孤狼の血 その3
継枝数人は幼少期の頃から何よりも自分の正義を信じていた。弱きは助けるべきである。正しい者は勝つべきである。悪は滅ぶべきである。
そんな、青く、純粋で、真っ直ぐな正義。
心の底からそれを信じていたのと同時に、彼はそれが実現不可能であることを知っていた。
助けたくても助けられない人がいる。正しい者が負ける時もある。正義があればその裏には間違いなく悪も生まれる。それが決して覆らない世界の真理だということを、彼は心のどこかで理解していたのである。
やがて大人になった彼は警察官という道を選択した。悪が絶えることのないこの世界を、善人にとって少しでも住みやすくするために。自らの正義を、ほんのわずかでも現実のものとするために。
そんな彼にとって不愉快な存在がヒーローだった。現在のようにタレント化していない当時のヒーロー達と継枝の考えは、非常に似通っていたといえる。しかし、だからこそ継枝はヒーローという存在が許せなかった。
継枝は、自分の正義を自分だけのものにしておきたかった。
不快感はだんだんと苛立ちへ変わり、苛立ちは膨れ上がり怒りへと変わり、怒りはやがて黒く色づき敵対心へと変わった。『ヒーロー登録法』が制定され、ヒーローという存在が正義を失い形骸化しても、それは変わらなかった。
自身の正義しか認めない継枝にとってヒーローは〝悪〟で、そして悪は滅ぶべきものだ。たとえ残ったのが形だけでも、その存在すら認めたくなかったのである。
そんな折、警察内部で持ち上がったのが、今や幻となった〝初代〟特装隊創設の話だった。継枝は当然のようにこれへの入隊に志願した。特装隊がヒーローに取って代われば、正義は自分だけのものになる。そう考えてのことだった。
この頃、藤堂重蔵もまた特装隊への入隊を志願した。藤堂に対してどこか共感を覚えていた継枝は、彼が同志となることを喜んだ。彼の本意も知らずに。
藤堂が特装隊への入隊を志願した本当の目的。それは、隊の創設を提唱した稲葉という男を探ることだった。藤堂は稲葉に対して、特装隊へ装備を提供する予定となっている企業から多大な献金を受けているのではという疑いを持っていたのである。
藤堂の捜査によりその疑いを証明された稲葉は職を追われ、辞職を余儀なくされた。稲葉というエンジンを失った特装隊は、動き出す前に瓦解した。
その時、継枝が恨みを向けたのは、不正をしていた稲葉ではなくそれを暴いた藤堂であった。
俺の目指した正義を邪魔するあの男は〝悪〟だと、一片の迷いなくそう考えた。
継枝は誰の命令を受けたわけでもなく独断で捜査を行った藤堂の責任を上層部に問い、彼を辞職に追い込もうとした。さすがにそれは叶わなかったが、しかし、藤堂の出世への道を断つことには成功した。
それから幾年も経ち、〝二代目〟特装隊の創設が決定される。当然、継枝が働きかけた結果である。
今度こそ、誰にも邪魔させない。
今度こそ、俺の正義を実現させる。
野心と呼ぶには青すぎる炎は、継枝の中で以前よりも勢いを増している。
〇
「――藤堂の野郎は本当に来るのかね」
継枝の背後で、ひとりの警察官が煙草の吸殻を踏みつぶしながらそんなことを呟いた。まったく何もわかっていない男だと、継枝は内心で舌打ちする。
「来るのか」だと? 来るに決まっている。奴はそういう男だ。そういう、人が本気で目指しているものを、にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべながら平気で台無しにする男だ。
来る。来てくれなければ俺が困る。あの男を俺の世界から消してしまえる機会を、もう逃したくはない。
デジタル時計の表示盤には、『23:55』と数字が並んでいる。藤堂が仕掛けるはずならば、そろそろ動きがあるはずだと、継枝は警戒を強める。
継枝他、合計六人の警察官は取引場所として指定した廃倉庫にいた。その中には野水の顔もある。同じ〝特装隊〟であるはずの四ノ原の姿が無いのは、継枝が彼女を戦力として数えていないためである。彼は女という存在を、扱いやすい道具という目でしか見たことがない。
もちろん、彼の手駒はこれだけではなく、倉庫の外にも十八名の警察官を忍ばせているから、継枝本人を含めれば合計で二十五名。さらにいえば、取引を持ち掛けてすぐにこの場所に警官を張らせ、誰も近づけないようにしたから、向こうがあらかじめこの場所に細工していたということも考えられない。冴えない中年ひとりを捕らえるに抜かりはない――というよりも、十分過ぎるほどの準備だと思われたが、継枝からしてみればこれでもまだ不十分であった。彼にとって藤堂重蔵は、それほどまでに巨大な敵なのである。
やがて、約束の深夜二十四時を迎えた。藤堂の姿は未だ現れない。向こうの出方を待つしかない継枝は、冬空で融ける氷をじっと眺めるような歯痒い時間を過ごした。
――まさか、来ないつもりか。それとも、安全な場所から待ちぼうけを食らう俺達の様子を見て楽しんでいるのか。
焦りと不安が継枝の胸中に押し寄せたその時、トランシーバーに繋げていたイヤホンから部下の声が聞こえてきた。
『警視正。百白皇が複数の男女と共にそちらへ向かっているようですが、どう致しましょう』
――百白皇。順調だった俺の計画を台無しにした奴のひとり。こんなタイミングで来るなんて、藤堂の差し金に決まっている。
百白来訪の知らせを聞いて冷静でなくなったのは継枝だけではない。野水もまた同じだった。音が周囲に漏れるほど強く奥歯を噛みしめた彼は、近くにあったコンテナを無表情で蹴りつけた。
「警視正、俺が――」
「駄目だ。野水、お前はこちらの切り札だ。ここにいろ」
野水を制した継枝は、続けてトランシーバーで部下へと呼びかける。
「追い払え。しかし、穏便にとは言わん」
『了解です。どうやら、全員揃って酔っぱらっているようですし、適当に脅してやりますよ』
「そのようにな。だが、油断はするな。どこに罠が仕掛けられているかわからん」
しかしどうしたことなのか、『了解』の声が返ってこない。トランシーバーの不調か、それともなんらかの方法で電波を遮ったのか。
「……おい、どうした。応答するんだ」
『――それは無理な話だろうな。奴は今頃、夢の中だ』
ボイスチェンジャーを通したような極端に低い声が聞こえて、継枝は額から汗が噴き出てくるのを感じた。
やはり来たか。俺の正義を悪戯に阻もうとする〝悪〟が。
動揺を押し殺した継枝は、「お前は誰だ」と喉の奥から声を絞り出す。
『貴様らに正義の鉄槌を下す者だ。覚えておけ』
通信はそこで切れた。自分以外の誰かが軽々しく〝正義〟を口にしたことに強い憤りを覚えながらも、継枝は大きく深呼吸して自分の感情を抑え込み、それから冷たく呟いた。
「……何としてでも奴らを捕らえろ。手段は問わん」




