スター誕生 その8
とりあえず、百白が無用の長物であることはわかった。こうなると早々に打つ手がない。百白と同じく無用の長物である俺は、「アイツらのうちひとりでも捕まえておけばよかった」と今さらになって後悔しながら家に戻り、莉緒が用意していた昼食(食器棚の奥深くに眠っていた冷や麦を使った冷製ペペロンチーノ風の料理だった)を食い、いつものようにトレーニングをこなしてからバイトへ向かった。
秋野邸においては、今やすっかり恒例となった筋トレ地獄。傍らにおいては来華が数学の課題に取り組んでおり、これはどうしても学校にいる時間だけでは処理しきれなかったものだという。
相変わらず家庭教師もクソもない状況だが、自らが筋トレすることにより来華を鼓舞しているのだと考えれば、この行為も無駄ではないような気がしなくもないから、人間の思考というのはまったく都合よくできているものである。
午後の4時を回ったころ。「おやつ」と称され与えられたプロテインバーをかじりながら、俺はスマホを弄って莉緒に関する情報を調べていた。すると、どこのアイドルグループの誰と仲が悪いとか、なんぞやという番組の司会の誰々とは共演NGだとか、誰が言い出したのかわからないような根拠のない眉唾話がゴロゴロ出てくる。
文字を読んでいるだけで居た堪れなくなり思わず視線を逸らすと、その先には間近に迫った来華の物憂げな顔があった。
「……マヤちゃん、どこ行っちゃったんだろうね」とさも悲しそうに呟いているところを見るに、俺のスマホの画面を横から盗み見ていたのだろう。
「そのうち帰ってくんだろ。心配すんなよ」
「で、でもっ! 悪い人に閉じ込められてるかもしれないんだよっ!」
閉じ込めているわけではないが、半ば軟禁状態であることは間違いない。事態が解決し、しばらく時が経ってもこの真相は来華にだけは話せないなと改めて確認しながら、「ただアイドルが嫌になって逃げただけかもしれないだろ」とさりげなく真実を伝えてやると、来華は「それ、あるかも」と大いに真剣に頷いた。
「事務所のあのウワサが本当だったら、ジューブンありえるよ、センセー」
思いがけず手がかりになる情報が聞けそうだ。「あの噂ってのは?」と訊ねると、来華は「これはあくまでウワサなんだけどね」と前置きし、神妙な顔で語った。
「あの事務所……社長が所属してるタレントに手を出してるってウワサがあるんだ。〝お気に入り〟がひとりいて、毎晩のようにその子を事務所に呼んでるみたい。マヤちゃん、真面目だから、そんな事務所にいるのが耐えられなくって逃げたのかも」
たいして手掛かりにはなりそうにないし、興味の欠片も湧かない話題が飛んできた。セクハラ云々で莉緒が命を狙われるとは到底思えない。
俺は「そうか」と短く言って、さっさと話題を切り替えようとしたが、来華は何を思ったのか突然立ち上がり、「こーしちゃいられないよセンセー!」と右拳を天に掲げた。
「もっと筋トレメニューを激しくしないとっ!」
「……なんの脈絡もねぇな。どうした、急に」
「悪の芸能事務所を倒してマヤちゃんを取り戻すのっ! てことで、今日は腕立てもう百回追加っ!」
俺はよほど「莉緒は俺の家にいるぞ」と教えてやりたくなりながら、黙々と腕立て伏せを開始した。
〇
胸から腕にかけての筋肉に強い倦怠感を覚えつつ秋野邸を出たのが6時過ぎのこと。帰路を歩いていると、背後から軽く肩を叩かれた。足を止めて振り返ればそこにいたのは、サングラスにマスク、野球帽と、不審者めいた変装をした莉緒である。「なんでここがわかったんだ?」とは今さら訊ねない。どうせ、後をつけてきたに決まっている。
「なんでここまで来たんだ?」と尾行の理由を聞くと、莉緒は「夕飯のリクエストを聞こうと思いまして」などと、どうでもいいことを言った。まさか、わざわざそれだけのためにここまでやって来るとは。生真面目を悠々通り越している。
「なんだっていい。お前に任せる」
「お言葉ですが、翔太郎さん。そういうのが一番困るんですからね。なんでもいいって言っても、塩ご飯出したら絶対怒りますよね?」
「極端な話すんなよ。限度があるだろ、限度が」
「その限度がわからないから、わざわざリクエストを聞きにきたんです。さあ、どうします?」
「お前が作りゃなんだって美味いだろ。任せる」
俺がそう言って押し切ると、長いため息をひとつ吐いた莉緒は、「ま、そういうことなら仕方ないですねぇ」と、どこか嬉しそうに肩を落とした。
「じゃ、スーパー寄ってから帰りましょうか。冷蔵庫もそろそろ空っぽです」
マンションへと戻る前にスーパーマーケットに寄った俺達は、冷蔵庫の在庫を補充するべく肉やら野菜やらを買い込んだ。買い物の途中に決まった本日の夕食はロールキャベツ。莉緒曰く、一番の得意料理とのことである。
清算を終えてスーパーを出ると、莉緒は大きなキャベツの入ったビニール袋を片手に語った。
「はじめて習った料理がロールキャベツなんです。それなりに年季入ってるんですから、覚悟してくださいね?」
「母の味、ってヤツか」
「ですね。いやぁ、イヤな思い出ですよ」
莉緒は眉をひそめながらも、どこか楽しそうな表情をしている。
「女の子は運動ができるだけじゃダメだって、家事は一通り叩き込まれまして。中でも料理は苦労しましたよ。お母さん、料理が得意なものですから、教えるのにも気合入っちゃって」
「ずいぶん昔気質な母親だな。俺の家なんて、父親の方がよくフライパン握ってたぞ」
「それなのに翔太朗さんは、お料理あんまりやらないんですね」
「だから、やるっての。時間と暇がある時は」
「立派なお婿さんになれませんよ、それじゃ」
そう言って莉緒はけらけらと笑った。なんだかバツが悪くなって、俺は思わず遠くに目をやった。太陽はもう間もなく地平線に沈む。空はどこまでも赤く焼け、目を細めなければならないほど眩しかった。
他愛のない話をしながら並んで道を歩き、6時半を過ぎるころにはマンションまで戻ってきた。エレベーターで5階まで上がり、自室の前までやってきた時、俺は思わず足を止めた。
それは明らかな異常を発見したためで、つまり俺の部屋の扉の鍵が壊され、誰かが侵入した形跡が残されていたのである。
「……莉緒、離れるなよ」
小声でそう指示して、莉緒を背後に隠した俺は、部屋の扉をそっと開ける。玄関から廊下にかけて、誰かが土足で踏み入った跡がある。音を立てないようリビングまで行けば、目につく家具は軒並みひっくり返されており、すっかり荒らされた後である。
ただの泥棒ならば警戒することもない――が、そうではないと考えた方がいい。棚の中に入れておいた通帳や、もしもの時のための現金に手を付けられていなかったからだ。
誰の仕業かはわからないが、ここまで来た理由は間違いない、莉緒を狙ってのことだろう。まさか、家の場所を知られているとは思ってもみなかった。
警戒しながら部屋をひとつひとつ周り、家に誰もいないことを確認した俺は、買ってきた荷物を床に置いて莉緒の腕を「行くぞ」と引いた。
「い、行くってどこにですか?」
「ここじゃないどっかだ。ヤバいのはお前にもわかんだろ」
「その前に警察ですよ、警察。警察ならなんとかしてくれますって」
「お前を狙って誰かがここまで来たのは明らかだけど、それを他の奴に証明できる証拠がない。警察は動かねぇよ」
俺の言葉に表情を曇らせた莉緒は、俺の腕を強く握った。
「……翔太郎さん。護ってくださいね、絶対」
〇
家を出た俺達が真っ直ぐに向かったのはマスクドライドだった。あの店であれば信頼できる奴しか出入りしないし、当面の安全は問題ないと考えてのことだ。
小走りで道を行き、店に到着したのが7時過ぎ。夜の客は珍しいようで、いつもであればカウンターの向こうで煙草を吹かしている愛宕も、すっかり気を抜いた様子でカウンター席に腰掛け、コーヒーを飲んでいる最中だった。
店に駆け込んできた俺達を見て驚いたように目を丸くした愛宕は、「どうしたのよ、翔太朗」と言いながら席を立つ。「何かあったのかい、タマフクロー」と言いながらキッチンの奥から八兵衛も出てきて、心配そうにこちらを見た。
「色々あってな。とりあえず、かくまってくれるか?」
莉緒と共に手近なテーブル席に腰掛けた俺は、俺達の対面へと席を移した八兵衛達へ莉緒についての一件を簡潔に説明した。話を受けて深刻そうに「なるほどね」と頷いた愛宕は、ポケットから煙草を取り出して火をつける。
「熱心すぎる〝ファン〟に狙われてるってとこかしら? アイドルの有名税としては、ちょっと高すぎるわね」
紫煙と共に吐かれた愛宕の言葉を受け、隣に座る莉緒はそっと俺との距離を詰めた。ぼんやりとしていた恐怖がいよいよ明確になったと見える。
「……あんまり脅すなよ、愛宕」
愛宕は俺の横で震える莉緒を見ると、気まずそうに前髪をかき上げ、火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
「……脅かしてゴメンね。美味しいコーヒー淹れてくるから許して」
席を立った愛宕はキッチンへと歩いていく。その背中を視線だけで追った八兵衛は、未だ小刻みに震える莉緒を見てから、そっと俺へ目配せし、それから自慢げに話し始めた。
「安心しなさい、田山さん。タマフクローは僕が知る限り最高のヒーローだ。君の安全は保障されているようなものだよ。まあ、最高っていってもアイアンハートには負けるけど、現役ヒーローで最高ってことなら間違いない。……それに、コレだってある」
そこで言葉を切った八兵衛は、いつの間にか足元に用意していたらしい段ボール箱を持ち上げ、テーブルの上に叩きつけるように置いた。覗いてみればその中には、なにやらアヤシゲなガラクタが大量に詰まっている。
莉緒は突然テーブルに置かれた謎の物体をしばし唖然と見て、「なんですか、コレ」と首を傾げた。
「僕の発明品サ! 例えば、見てよこの籠手! パンチと同時に強い電流を相手に流すんだ! 必殺技の名前は〝エレクトリカル・スマッシュ〟! インド象だって2秒で気絶する優れモノ! それにホラこのスプレー! 催涙スプレーだと思った? 違う違う。これは名付けて催〝笑〟スプレー! 一度相手に吹きかければ、たとえ相手がインド象でも笑いの渦に叩きこむよ! でもってコレはメガ・メガホン! これを使って思いっきり叫べば、インド象の鼓膜も破れるほどで――」
「奇抜な象牙密猟者か、お前は。狩り方が特殊すぎんだろ」
「勘違いしないでよ。象牙に興味は無い。ただ、インド象が相手なら、僕の発明品のスケールも大きくなるかなって」
「なるか。動物愛護団体に謝れ」
その時、莉緒の笑い声が隣から小さく漏れてくるのが聞こえた。それを見た八兵衛は、莉緒に悟られないよう軽く親指を立てて、俺へ「やったね」と合図を送る。八兵衛なりに気を遣って、緊張した空気を和らげようとしたらしい。そのためにインド象が犠牲になるべきだったのかは不明ではあるが。
やがて戻ってきた愛宕が4人分のコーヒーをテーブルに置きながら席に腰掛ける。「ありがとうございます」と言ってそれを一口飲んだ莉緒を見て、微笑んだ愛宕は「ねぇ」と優しく莉緒へ呼びかけた。
「莉緒ちゃん。コーヒー用意してる間に考えてたんだけど、私の家に来ない?」
「ど、どうされたんですか、急に」と焦った様子の莉緒はコーヒーをソーサーにそっと置く。
「向こうが翔太朗の家まで知ってたっていうなら、この店の場所も知られてる危険性が高いでしょ? だったら、ここに残るより私の家に来た方がいいんじゃないかなって思ったの」
「……でも、ご迷惑じゃありませんか?」
「安心して。この程度が迷惑って感じるくらいなら、こんなところで働いてないから。まあ、この煙が嫌いだっていうなら別だけど」
そう言って愛宕は新しい煙草を咥えた。莉緒は頬をほころばせながら、「全然!」と元気よく答えた。




