スター誕生 その9
翌日。荒らされた部屋の片づけをしていると、司が家までやって来た。曰く、「たいした授業が無いから仮病で抜けてきた。なにかやれることがあれば手を貸してやろう」とのことである。口ではそんなことを言ってはいるが、昨日の時点で部屋の惨状を知っていたから、片づけを手伝いに来てくれたのだろう。
普段ならば「学生なら学校に行け」と言ってやるところだが、まあ来てしまったものは仕方ないと都合よく考えを改め、俺は司に助けを求めた。「いいだろう」と腕まくりした司は、自らの領地であるソファーを起こす作業から始めた。
「しかし、これをまさに不幸中の幸いと呼ぶべきなのだろうな」
「そのソファーが無事だったことか?」
「馬鹿を抜かせ。リオが家に居なかったことだ。悪漢共がこの家に押し込んで来た時、彼女がいたら今頃どうなっていたことか」
「……それ、アイツに言うなよ。昨日は結構ビビってたからな」
「わかっているさ。私も、そこまで気の回らない女ではない」
ひっくり返された家具を元の位置へ戻し、腹いせに割られたらしい食器の欠片を拾い集め、土足で踏み荒らされたフローリングを雑巾で拭くなど、全ての片づけが完了したのが昼過ぎのことだ。その最中、覚えのない女性物の下着を司が見つけ、「これはなんだ」と詰め寄ってきたのには焦ったが、なんてことはない、莉緒の私物である。昨日は焦って家を出たので、莉緒の荷物を置いていたままだった。
弁明があっさりと済んだのはいいが、こんなものが部屋にあるままでは困る。下着の他、莉緒が部屋に置いていった荷物を全てまとめた俺は、司と共にマスクドライドへ向かった。店へと向かったのは、愛宕が店で仕事をする時間帯は、用心のために店に居てもらうということを、昨日のうちに聞いていたためである。
店の扉を開けると、なにやら様子がおかしいことに気が付いた。いつもは0か、そうでなくとも2人か3人程度しかいない客が、今日はどうしたことか店内の席のほとんどを埋めるほどいる。つまりこれはヒーローツール専門店としてのマスクドライドではなく、〝喫茶店〟としてのマスクドライドの客ということで、この現状は明らかに異常といえた。あの不機嫌店員とそいつが提供するコーヒーに、そこまでの価値があるとは思えない。
天変地異かなにかの前触れだろうかと半ば本気で考えているところへ、「いらっしゃいませーっ!」と、マスクドライドには似つかわしくない元気のよい声が聞こえてきた。キッチンからひょっこり顔を出したのは、なんと莉緒である。牛乳瓶の底みたいなダサい眼鏡を掛けて顔を隠し、見慣れぬエプロン姿ではあるが、あのよく通る声を聞き間違えようがない。
やってきたのが俺達であることに気が付いた莉緒は、こちらへ駆け寄ってくると、「どうぞこちらへ!」と空いていたカウンター席まで俺達を案内した。導かれるまま席に座った俺達は、何を言わずとも提供されたコーヒーを一口飲む。こういう時でもコーヒーはきちんと苦いのだから偉い。
「……莉緒。お前、何してんだ?」
「何って、お店の手伝いですけど? お家で待ってるだけじゃ暇ですし。というかそれを言うなら、お隣の一文字さんも何してるんですか。今の時間は学校じゃないんですか?」
「翔太朗の手伝いだ。なに、学校においての授業など、一日や二日出ないところで着いていけなくなるほど、柔な勉学の積み方はしていないさ」
「そういう問題じゃありませんよ。キチンと学校に通って、友達との思い出をひとつでも多く作らないと、わたしみたいに後悔しますからね」
思いがけない金言に、司が「うむ」と言葉を失っていたところへ、現れたのが愛宕である。すでにかなりグッタリとした表情なのは、この店始まって以来の客足にげんなりしているのだろう。
「おう、愛宕。ずいぶん盛況してるな」
「ええ、嫌になるくらいにね」と言って、愛宕はポケットから取り出した煙草を力なく咥える。
「莉緒ちゃんに釣られて、馬鹿男共が店長への用事が済んでも帰らないの。翔太朗、追い出して。殴っても構わないわ。法が許さなくってもあたしが許す」
「せっかくの客だろ。丁重にもてなせよ」
冗談でそう言うと、愛宕は俺の手の甲へ煙草の灰を落とそうとした。どうやらよほど苛ついているものとみえる。
そんな愛宕にもすっかり慣れた様子で「まあまあ」と場をなだめた莉緒は、こちらへ向き直し「それで」と続けた。
「ご注文は何になさいます? オムライス? カレー? それとも、今日からこのお店の看板メニューのロールキャベツ?」
「いや、飯食いに来たわけじゃない」と、俺は持ってきたカバンをカウンターに置いた。
「着替えとか、スマホとか、充電器とか。家に忘れていっただろ。持ってきたんだよ」
「あれ、わざわざすいません」とカバンを受け取った莉緒は、そのままキッチンへ引っ込み、カバンの代わりに白い大きな皿を二枚持って戻ってきた。見れば、その皿にはロールキャベツが盛られている。
「じゃ、これは今日荷物を持ってきて頂いたお礼です。残さずきちんと食べてくださいね?」
礼というなら無理に断る理由もない。俺と司はそこで昼食を済ませることにして、受け取った割り箸を紙袋から取り出した。「お召し上がれ」と挑戦的に言った莉緒は、俺達がロールキャベツを食うのを間近で観察しようとしたが、寸前のところで客に呼ばれてパタパタと駆けていった。
しっかりスープの染み込んだロールキャベツに舌鼓を打ちながら、働く莉緒へこっそり視線を向ける。恐怖に怯えていた昨日までの様子はどこへやら、明るさを取り戻したようではあるが、扉の開く音がするたびにビクっと身体を震わせているところを見るに、やはりまだ本調子というわけにはいかないのだろう。
食事をするうちに時間は過ぎて、時刻は昼の2時を回った。俺と司を除いた常連客を、「コッチも休憩したいのよ」と半ば無理やり愛宕が追い出したことで、店内には先ほどまでとは打って変わっていつも通りの寂しい光景が広がっている。汚れた食器を片づけた愛宕は、「やれやれ」と息を吐きながら俺達の隣へ座った。
「明日もこれが続くと思うと、勘弁して欲しいわね」
「いいんじゃないか。営業方針の転換だ。この店がこっちでも稼げるようになれば、お前の給料もきっと上がるぞ」
「それに、ヨシノのコーヒーとリオのロールキャベツは、もっと世間に広く知られてもいい」と司も俺に賛同する。
「給料より平穏よ」と呟いた愛宕は、カウンターへ上半身を預けた。
そんな愛宕へ微笑みを向けた莉緒は、ふと時計を見て何かを思い出したのか、「あっ」と声を上げた。
「愛宕さん、ラジオつけていいですか?」
「お好きにどうぞ」というやる気なさそうな愛宕の声を受け、莉緒はウキウキとした様子で店にあるラジオの電源を入れ、チャンネルを合わせた。莉緒曰く、「事務所のセンパイがメインで出てる番組がやってるんです」とのことだ。
「まあ、ほとんど面識はない方なんですけど、キャラが強烈で、時間があったらついつい聞いちゃうんですよね」
やがてラジオから聞こえてきたのは、よく通る低い男の声だった。いかにもラジオパーソナリティといったそのバリトンボイスの持ち主は、バズーカ斎藤というふざけた名前らしい。口髭を蓄えた白髪のダンディーなオッサンを勝手に想像しつつ莉緒を見れば、どういうわけか怪訝そうな顔をしている。
「どうした、莉緒。変な顔して」
「チャンネルは合ってるはずなのに、パーソナリティが全然知らない人になってるんですよ。番組が終わるなんて聞いてなかったのに」
「風邪でも引いて休んでるだけじゃないのか」
「そんなヤワな方ではないと思ってたんですけどねぇ。遅刻でもしてるのかな」
それからバズーカ斎藤のくだらないお喋りがしばし続き、それからリクエストナンバーを一曲挟んだところで、莉緒の疑問に対する回答が向こうから提示された。
『――さて、番組冒頭でもお伝えした通り、この番組のメインパーソナリティである牧野栞さんが、先週から引き続き体調不良でお休みとのことでしてね。私、バズーカ斎藤が代打を務めさせて頂いておりますが――』
それを聞いて「なーんだ」と気が抜けた声を上げた莉緒は、ラジオの電源を即座に落とす。知り合いが出ていないから聞く価値は無い、ということなのだろう。バズーカ斎藤、無念である。
「栞さんも人間だったんですね。なんか、逆に安心しましたよ」
体調不良に陥ることでようやく人間扱いされるとは。牧野栞とは、いったいどれだけハッスルした人物だったのか。
司もその点が気になったらしく、俺より先に「どのような傑物だったのだ?」と莉緒に訊ねていた。
「元気すぎるくらい元気な方ですよ……っていえば聞こえはいいのかもしれませんけど、なんかもうスゴイんです。番組の企画でワニと決闘とか平気でやりますからね。しかもノリノリで、水着で。虫もOK、蛇もOK、NG無しの突撃タレント。最後にお会いしたのは一週間前、〝夜逃げ〟のために事務所までこっそり荷物を取りにいった時だったんですけど、十一時時過ぎだっていうのに廊下で小躍りしてました。しかも、ひとりで。『もっとおどれーっ!』なんて壁に向かって言いながら。部屋から出てきた社長に怒られても、踊るの止めませんでしたからね。なんかもう、ヤバイです」
確かにヤバイ。少ない情報量と歯に衣着せた莉緒の言い方でもそれが伝わるほどだ。頭のネジがぶっ飛んでいるというか、怪物というか、少なくともマトモな奴でないことは間違いない。遠巻きに眺めているだけならばギリギリで愉快なのかもしれないが、絶対にお近づきにはなりたくないタイプの人類である。
しかし、その『栞さん』とやらが活動しているのは生き馬の目を抜く芸能界。これくらいのぶっ飛んだ人間でないとやっていけないのかもしれない。
そんな風に自分を納得させる俺は、「俺の仕事がヒーローでまだよかったな」と、自らが正気の世界にいることへの安堵を覚えた。
〇
その日の夜。突然、愛宕から電話がかかってきたのは、夜の見回りへ出る直前のことである。アイツから電話なんていうのは滅多にないことで、加えて莉緒が愛宕の家で厄介になっていることから緊急事態の予感を覚えた俺は、通話を繋げると共に「どうした?」と慌てて訊ねたが、紫煙を吹きつける音が受話口から聞こえ、即座に警戒を解くに至った。
『別に。ただ、翔太朗の耳に入れておきたいことがあってね』
昼間の労働の疲れが出ているのか、愛宕はいつもより気怠さ二割増しの調子で話を続ける。
『今日、店で話に出てきた〝牧野栞〟、覚えてる?』
「ああ、あの強烈なヤツか」
『そう。その強烈なヤツ。それで、その強烈なヤツのニュースをたまたまネットで見かけたの。都内のアパートで、死体で発見されたって。急性心不全だったらしいわよ』
「そうか」と俺が微妙な反応になったのは、顔はおろか声すら知らない牧野栞の死を聞いて、「そうか。どんな怪物でも死ぬときにはあっさり死ぬんだな」と哲学的な考えが頭を過ぎったというのもあるが、「そもそもなんでそんなこと知らせるんだ?」と愛宕が送ってきた訃報を疑問に思ったからである。
そんな俺の空気を電話越しに察したのか、愛宕は『なんか引っかかるのよね』と先んじて話し始めた。
『事務所の社長がその件についてコメントを発表してたんだけど、牧野栞は十日前から行方知れずだったっていうのよ。妙だと思わない?』
「何が妙なんだ、いったい」
そう訊ねると、愛宕は「こんなことまで説明しなくちゃならないの?」とでも言いたげに、呆れ交じりの大きな息を吐く。腹は立つが、わからないのは確かなので仕方ない。
『一週間前、莉緒ちゃんは牧野栞と社長がふたりでいるところを事務所で見てるのよ? それなのにあの社長は、十日前から行方が知れなかったって言ったの。つまり、社長は嘘を吐いてる。嘘を吐いてるっていうことは、一週間前のその日、牧野栞と一緒にいたことを、社長は知られたくなかったってこと。そこにどんな理由があるのかはわからないけど』
そこまで言われて、さすがの俺もようやく愛宕の考えまで理解が及んだ。俺は答え合わせをするように、ゆっくり愛宕へ問いかけた。
「……事務所の社長が、自分が牧野栞と一週間前に会ったってことを知ってる莉緒を消そうとしてる、ってことか?」
『想像の範疇は出てないけど、だいたいそんなところじゃないかしら』
そこで言葉を切った愛宕は、数秒間を置き、ドスの効いた声色で吐き捨てた。
『叩けば埃が出る相手よ。でも、叩き方間違えたら逃げられるわよ。しくじらないでね、翔太朗』
こう脅されては、しくじった時のことは考えたくもない。愛宕との通話が終わった後、俺は慌てて百白へ電話をかけた。




