第7話 川
2人が辿り着いたのは、最初に罠をかけた地点からそれほど離れていない場所にある、流れの穏やかな川。
空気の流れも穏やかで、差し込む日差しが温かい。
底が見えるほど綺麗に透き通った水の中を、魚が自由に泳いでいた。
「ここか」
「うん」
ムクは、河原に腰を下ろし、川の中を覗きこむ。
ムクが作り出した影に小魚が集まり、流れに逆らって泳ぐ。
「じゃ、釣りでもしますか」
「……釣れないよ?」
「俺の手にかかりゃ、大量よ!」
釣竿に手をかけたハクを、ムクが小さな声で止める。
その言葉が、技術の事を指すと考えたハクは、口角を上げ余裕を見せた。
それ以上何も語らず、ムクは水面に漂う小魚と遊び始める。
「っしゃ、やるぞ!」
ハクは、適当な餌を付けた釣り針を川の中へ投げ込み、その場に座り込む。
自分の影が水面に映り込まぬ様工夫するハクを見て、ムクは完全に興味を無くす。
まだ冷たさの残る春の川に、ムクは顔色を崩すことなく足を入れる。
小魚と戯れる様に踊るムクは、風に吹かれフードが外れる。
それに合わせ、広がる様に露わになる長い白髪は、風になびいて優雅に舞った。
事情さえ知らなければ、ただの少女である彼女は、その顔に幼さを残して。
ハクは、釣竿を握りしめ、隣で小魚と戯れるムクを眺める。
赤い眼に、白い髪。
太陽に照らされるムクは、妖しく、恐ろしく、それ故に美しい。
「綺麗だ」
ポツリ、とハクは声を漏らす。
吸血鬼でさえなければ、誰もが虜になるその姿。
『美人』とは、ムクの為にある言葉だと思えるほどに、彼女の姿は輝いていた。
「お前、太陽は平気なんだな」
「……? どうして?」
「え? 吸血鬼にとって、太陽の光は急所みたいなもんだろ?」
「吸血鬼に、心臓以外の急所は存在しない」
「……え?」
元いた世界と今いる世界で事実が異なることに、ハクは眼を見開き驚愕する。
確かにムクの身体に異常はなく、それどころか彼女の不健康な程に白い肌は、太陽に照らされ輝いて見えた。
「そういうもんなのか……」
「うん」
俯くハクを気にすることなく、ムクは遊ぶ足を再び動かす。
偶に足元を泳ぐ魚を掬い上げ、持ってきた箱に水を溜め、その中に魚を入れていく。
箱の中に、15センチ程の魚が3匹収まった時、ハクが釣竿を投げ捨てた。
「釣れねぇ!」
「だから言ったのに」
河原に寝転がり、空を見上げるハクに、ムクは言葉を投げかける。
ハクは、投げ捨てた釣竿を拾い上げ、川の中へ眼をやる。
再度、釣り針を水の中へ沈めると、魚が針を避けて泳いでいるのが目に見えた。
「この魚も魔物だから、知能がある。それで、釣竿だと釣れない」
「そういうことか……」
もう1匹、素手で捕まえたムクが、簡単に解説をする。
それを聞いたハクは溜め息を吐き、釣竿を仕舞う。
4匹の魚が泳ぐ箱の中を眺め、ムクが川から上がる。
「もういいのか?」
「うん。2人で2匹ずつ」
「あいよ」
ハクは重い物を持ち、ムクは軽い物を持つ。
2人は、川を離れ、ムクの家へ戻ろうと歩き出した。
その時、
「キエェエエェ!!!」
「な、なんだ!?」
「……! 来た」
上流から、魔物の叫び声が響き渡り、穏やかな川の流れが乱れ始めた。
ハクは驚いて振り返り、ムクは眼を光らせる。
「おい、あれは……?」
「サケの群れ」
「サケ!? 今の時期に!?」
けたたましい音を立て、2人の立つ場所めがけて泳ぐ魚は、銀色の鱗を纏い、鋭い口を持つ、ハクもよく知るサケそのものであった。
ハクの知るサケと違う点は、春に川を大群で泳いでいること。
そう、大群で。
「あれ、何匹いるんだ……?」
「大体、100匹、かな?」
「ひゃ、」
狭くは無い川幅をではあるが、100匹の大群が一気に下る。
その様子は、どう見ても穏やかものではなかった。
「嘘だろ……」
「サケは、美味しいよ?」
「え?」
「美味しいよ?」
大事なところを2回繰り返し、ムクはハクを見上げる。
制服の袖を引っ張るムクの瞳は輝いており、口からは涎が垂れていた。
「『美味しい』は分かるんだな」
「うん」
「面倒なとこばっか覚えてやがる……」
ハクは、ムクからサケへ視線を移す。
そうこうしている間に、サケの大群は目と鼻の先に迫っていた。
「あー、クソ!! 獲ればいいんだろ!!」
「あ、ハク、」
ムクの眼差しに耐え切れなかったハクは、持っていた物を置き、ブレザーを脱ぐ。
シャツの袖、ズボンを濡れない場所まで捲り、ハクは川の中へ足を入れる。
止める様にかけられたムクの声には、気付かないまま。
「冷たっ!?」
まだ春である世界において、川の水は10度前後。
人間の肌には冷たく感じるその温度に、ハクは堪らず声を上げる。
それでも歯を食いしばり、ハクはサケの大群を待ち構えた。
「来い!」
「!!」
サケに抜けて、ハクは両手を広げて構える。
それに対しサケは、ハクの姿を捉えるや否や、ギラリ、と眼を光らせた。
「キエェエェェエ!!!」
「……え?」
ハクの目前まで迫ったサケは、突如、大きく跳ね上がった。
驚愕し、その場に固まったハクは、自分めがけて跳んでくるサケに、対抗することができなかった。
「えぇええ!!??」
「……サケは、人間を見つけると、襲ってくるよ」
「先に言えぇええぇえ!!!」
大量のサケに襲われ、川の中に倒れ込んだハクが、断末魔の様に叫び声を上げる。
体当たりされ、服を引っ張られ、尻尾で殴られる。
何とか起き上がったハクは、尚攻撃を続けるサケに反撃を始めた。
「コイツ! この野郎!! 捕まえてやる!!」
「!」
ハクは、闇雲にサケへと手を伸ばす。
しかし、サケは殺気溢れるハクの手を華麗に躱し、代わりに尻尾ビンタをお見舞いする。
「テメェ!」
「キェエ! キエェ!」
サケは、ハクの醜態を嗤うように鳴き声を上げる。
その鳴き声に、更に頭に血を上らせたハクは、何度かサケを捕まえようと手を伸ばすが、掠りすらしなかった。
「クッソ……」
「ハク……」
ハクは悔しさで眉間に皺をよせ、サケを睨む。
ムクの、自分の名を呼ぶ小さな声に、ハクは唇を噛んだ。
「クソ……、あいつでも魚4匹捕まえてんのに、俺は……」
止むことの無いサケの攻撃を受けながら、ハクは拳を強く握る。
遊ぶように制服を引っ張るサケを見て、ハクはふと、ある作戦を思いつく。
「そうか。……フフ」
「ハク?」
突然、笑い声を漏らしたハクに、心配そうにムクは再度名前を呼ぶ。
しかし、今度は反応を見せなかったハクは、自分に噛み付くサケに狙いを定め、倒れ込んだ。
「キエェエ!?」
「ハク!?」
姿を消したハクに、ムクは持っていた道具を投げ捨て、川へ近づく。
すると、数秒後、大きな音を立ててハクが立ち上がった。
1匹のサケを掲げながら。
「ハハッ! どうだ、ムク! 捕まえてやったぞ!!」
「……!」
「キエェ!?」
ハクの全身は濡れ、袖を捲った意味は無くなっていた。
サケは、自分の仲間を取り戻そうとするようにハクに襲い掛かる。
「ハハハ!! もう1匹捕まえてやる!!」
「キエェエエ!!」
今度は倒れることなく、スムーズにサケを捕まえるハクを見て、ムクはある言葉を思い出す。
――あー、あれだ。なんか、こう、相手が輝いて見えるって感じ
ハクの姿は、まるで水滴と踊っているかのように軽やかで、銀の髪は綺麗に輝いていた。
ムクは眼を細め、ハクのその姿を見つめる。
「かっこいい……」
未だ理解できずにいる言葉を、ムクは呟く。
「あ、おいコラやめろ!」
「キエェエェェ!!」
サケと戯れるハクの耳に、ムクの声は届くことは無く。
ムクの胸に、今まで感じたことの無い感覚が宿る。
感情の無い吸血鬼は、笑いながらサケと戦うハクから、眼を離せなかった。