第8話 食事
「これ……お前が?」
「うん」
ハクは、目の前に並ぶ料理に眼を奪われる。
当然の様に答えたムクは紅茶を淹れ、2つのティーカップに注いでいく。
サケの大群との格闘後、結局2匹捕まえたハクは、ムクの捕まえた4匹の魚と共に家に戻っていた。
久々の大漁に、ムクは腕を振るって調理する。
サケをステーキに、魚をムニエルや煮つけ、唐揚げに。
庭から摘んだ野菜を使い、サラダも作られていた。
テーブルを埋めつくすように並べられた料理は、豪華すぎるほどで、どれも輝いて見えた。
「嘘だろ……」
「パンは、好きなのを」
驚愕し、口を開けたまま動きを固めたハクに、ムクはパンを積んだ籠を差し出す。
自分もイスに腰を下ろしたムクは、籠からフランスパンを取り出し、厚切りしていく。
「食べていいのか?」
「うん。冷める前に」
「いただきます……」
両手を合わせ、ハクは言葉を発する。
その後、フォークを手に取り、サケのステーキを1口分、大きめに切り分ける。
ふっくらと柔らかい赤橙色の身。
油が滴り、香ばしい匂いが辺りに広がっていく。
ハクは、慎重にサケを口に運び、思い切り齧り付く。
「……っ!!!」
途端、ハクは眼を見開き、ムクの顔を見る。
口に入れた瞬間、サケの身はふわり、と解れた。
筋繊維1つ1つがしっかりとした触感を残し、噛む度に肉汁が溢れ出す。
程よく乗った油は、しつこさは無く、あっさりと消えていく。
「~っ!! 美味い!!!」
「でしょ?」
ハクはフォークを握りしめ、思わず叫ぶ。
ムクは、平然とハクの言葉を受け止め、自分もまたサケの身を口に運ぶ。
「……ふへ」
無表情のままのムクの周りに花が咲く。
フランスパンと共にサケを味わったムクは、自分の右手を握りしめ、小さく上下に振る。
美味しさを表現しているつもりのムクは、ふと、目の前のハクに目が留まる。
「……?」
ハクと眼が合ったムクは動きを止めた。
目の前に座る青年の変化に、ムクは首を捻る。
「どうしたの?」
「いや……」
ハクの表情は、どう見ても砕けたものであった。
ハクは、表情は変えぬまま、腕を振って心中を表すムクに、愛おしさを感じていた。
食事の手を止め、見つめてしまう程に。
「可愛いなと思って」
「……? 何が?」
「お前が」
「どこが……?」
「全部」
優しく、囁く様に、言葉を重ねる。
大きく首を捻るムクに、ハクは眼を細める。
頬杖を突き、ムクの食事を眺めるハクは、まるで妹を見守る兄のようであった。
ゆっくりと、小さく1口ずつ食べていくムクは、小動物のような愛らしさを醸し出していた。
「冷める、よ?」
「そうだな」
動きを止めたままのハクに、ムクは料理を食べるよう催促する。
クツクツと笑い、食事する手を動かし始めたハクは、ムクに合わせてゆっくりと食べ勧める。
「ほら、俺のも食べていいぞ」
「いいの?」
「あぁ」
ハクは、自分のサケのステーキを半分、ムクに差し出す。
驚く様に顔を上げたムクに、ハクは優しく微笑む。
「……いただきます」
家に戻ってからは、ムクはマントを脱いでおり、フードを被っていないせいか、顔がよく見えた。
長く垂れた前髪の隙間から覗く赤い瞳は、綺麗に輝いており、子供の眼そのものであった。
サケの乗った皿を受け取り、ムクは無言で食べ進める。
ムクの食事量は、ハクの食事量を遥かに上回っており、テーブルの上に広げられた料理の内、3分の2をその小さな体で平らげてしまった。
「よく食うな」
「……吸血鬼にとって、人間の血は最高の栄養補給食品。でも、私は人間を襲わないから、他のもので補うしかない」
「お前、人間の血、吸ったことないの?」
「うん」
ハクの言葉に、ムクは小さく頷く。
ムクは、毎日のように人間に襲われていながら、自分が人間を襲ったことは1度もなかった。
なんとなく、察していた現実を、ハクは大きく驚くことなく受け止める。
「そうか」
「……でも、1度だけ舐めた事ならある」
「え?」
「10年くらい前に、1度だけ」
「事情があったんだろ」
「うん」
俯いたまま語るムクに、ハクは優しく語り掛ける。
食後の紅茶を楽しみながら、ムクは思い出すように言葉を紡ぎだす。
「吸血鬼は、牙から毒を、唾液から薬を分泌する。……10年前、私は森を歩いていた。そこで、小さな女の子が、人間が仕掛けた罠に嵌ってた。怯えて震えていたから、罠を外して、怪我をした部分を舐めた。唾液に含まれる薬は、どんな怪我でも回復させる効果があるから、女の子もすぐに歩けるようになった。それだけ」
「その女の子は?」
「……私に怯えて、逃げて行った」
「そっか」
俯き、紅茶に映る自分の姿を眺めるムクは、幼いその顔に影を落としていた。
ハクは、その話を聞いて、逆に口角を上げていた。
「お前は、感覚としては理解してるのに、感情と言葉が一致してないんだな」
「何の話?」
「心のお話」
眼を細め、笑うハクの顔には優しさが。
首を傾げるムクは、その表情の意味を理解できずに。
ハクは、慣れない手つきでムクの頭を撫でる。
「優しいな、お前は」
「『優しい』……?」
新たな言葉に、ムクはハクの顔を見つめる。
ムクの言葉に、ハクは一つ頷きながら、頭を撫でる手を止めない。
「きっと、その子が『可哀想』だと思ったから、そうやって助けたんだと思うよ」
「『可哀想』……」
「優しいな、ムクは」
今度は、しっかりと名前を呼んだハクは、口角を上げ笑う。
初めて触れる人間の温もりに、ムクは眼を見開き驚く。
無表情でも分かるその感情に、ハクは嬉しそうに、更に眼を細めた。
「食べ終わったばっかだから、夜風を浴びたいな」
「それなら、テラスに出れば……」
「行くぞ」
「え?」
ハクは、突然立ち上がり、昼同様ムクの手を引く。
持っていたティーカップを置き、引かれるままに歩き出すハクは、顔を隠す術もないまま外へ出た。
「……!」
「なんだこれ……。すげぇ……」
初めて、被り物なしで見た夜の世界は、ムクの瞳には宝石箱の様に映る。
遮るものは無く、それ以上に輝くものもない。
漆黒の世界で、星々が個性を比較し合うように光り輝く。
その真ん中に1つ、三日月が美しく浮かび上がる。
それこそ、宝石を散りばめたように輝く月と星は、2人が見てきた世界のどの空よりも美しく、魅惑的なものだった。
「……きれい」
「だろ?」
「……っ!」
昼に、ハクへ見せた宝石入れを思い出したムクは、無意識に言葉を呟く。
今度は聞き逃さなかったハクは、もう1度嬉しそうに笑い、ムクの顔を覗き込む。
ハクの反応に、ムクは肩を震わせ、視線を逸らした。
「……あ」
「ぴきゅぅ!」
視線を逸らした先、蔦のカーテンへ眼を向けたムクは、そこで動くものに思わず声を上げた。
聞いたことのある鳴き声。
小さく、甲高いその声。
小さな体を懸命に動かし、1匹の子兎がムクへ向け、飛び跳ねていた。
「あの兎……、昼間のだよな?」
「うん」
星の明るさにより、辺りが見渡せたことで、人間のハクの眼にも子兎が映り込む。
ハクの言葉に、そっけなく返事をしたムクは、子兎の方向へ体を向けしゃがみ込む。
「ぴきゅう!」
「どうしたの?」
ムクの胸に飛び込んだ子兎は、嬉しそうに声を上げる。
柔らかく、白く透き通った毛を撫でながら、ムクは子兎に尋ねた。
答える様に上げられる鳴き声は、ムクには意味が分かるはずもなく。
それでも、その鳴き声からは喜びだけがはっきりと理解できた。
「そりゃ、お前に会いに来たんだろ」
「私、に?」
「ぴきゅぅ!!」
ハクの言葉を肯定する様に、子兎は鳴き声を上げる。
子兎を見下ろし、動きを止めたムクは、僅かに眼を細める。
「お前の優しさに魅かれたんだろ。よかったな、逃げない奴もいて」
「……うん」
ムクは、壊れ物を扱うように、優しく子兎を抱きしめる。
子兎もまた、ムクに身を預け、嬉しそうに震える。
少女と子兎を眺め、ハクは慈しむような目で、ムクの頭を撫でる。
「あり、がとう」
「あぁ」
ポツリ、と呟かれた感謝に、長い言葉は不要。
月に照らされ、星に祝福される2人は、優しい夜の世界へ誘われる。
二人を邪魔する者は、何処にもおらず。
夜風は舞い踊り、蕾へ戻った花は、再度咲き誇る。
世界が、怪物と異端者を、世界の一員と認めた瞬間であった。