅶ『ヘドロの業』


 海の藻屑(もくず)と化した残骸もろとも波の狭間に巻き込まれた東雲は、咄嗟に島の岩肌を掴んだ。

 生温かな霧の下で荒れ狂う海流は、血も凍りつくほどの冷たさであった。心の臓がひゅっと収縮し、体温が瞬く間に根こそぎ奪われていく。歯の根が噛みあわず、口から呼気が漏れるのを必死に堪えた。


 島の側面を削らんばかりに襲いくる激流に流されまいと、苔で滑る岩壁に全身でへばりつく。指先はすでに氷のように感覚がなく、海面へ戻りたくとも、上層から圧し潰すような奔流が邪魔をする。


 東雲は一旦落ち着こうとあがくのをやめた。

 船が粉々にされた今、手を滑らせ大海原へ放り出されてしまえば、もはや助かる道理はない。水練(すいれん)に長じ、息の量も常人の数倍保つことができる力量を活かして、ここは慎重に浮上を試みるべきだ。


 だがしかし、その冷静な判断が新たなる災いを招いた。


 視界の端をかすめた異変に、東雲は即座に振り返った。

 暗い海の底から、ドロドロとした黒いヘドロ状のなにかが、急速にこちらへと迫っている。――デカい。魚のように身をくねらせ、歪な手足で水を掻くそれは、どこか無機質で生き物としての(てい)を成していなかった。


 飛ぶようにこちらへ接近してくる化け物に身構えれば、突然、泥を()(こご)らせたような(からだ)の表面がぼこぼこと泡だち、ひしゃげた刀を想わせる禍々(まがまが)しい爪が現れた。


 弾かれたように東雲は強く岩肌を蹴った。

 海流に逆らわず深層へ沈んだ次の瞬間、ちょうど首があった位置の岩壁が、真一文字に鋭く斬りつけられる。刻まれた傷跡の深さに戦慄が走った。一瞬でも判断が遅ければ、頭と胴がおさらばしているところだ。


 急いでさらに深く潜り、長い爪が届かない化け物の腹の下へまわる。


 するとまたしても、ぼこぼこと腹の表皮が(うごめ)き、今度は無数の凹凸が現れた。驚いたことに、それはまるでいくつもの人の顔のようであった。


 どろりと溶けたのっぺらぼうのような顔が、一斉になにかをしゃべりだす。意味のある言葉ではない。剥き出しの憎悪と殺意が、けたたましい音となって東雲に降りかかった。


 陰々とした怨嗟(えんさ)の叫声が耳を(つんざ)き、金縛りにあったかのように身が硬直する。


 騒ぎを聞きつけ、化け物の頭部がぐるりとこちらを向いた。海水を掻き分け、捕らえ損ねた獲物を逃がすまいと、黒光りした爪が伸びてくる。


 ハッと我に返り、岩壁づたいに上昇しようと身を翻す。しかしその身体を、新たに生えた(ひだ)状の触手が絡めとった。

 間一髪、両腕を首まわりに差し込み窒息はまぬがれたが、気持ちの悪いぶよぶよとした触手は容赦なく東雲を絞めあげる。

 身じろぐも、そのあまりの強い力に抜け出せそうにない。ミシリ、と肋骨が悲鳴をあげた。


 目前まで迫った爪が振りかぶられ、再度東雲の首へ突き立てられる寸前で足を振りあげ、爪の根元を蹴りつけた。

 突っぱねるように膝を伸ばせば、爪はなおも喉笛を狙って力をこめてきた。


 ここで足や腹を斬れば簡単に東雲を(ほふ)ることができるというのに、頭のできが悪いのか、化け物はひたすら目前の首ばかりに執着している。

 しかしそんなささいな幸運など、つかの間のなぐさめにしかならない。


 拮抗していた力が、徐々に化け物の方へと軍配をあげはじめた。

 身体を絞めつける襞に肺を圧迫され、ごぼりと空気の泡が逃げ出していく。息がもう保たない。


(っ、くそッ、死んでたまるか……!)


 東雲は渾身の力で襞を押し返した。


 その時、ずるりと腰の帯布がゆるんだ。内側から、淡い輝きを放つ小さななにかがぽろぽろと零れ落ちる。――種だ。砦の地下からくすねた宝石のような透明の種が、激しい下降海流に乗って海の底へと沈んでいく。


 すると化け物が急に動きを止めた。躰に浮き出たすべての顔が、一斉に沈みゆく種へくぎづけになる。触手が離れた。


 化け物はもはや東雲のことなど忘れ去ったかのように、流されていく種を追いかけて、一目散に深い水の底へと潜っていった。





「っ、はぁッ!」


 岩壁を這いあがり、久方ぶりの海面へ浮上した東雲は、ぜいぜいと荒い息を繰り返した。


 かじかんだ手を叱咤(しった)し、なんとか陸地へと身を横たえる。

 しとどに濡れた体に生温かな空気が纏わりつき、少しずつ血の気が戻っていった。


「はっ、鬼のお次は(うみ)坊主(ぼうず)ってか? つくづく油断ならねェな、ここは……!」


 なんにしても気色の悪い化け物だった。

 東雲は上体を起こすと、ずり落ちる帯布を片手で摑んだ。そのひょうしに、帯の隙間から数粒だけ残った種が転がり落ちる。


 瓢箪(ひょうたん)から(こま)、ではないが、ちょっとした欲をかいて持ち出した盗品のお陰で、思わぬ命拾いをした。


 淡く透きとおるそれを指先でつまんで、しげしげと眺める。一体これはなんの種なのか。


 砦の奥底に隠されていたのだから、価値あるものだとは思っていたが、まさか得体の知れない化け物すら脇目もふらず欲しがろうとは……。


 そんなとりとめのない思考を遮るように、どこからともなく悲鳴が聞こえた。

 この耳ざわりな甲高い声は、青鬼の少女に違いない。


「いかん、金ヅルが」


 東雲は気だるい身体をはね起こし、声のした方へと駆け出した。




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