第28話 我らが王
「ハク、ハク!」
ムクは、自分の前に横たわるハクの体を揺する。
固く閉ざされた瞼を持ち上げさせようとして。
ハクの寝顔は安らかなものではなく、苦しそうに眉間に皺が寄せてある。
「ハク、起きて」
ムクは、顔を歪める。
ムクの顔には、確かな表情があった。
普段の、何の感情もない無表情ではなく、ハクを思いやる感情を滲ませた表情が。
「……っ」
「ハク!」
「ム、ク……?」
3度、ムクがハクに呼びかけようとした時、ハクの体が僅かに震えた。
思わずムクはハクの顔を覗き込む。
ゆっくりと開かれたその瞳は、霞んだ視界でムクを捉える。
身体を起こしたハクの全身に、針を刺したような細かい痛みが走る。
染みついた人間の赤黒い血液は海水に洗い流され、衣服は白く浄化されていた。
「ハク…!!」
堪らず、ムクはハクの体に抱き付いた。
小さな体はハクの腕に収まり、その胸に顔を埋める。
「ムク……」
「よかった……」
ムクはハクの体にしがみ付き、柔らかな頬をハクの胸に摺り寄せた。
心の底から安堵するようなその声に、ハクは僅かに眼を細めた。
自分の体から離れないムクの頭を撫でようと、ハクが手を伸ばした時。
「……よろしいですか?」
咳払い一つと、空気を窺うように声がかけられた。
ハクは驚いて声がした方へ振り向くと、そこには一人の男が立っていた。
緑の長髪に黄色の眼。
髪には一束のみ、白く変色しており、後ろ髪を毛先近くで結んでいる。
ハクの世界で言う中華風の服装に、真面目さがうかがえるメガネ。
姿勢正しく立つその姿は、見惚れてしまうほど繊細であった。
「心配ない、と言いましたよね? そろそろ、離れては?」
「まだ、このままが、いい」
「……本当に、変わられましたね」
ハクとムクから一歩引いた位置に立つその男は、ムクに声をかける。
ハクから離れようとしないムクを見て、その男はどこか寂しそうに笑った。
「この人は?」
「ヨルムンガルド。私たちをここに運んだ、葡萄を守ってた、あの大蛇」
「一応、神の息子なのですがね」
「ヨルムンガルド……?」
ムクの説明を受け、ハクはその名を口にした。
自分の名を呼ばれたことで、その男は一礼し、ハクへ自己を述べた。
「再びお目にかかることができ、光栄でございます。挨拶が遅れました。これは、ロキ神とアングルボザの二男、ヨルムンガルドでございます。現魔王派に属しており、秘書としての立場を承っております」
「挨拶が遅れたのは、ハクのせい」
「逃げられたのは、いささか不服ではございますが、当然でしょう」
礼儀正しく頭を垂れ、ヨルムンガルドはハクへと微笑む。
話に横やりを入れたムクも軽くあしらい、ヨルムンガルドは肩を竦める。
ヨルムンガルドの自己紹介を受けたハクは、ここに来て初めて辺りを見回した。
「ここ、は?」
「ここは、ユグドラシル・ニヴルヘイム。私たちがいた場所の、所謂平行世界でございます」
ニヴルヘイム。
ユグドラシル内にあると言われる氷の国。
ハクとムクが出会った人間界とは空間が異なり、世界の裏側、いわば平行世界に存在する王国。
周囲をヘルヘイム、ムスペルヘイム等、7つの国に囲まれている。
ニヴルヘイムへの入口は、人間界の海底にある。
入口に近づくことができるのは、限られた種族の魔物のみである。
魔王の城はここに存在しており、多くの魔物が住み着いている魔物の国。
地面は全て氷で覆われ、遠くには城がそびえ立つ。
建物は多くあり、街のような形を取っていた。
広場も存在していたが、不思議となんの気配もなく、また異様な程に静かであった。
「平行世界……」
「うん」
言葉を飲み込むように繰り返すハクに、ムクは頷いて肯定する。
ハクはゆっくりと立ち上がり、周辺を歩き回る。
それに続いてムクとヨルムンガルドが歩く。
永久凍土のニヴルヘイム。
にもかかわらず、肌に凍てつく様な寒さは感じられず、手足が悴むこともない。
ハクが氷の上に横たわっていいても平気だったのは、この不思議な性質によるものだった。
「……本当に、氷しかないんだな」
「うん」
ハクは街の方へ足を向け、建物の材質に驚愕の声を漏らした。
建物、広場のオブジェ等、その全てが氷で作られていた。
広場に設置された噴水からは、細かく砕かれた氷の砂が溢れ出し、水の様に煌めいていた。
しばらくの間、三人は街を彷徨った。
ハクは、黙って歩く。
ヨルムンガルドはハクの隣に立ち、街の作り、制度、国の全てを説明していく。
「……?」
そんな中、2人の後ろを歩くムクは、言葉にならない違和感を感じていた。
自分の胸に手を当て、ムクは首を傾げる。
ざわめく様に、胸に溜まる違和感は、何故かハクを見る度に降り積もる。
ムクは、自分が感じている違和感の正体に、すぐに気が付くことになる。
「さて、街の散策はこの辺に。ハク様、ここが、我等が王の城でございます」
案内を終えたヨルムンガルドは、門の前で足を止め、ハクへ一礼する。
三人の前に現れたのは、氷で造られた巨大な王城。
門前からでは端を見渡すことができない程に広大な敷地。
ハクはその氷の城を見上げ、眼を細めはしたが、怖気づくことはなかった。
「こちらへ」
ヨルムンガルドは門を開け、2人を中へと導く。
ヨルムンガルドが先頭を行き、ムクはハクの隣を歩く。
「大丈夫、だから」
「……? おう」
ムクは、ポツリ、と言葉を呟きながらハクの袖を握った。
ハクはムクの言葉の真意を理解できず、首を捻りながらも返事を返す。
振り返ることなく歩くヨルムンガルドは一つの扉の前に立ち、2人へ振り返った。
「どうぞ、お入りください」
再度、ヨルムンガルドが一礼する。
すると、自然と扉が開いた。
2人が案内されたのは、王城の中にある大広間。
そこには、この国に在住する全ての魔物が詰め寄っていた。
所狭しと、それでいて規則正しく並ぶ魔物たちは、開いた扉の先にいるハクとムクへと視線を向けた。
「さぁ、王座へ」
「……王座?」
「いこ、ハク」
ヨルムンガルドの言葉に、ハクは僅かに眼を見開いた。
だが、ハクの戸惑いに構うことなく、ムクはハクの手を引き歩き始めた。
魔物達は一斉に道をあけ、2人を王座へと導き、ヨルムンガルドは静かに2人の後を追う。
困惑を深めるハクは、振り向くことなく進むムクを見、溜め息を漏らした後、覚悟を決めたようにムクの隣を歩き始めた。
ハクが王座の前へたどり着いた時、吸い込まれるように、ハクは王座へ収まった。
ハク1人では大きすぎる王座は、あと1人程座れるスペースがあった。
その隙間に、すなわちハクの隣にムクは座る。
2人が王座についたことを確認すると、ヨルムンガルドは王座の横に立った。
一息置き、ヨルムンガルドは大声で叫んだ。
「ここに、我らが王の、帰還を宣言する!!」
「「「おぉ!!!」」」
ヨルムンガルドの声を受け、魔物達は大地を揺らす声で答える。
魔物達の歓迎に、ヨルムンガルドの言葉に、ハクは何の動揺もしない。
ハクは、ただただ、魔物達を眺めていた。
「……」
「ハ、ク……」
そこで、ムクはようやく、自分の感じている違和感に気が付いた。
笑わないのだ。
ハクが、この国に来てから、一切笑っていないのだ。
それだけでなく、全ての表情が乏しい。
笑うことも、悲しむことも、驚くことも。
ハクの表情にしっかりと現れてはいなかった。
それに代わり、ムクには表情があった。
今まで、吸血鬼になってから使っていなかった表情筋が動いている。
笑うことも、悲しむことも、驚くことも。
ムクの顔には、表情として現れていた。
「……っ」
違和感に気付いたムクは、顔を歪めてハクを見る。
ハクは、ただ静かに魔物達を見下ろしていた。
傷だった。
人間界で、村を1つ殺したハクに深く刻まれた、確かな傷だった。
ムクは唇を噛み、強く手を握った。
そんなムクの変化に気付くこともなく、ヨルムンガルドは2人の御前へと移動し、跪いた。
「おかえりなさいませ、魔王様。そして……、よくぞ召喚に応じてくださいました、我らが王よ!」
ハクの顔には、人間としての表情は無く。
ただ、魔王としての自覚だけが浮かんでいた。




