第3話 エクスペンダブルズ その1
時計の針はぐるぐると回り、あっという間に9月の末である。少し前までは風に揺れていた黄金色の穂も、今となってはすっかり刈り取られており、禿げた畑の素肌が見えるばかりだ。蝉の声もすっかり寂しくなって久しい。
久しいと言えば、あの日以来、一文字の姿を夜の街で見かけない。学業とヒーローの両立が難しくて活動停止しているのか、それとも辛くて辞めてしまったのか、はたまた活動場所を移したのか……多少なりとも気にならないわけでもないのだが、俺は――〝本郷翔太朗〟は現在、そこまで気が回るような状況ではなかった。
話は9月中旬まで遡る。その日の夕方、家庭教師のバイトのために家を出る直前に、俺は秋野夫人から電話を受けた。
『もしもし。本郷先生、まだお家かしら?』
「ええ、これから出るところですが。どうしましたか、奥様」
『それは良かった。実はね、来華ちゃんの体調が悪くって。急で申し訳ないんだけど、今日の家庭教師はお休みにしてもらって構わないかしら?』
「構いませんよ。それより、来華さんの体調は大丈夫ですか?」
『それが、あまり芳しくないみたいで……。もしかしたら先生にはしばらくお休みしていただくかもしれないわ』
「わかりました。では、来華さんには、〝早く元気に〟とお伝えください。勉強というものは日々の積み重ねですから」
『あら先生、相変わらずいいこと言うのね』
「いえいえ、思ったことを言っただけですよ」
『謙遜しなくってもいいのよ。とにかく、伝えておくわ。じゃあ、また何かありましたら連絡しますから』
その翌日。俺は再び秋野夫人から連絡を受け、残酷なことに無期限の休養を申しつけられたのである。
家庭教師のバイトをしていない本郷翔太朗は、傍から見れば自由人、悪く言えば人生の堕落者、端的に言えばニート。収入が減ったというのも痛いが、平日の昼でも家にいる俺に対しての、マンション住人や大家からの視線の方がずっと痛い。ちくちくとした視線に堪える日々が続く中、定期的にかかってくる秋野夫人からの連絡によれば、来華は学校に行かないどころか、すっかり自室に引きこもってしまっているらしい。また、その理由を尋ねてみても答えようとしないのだとか。
家族では、互いの関係が近すぎるゆえに解決出来ない問題もある。今回もその類の問題なのではと考えた俺は、9月の最終金曜日の夜。事態の打開のために動くことにした。
時刻は深夜2時過ぎのことである。ヒーローの仕事は臨時休業とし、目立たない黒の半袖とジーパンという姿でマンションを出た俺は、道中立ち寄ったコンビニで本日発売の〝Hero,s〟最新刊を購入し、その足で秋野家邸宅へ向かった。
辺りには、車はおろか歩行者すらも見受けられない。10m先で針が落ちてもわかりそうな静寂の中に聞こえるのはそよ風の音ばかりで、誰も居なくなった世界にひとり取り残されたような気分になる。
ほどなくして目的地付近に到着した俺は、邸宅を遠巻きに眺めてみる。常夜灯が玄関を照らしているものの、部屋はどこもカーテンが閉まっており、家族一同就寝中であることがわかる。
チャンスは今、誰もが眠りについているこの時間しかない。
右を見て、左を見て。念入りに通行人がないことを確認した俺は、泥棒顔負けの素早さで邸宅を囲む石塀を乗り越え敷地内に潜入した。そのまま一気に庭を駆け抜け家に近づき、室外機と窓の出っ張りを足場にして巧みに壁をよじ登った俺は、2階にある来華の自室ベランダへ辿りついた。我ながら、想像以上に上手くいったものだ。ヒーローを廃業して、いっそのこと泥棒になるのも良いかもしれないという、邪な考えが頭をよぎる。
「いかんいかん」と頭を振り、雑念を払った俺は、窓を強めに数度叩いた。しばらくすると、内側のカーテンが不安そうに開き、僅かに空いた隙間から怯えた表情をする来華が控えめに顔を覗かせた。
辺りを見回す来華は俺を目にした瞬間、その表情を困惑と驚き、それに喜びが混ざり合った複雑なものにした。
「センセー……?」
「そうだ。久しぶりだな、来華」
今にも大声を上げそうな来華に、人差し指を唇に当てて「静かに」とジェスチャーを送った俺は、優しく微笑みかけた。
「信じられないかもしれないけど、妙な目的で来たわけじゃない。入れてくれるか?」
「ミョーな目的じゃない、なんてことはわかるけどさっ。でも、どしたの?」
「サプライズだよ。普通に見舞いに来るんじゃ、面白くないだろ?」
「やるじゃん」と嬉しそうに頷いた来華は静かに窓を開け、俺を部屋に招き入れる。少し前までは、部屋に入れば嫌でも目についた、片隅に積まれた雑誌などが綺麗に片づけられている。学校を休んでいる間、持て余した時間を部屋の掃除に費やしていたとみえる。
「思ってたより元気そうだな」
「こう見えて、結構チョーシ悪いんだからねっ」
わざとらしく「ケホケホ」とせき込んだ来華は、女の子座りでベッドに腰掛けた。
「それで、センセー。お見舞いなんだから、トーゼン手土産はあるんだよねっ?」
「当たり前だろ。俺は大人だぞ」
そう言って俺は懐から先ほど購入した雑誌を取り出し、来華に手渡してやった。
「ほらこれ、まだ買ってないだろうと思ってな」
「わあ」と、目を輝かせて雑誌を受け取った来華は、大げさなくらい大事そうにそれを抱きしめた。
「センセー、命拾いしたねっ。もし何も持ってきてなかったら、大声出してたとこだったよ」
「勘弁してくれ」と半分本気で言うと、来華は「冗談だって」とくすくす笑う。しかしその笑顔からは、いつものような底抜けの明るさは感じられない。何かあったに違いないということはひと目でわかった。
「なあ、来華。聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」と、来華は雑誌のビニール包装を剥きながら答えた。
「そ。お前、一体〝何があった〟?」
曖昧なその質問に手を止めた来華は、あからさまに表情を曇らせた。何かあったことは間違いない。
「な、何がって……何のことっ?」
「とぼけるなよ。体調悪くて学校休んでますなんて言い訳、俺には通用しないからな」
「それは」と目を泳がす来華の両肩をしっかりと掴み、俺は真剣な眼差しを向けた。
「力になってやるから話してみろ。今の時間だったら、家の誰かが聞き耳立ててるってこともないだろ」
「でも」と、それから来華はすっかり黙ってしまった。しかし、ただ黙っているわけではなく、何か思案を巡らせているのであろうことは、右へ左へと迷ったように動く瞳から明らかだった。
「……信じるからね、センセーっ」
やがて来華は決心を固めたのかぽつぽつと語り始めた。
「司ちゃんに、ついてなの」
「一文字がどうかしたのか?」
来華が説明するところによると、ある日突然一文字から連絡が入り、そこで「もう私に関わるな」というようなことを言われたらしい。何があったのかを尋ねても、一文字は何も答えようとせず「このことは誰にも言わないでくれ」と繰り返すばかりだったのだとか。下手な冗談であってくれと思いながら学校へ行けば、一文字の姿がクラスに無い。慌てて電話をかけてみても、解約したのか繋がらないし、家に行っても誰も出てこない。「誰にも言うな」と言われたから、警察に連絡も出来ないし、学校の教師にも相談できない。
結局、一文字のことがあまりに心配過ぎて、来華は今日まで学校にも行けなかったのだとか。
雑誌で顔が隠されているその表情はわからない。でもその声は、溢れる思いをせき止めるように震えていた。
くだらない約束を馬鹿みたいに守って、ずっと痛みに耐えてきて。一文字に――親友に、「誰にも言うな」と言われたせいで。
あの馬鹿女。あの大馬鹿女。どんなことに巻き込まれているのかは知らないけど、大事なことをすっぽかしちゃどうしようもないだろ。ご自慢の父親は、〝友達を大事に〟とは教えてくれなかったのかよ。
「……わかった」
俺は人差し指で来華の頭を小突いた。
「来華、アイツのことは俺が何とかしてやる。だからお前は心配しないで、いつもみたいに能天気に笑って待ってろ」
「何とかって……センセーに何とか出来るの?」
「当たり前だろ。俺を、誰だと思ってるんだ?」
「……口が悪くて、態度も悪いけど、いざって時に頼りになるフリーター……」
「正解。……ただし、最初の2つは余計だ。ちなみにフリーターってのも要らん。余計なこと言わないで、頼りになるセンセーって言っておけばいいんだよ」
来華は顔を上げて「うん」と微笑んだ。その眼に薄っすら溜まった涙に見ないフリをした俺は、サムズアップを置き土産に部屋を後にした。