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スター誕生 その1

 顔面からあと1mもない距離には拳が構えられていて、あと1秒もしないうちに俺の右頬は打ち抜かれて、少なくとも3日は消えない大きな青あざが出来ることだろう。


 体感時間が極限まで凝縮して、逆立った神経が「避けろ」と命令を出している。しかし、身体は動かない。回避の速度を拳速が勝ることを知っているというのもあるが、どうせ避けたところで二撃目、三撃目が飛んでくることがわかっているからだ。


 痛みへの覚悟を決め、奥歯をぐっと噛みしめる。拳を構えるのは怒りに満ちた表情の司。視界の端にはこの状況を楽しんでいるように微笑む女の顔。部屋に漂うショウガの効いた肉団子スープの香り。


「歯を食いしばれッ!」と司は叫ぶ。


「もう食いしばってる」と俺は心中で返す。


 ああ、ちくしょう、クソッタレ。どうしてこうなった。





 説明しよう。事の始まりは四月の陽気が気持ちよく降り注ぐ、今朝8時のことである。


 夜の仕事に疲れた俺がまだ布団の中で眠っていたところ、突然、チャイムが家中に鳴り響いた。その不躾な音により、俺は夢の中から強制的に引きずり出されたが、どうせくだらん勧誘か何かである。わざわざ出てやる必要もない。


 早朝の来訪者を心中でばっさり切り捨てた俺は布団を被りなおしたが、チャイムは十秒ほどの間隔で押され、不快な音は一向に鳴りやまない。おまけに扉を叩く音までしやがる。


 新聞勧誘だか宗教勧誘だか布団の訪問販売だか知らないが、玄関扉の向こうにいるのが迷惑者であることは間違いない。文句のひとつでも言ってやらなきゃ気が済まない。


 布団を蹴飛ばした俺は早足で玄関へ向かい、「朝っぱらからふざけやがって」という台詞を吐きながら扉を開けた。そこにいたのは、帽子を目深に被り、大きなリュックを背負った見知らぬ女だった。


 怒る俺を見て、やや目を丸くしたそいつは、「あ、ども、スイマセン」と軽く謝って頭をちょこんと下げた後、俺の脇をスイと抜けて玄関へ上がっていく。そのあまりの自然さに俺が呆気に取られるうち、そいつは靴を脱ぎ、丁寧に揃え、真っ直ぐリビングへ向かい、最近はすっかり司の縄張りと化したソファーへ浅く腰掛けた。紛うことなき住居不法侵入である。


 あの犯罪を犯罪とも思わない態度。間違いない妖怪だ。現代における座敷わらしだ!


 半分寝ぼけた頭のせいでそんな考えが頭に過ぎり、しかし「そりゃないだろう」とすぐさま思い直したはいいが、一度妖怪の侵入を許してしまった以上、対処を誤れば大事になる。警察を呼んだが最後、「この人に連れ込まれました」なんてあの女に言われれば不利なのは俺だ。被害者と加害者の立場が綺麗に逆転する。力づくで追い出しても結果は同じ。


 いつの間にか自分がかつてない窮地に立たされていることを実感しながら、俺は玄関から女に「お前、誰だ?」と訊ねた。


「誰って、聞いてないんですか? 連絡しておくって、昨日のうちにおじさんから聞いてたんですけど」


「聞いてない」と冷や汗を拭いつつ答えると、得体の知れない女は「じゃあ、もう少しお待ちください」と答え、こちらへニコリと笑いかけてくる。友好的な態度が却って怖い。刃物のひとつでも振り回してくれた方がまだ対処のしようがある。


 とりあえず逃げよう。それで、愛宕を援軍に呼んできてあの妖怪をどうにかしてもらおう。そんな考えが頭の片隅に浮かんだのと、「やあやあ本郷クン、いい朝だね!」という声が背後から聞こえてきたのは同時のことだった。振り返れば、そこにいたのは元ヒーローの俳優、百白皇である。


 この男のノリは朝から相手するには脂っぽすぎて胃がもたれる。そもそも、なぜコイツがここにいるのか。通常であれば「お呼びじゃない」と虫を払うかの如く追い返すところだが、猫の手も借りたいこの状況ではそうもいかない。百白の腕を掴んで家の中へ引きずり込んだ俺は、ソファーに座ってこちらへ手を振る女を指しながら言った。


「ちょうどいいとこに来たな、百白。あの妖怪どうにかしてくれ」


「妖怪ってヒドいこと言うね。かわいい女の子なのに」


「かわいかろうが何だろうが、突然家にやってきて、目的も言わずにソファーに座るなんて奴、妖怪以外の何者でもないだろ」


「まあ、それは否定しないけどさ。でも、かわいいことは間違いないだろう? ボクの自慢の姪っ子だよ」


「お前馬鹿か? 人の話聞いてんのか? 顔は問題じゃねぇ。問題なのは行動だ」と言い返したところで、俺は百白が発した〝姪〟という言葉に遡って気が付いた。


「……待て。アレはお前の親族か? つまりアレは、お前が連れてきたのか?」


「まぁね。おっと、かわいいからってカノジョに惚れない方がいいよ。ああ見えて、なかなか小悪魔的でね。血筋ってトコかな」


 俺は「ふざけろ」と言いながら百白の脳天に拳骨を落とした。一発で勘弁してやったのは、姪の前であまりに恥をかかすのはいかがなものかと、下手な温情が頭を過ぎったからである。


 それから俺は人数分のコーヒーを用意しつつ、百白から簡潔な説明を受けた。


 妖怪女の名前は田山莉緒。いわゆる、〝サブカル系〟というヤツなんだろうか。野暮ったい黒縁の眼鏡、高校の制服風のブレザーに派手な色合いのシャツ、柄の入ったミニスカートと、改めて見ると中々目の痛くなる恰好をしている。少なくとも、埼玉では滅多に遭遇しないタイプの服装だ。


 曰く、歳の離れた姉が若くして産んだ子で、今年の春から大学の一年生ということである。姪ということはそう遠くない血縁関係のはずなのに、雰囲気といい顔といい、百白にあまり似ていないが、女は化粧で簡単に化ける。気にすることのほどでもない。


 淹れたてのインスタントコーヒーをそれぞれに手渡し、同じテーブルに着かせた俺は、前置きは抜きにして本題を切り出した。


「で、百白。どうして俺の家まで姪を連れてきた? かわいい姪っ子を紹介したいってわけでもないんだろ」


「話が早くて助かるよ。彼女をキミに少しの間だけ預かってもらおうかと思ってさ」と百白はコーヒーをふうふうと冷ましつつ言う。


「アホか。ここは託児所じゃねぇぞ。帰れ、すぐに」


「そう言わないでよ。実は、彼女の家庭でちょっとしたトラブルがあってね。それ自体は身内の問題だからボクがなんとかするんだけど、その間の宿がない。そこで、一週間だけキミの部屋を貸して貰えないかなって」


 百白の説明の後に、「お父さんとお母さんがわたしのことで喧嘩したんです」と田山から補足が入る。淡々としたその声にはどこか達観した風な響きが感じられて、人には言えない苦労が色々とあったのだろうなと思わせるには十分だったが、出来ることならば俺だって出会って間もない赤の他人を、まして若い女を家に置きたくはない。


 俺は「事情はわかった」と理解を示した上で、さらに「でも」と続けた。


「それなら、お前の家に住ませりゃいいだろ。部屋くらい余ってんだろうが」


「ボクは芸能人だよ? 常にパパラッチに狙われてる。いくら身内とはいえ、女の子を家に上げるわけにはいかない。その点、キミの家なら安全ってわけ」


「そんなこと知るか。パパラッチだろうがなんだろうが――」


「おじさんの家には住みたくありません。クサいし」


〝クサい〟。田山の口からふいに飛び出した、シンプルかつ抜群の破壊力を備えた三文字。誰かに言われたらただただ落ち込む他ない言葉。たとえ身内からといえど、いや身内だからこそ、それを言われた百白の落ち込み具合たるや、想像すら耐えがたいものがある。


 自分に言われたわけでもないのに、俺はなんとなく落ち込みながら百白に訊ねた。


「……俺以外に頼れる奴はいないのか」


「……いない。ほら、ボク、友達いないし。クサいし」


 そう言って百白は涙目で胸を張る。堂々とした姿が却って虚しい。同情と哀れみが一度に押し寄せ悲しくなっているところに、「お願いできませんか?」と田山が頭を深く下げ、情にほだされた俺はつい「わかった」と答えてしまった。


 司の怒りが爆発する、およそ10時間前の出来事である。


計10話の短編です。

10日間毎日更新ですの。

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