第2話 ランボー その5
翌日。絶好の洗濯日和となった昼下がり。タマフクローのスーツが詰まったリュックを背負う俺は、憎々しいほど輝く太陽に目を細めながら家を出た。
天気がいいから遠足というわけじゃない。今日は2週間に一度のスーツメンテナンス日なのである。カメラ以外に機能が無いこのスーツにメンテが必要なのか、甚だ疑問ではあるが、クリーニングも兼ねた作業なので、匂いが気になる汗ばむ季節にはやらざるを得ない。
俺の目的地は石ノ森駅前にある喫茶店だ。一見したところそこは、無駄に高価そうなレトロな家具を持て余している年中暇な喫茶店だが、それは世を忍ぶ仮の姿である。
その正体は、俺達ヒーローの〝商売道具〟の取り扱いを行う専門店だ。その名を〝マスクドライド〟という。
ヒーローが法的に求められた存在であるのと同じく、火器さえ取り扱うこともあるヒーローツール専門店もまた、その存在が公に認められているものである。現に、東京を中心に全国展開しているヒーロー活動用具専門のチェーン店すらあるほどだ。にも関わらず、個人店の多くはここと同じように人目をはばかって看板を出している。詳しい理由は知らないが、創作物に憧れたバカが多いだけだということは容易に想像がつく。
喫茶店の硝子扉を開けると共に、漂ってくるのはコーヒーではなく煙草の香り。カウンターに立つ、馴染みの女店員が口に咥えているソレが原因である。
この気だるげな女店員、名前を愛宕愛乃という。愛という文字がふたつも入っている名前なのにまったく愛想が感じられないのはさておき、顔立ちは整っているため、常連には彼女のファンも多いらしい。そもそも、常連客自体がこの店に少ないのだから、ファンなんていってもせいぜい10人が関の山だろうが。
「……いらっしゃい、翔太朗。注文はお決まり?」
愛宕は煙草をふかしながらそう尋ねてきた。
「よ、愛宕。ホットコーヒーを豆乳たっぷりで頼む」
「豆乳ね。砂糖は?」
「ガムシロップを3つ。それと、はちみつを小さじ半分。……にしてもお前、相変わらずやる気の感じられない接待だな」
「客が入ってくるたびに、こんなやり取りするあたしの身を考えてもみなさい。ダウナーにもなるでしょ?」
「気持ちはわかる。だから、俺が来た時は顔パスでいいぞ。せめて、今日みたいに客が居ない時だけでも。俺もこのやり取りは好きじゃないんだ」
「ダメよ。それがバレて、一度あいつから説教喰らったんだから。『君はこの店の看板娘なんだから、そこのところをわきまえてくれなくちゃ困る』って。〝あの〟調子で一時間もよ?」
「……そりゃ災難だったな」
「そーでしょ? ……というわけで、顔パスの件は却下」
煙草を灰皿に押し付けた愛宕は、吸殻で店の奥を指した。
「とりあえず……〝用意するの面倒だから奥に入って勝手にやって〟」
……さて、ここまで見ればわかると思うが、愛宕と俺によるあくびが出るような茶番劇は、マスクドライドへ入るための合言葉である。でなければ、誰が好き好んでこんな芝居がかったやり取りをするというのか。
はっきり言えばこんな取決め、店主以外は誰も得していない。店の売り上げが芳しくないのも、これのせいじゃないかと睨んでいる。しかし、あくまで客のひとりでしかない俺にはどうすることも出来ない。出来ることと言えば、せいぜいこうやって苦労を共にする者と愚痴を漏らすことくらいだ。
「じゃあな、愛宕。頑張れよ」
「ええ。今日は2箱も吸わないように我慢してみる」
「終わらない禁煙活動じゃなくて、店番の方だよ」
「ソッチは保証しかねるわね」
「そうかよ」と残して俺は、誰1人として普通の客が居ない店内を尻目に、指示された通りカウンターを超えた先のキッチンへと進む。
奥まったところに並ぶ大小2つの冷蔵庫。そのうちの小さいほうの扉を開くと、地下へと続く階段が現れる。そこを真っ直ぐ降りていくと、やがて木製の扉が見えてくる。その扉を開けた先の、壁一面に怪しげな道具と古いヒーローのポスターが貼りつけてある趣味全開の部屋こそが、俺の目的地である。
扉を開けると、部屋の片隅でスパナを片手にうんうん唸っている男が「おお」と顔をあげた。
「誰かと思いきやタマフクローじゃないか。いらっしゃい」
世の中広しといえど、素面の状態で俺のことを恥ずかしげもなくタマフクローと呼べるのは、下ネタ大好き中高生男子かコイツくらいなものだろう。
「……来るたび言ってるだろ。翔太朗でいいって」
「バカ言っちゃあいけないよ。ヒーロースーツを手にした時から、君は四六時中タマフクローなんだ。ヒーローってのは、そういうもんなのサ」
痩せこけた頬に浮き出る無精ひげ、薄暗い室内にも関わらず掛けられた丸ぶちサングラス、やたらと汚れたアロハシャツ。見るからに正気の沙汰とは思えない格好のこいつの名は、立花八兵衛という。無駄に高い技術力を存分に振るって、大して金にもならない仕事を嬉々として引き受ける、見た目の通りの変わり者である。
ヤツ曰く、「ヒーローに尽くしている時が僕にとって1番のクール」だとか。その言葉の意味はわからないし、わかりたくもないし、そもそもこんなどう見てもヤバい男と関わりたくもないが、メンテに掛かる値段の安さと仕事の速さは折り紙つきなので、ヒーローとしてのキャリアを歩み始めた当初からなんだかんだと世話になり続けている。
しかし、やはり思う。タマフクロー呼びはどうにかならないものだろうか、と。俺はどうせダメだろうなとわかっていながら、いつものように抗議の意を示してみる。
「いいか、八兵衛。確かに俺はヒーローだ。でも〝今〟は、本郷翔太朗としてここに来てる。頼むから名前で呼んでくれ」
「いいじゃないか。常にヒーローネームで呼ばれていた方が、身が引き締まるってものじゃない」
「ああ引き締まるよ。誰かが聞いてるんじゃないかって緊張と、ふざけた名前で呼ぶんじゃねぇって怒りでな。思い出せ八兵衛。この前、愛宕の前で俺のことをタマフクローって呼んだ時に散々嫌味言われただろ。しかも、何故か俺も巻き込まれた」
「女性にはクールがわからないのサ。いいかいタマフクロー、ヒーローってのはね――」
「もういい」
議論を交わすことを諦めた俺は、八兵衛の意見を右手のひらで遮った。この男の話の通じなさは、相変わらず一級品だ。
「わかったよ。お前の勝ちだ」
「わかってくれたようで何よりだよ、タマフクロー」
八兵衛は左右の口角を吊り上げてニンマリする。
「それで、ご用件は何かな?」
「コイツのメンテ、要件はそれだけだ」
そう言って俺はリュックを放り投げた。「どれどれ」とリュックからスーツを取り出した八兵衛は、無造作に広げたそれにしかめ面を向ける。
「見た目は良い。……でも、相変わらずそれだけ。淡泊なスーツだ」
八兵衛はひとり納得したかのように頷く。
「どうかな? ギミックを付けるっていうのは?」
また始まった。コイツはことあるごとに俺のスーツに難癖をつけ、ギミックを追加しようとするのである。悪の改造人間軍団と戦う訳でもない現実のヒーローにはロケットパンチなんて必要ないと、何度も言ってるというのにまったく聞かない。
「いや、何も付けなくていい。だから早く――」
「タマフクロー、聞いて欲しい! 僕にいいアイデアがある! まずこうだ! 右腕からはシャキーン! なんとびっくり仕込みナイフ! 左腕からはいざという時の電気ショック! 脚はどうだ? 武器でもいいけど、飛べる方がもっといいんじゃないかな? そこでこれだ! ブーストファイア! ただし、燃料の関係で10秒間しか飛べないから要注意! 背中のマントをロケットパックに換装するって手もあるけど、やはりヒーローたる者マントは――」
「日本語で話せ」
「つまり、改造人間、やってみない?」
「却下だ」
俺は趣味の特撮世界の住人と化した八兵衛の妄言を一振りで薙ぎ払う。
「普通にメンテナンスだけ。漫画の世界じゃないんだから、改造人間なんてのは必要ない」
「でっ、でもタマフクロー! 最近は科学技術の発展もある! いくら君とはいえ素手のままじゃ――」
「そん時はそん時に考える。それに、大抵の問題は割と素手だけでどうにかなるもんだ」
何か言いたげに両拳を握り、身もだえしながら俺に目をやる八兵衛だったが、やがて折れたのかがっくりとうなだれた。
「……オーケー、わかった。君はそういうタイプのヒーローだものね」
そう言って八兵衛は、壁に掛かったひときわ大きいポスターを眺める。
「彼と――アイアンハートと同じように、外連味は好まないことはわかっているサ」
「……またその話かよ」
アイアンハートとは、八兵衛が敬愛してやまないヒーローである。筋骨隆々の身体を赤銅色の全身タイツで包む姿は、旧時代のヒーローを象徴する格好である。ヒーロー登録法の施行に異を唱え、10年以上も前に引退したとのことだが、全盛期は絶大という単語では形容しきれないほどの人気を誇るヒーローだったとか。
……それにしても、不覚にも〝ぼくのかんがえたさいきょうのヒーロー〟話よりもさらに面倒な話を誘発してしまった。これから始まる長台詞に備え、俺は心のスイッチをオフにする。
「……彼は最高のヒーローだった。困っている人がいれば、どこからだって駆けつけた。東に泣いている子どもが居れば、行って『いないいないばあ』とあやしてやり。西に荷物を抱えたおばあちゃんが居れば、行っておばあちゃんごと荷物を抱える。南に銀行強盗が居れば、鉄拳制裁で解決し。北に大規模な喧嘩があれば、行って全員まとめて叩きのめした。善を信じ、正義を抱き、信念を貫き悪と戦った。アニメや映画のような特殊能力なんて無かったけど……それでも、彼は創作物以上の存在だった。ヒーロー登録法に断固として反対し、その論争に負けて以来、彼の姿を見た人はいないらしいけど……。ああ、キングオブヒーロー・アイアンハート……貴方は今、いずこに」
「終わったか?」と、俺はひと息吐いた様子の八兵衛に問いかける。
「これからだよ」と答えた八兵衛は、宣言通り、それから30分は喋り通した。
○
袖触れあうのも多生の縁ということわざがある。先人が遺したこの言葉の通り、出来る事なら2度と会いたくない相手との邂逅は得てして避けられないものである。
メンテナンス帰りのこと。俺は後ろから「ねぇねぇ」と馴れ馴れしく声を掛けられた。振り返れば、そこに居たのは昨夜の白い馬鹿、優男だった。
その顔こそ、大げさな絆創膏とハリウッドスターばりのサングラスでほとんど見えないものの、白のシャツと白のネクタイ、さらには白のテンガロンハットでばっちり決めているところを見れば、どこの誰かは一目瞭然だった。
「聞きたい事があるんだけど、いい?」
呑気に尋ねてくるところを見るに、俺の正体が〝三流クン〟であることには気づいていないらしい。無視して歩き去ってもよかったのだが、そんなことをしてまた「待ってって」などと言われても苛つくだけなので、俺は適当にあしらうことを心に決めながら「どうしました」と答える。
「ああ、よかった。キミみたいなパッとしない人に声をかけて正解だったね。女の子だと、ボクの顔見た瞬間キャーキャー喚いて大騒ぎになっちゃうから」
「……早いとこ用件を」
「わかってるって。にしてもキミ、そんなに忙しいようには見えないのにずいぶんせっかちだなぁ」
無意識に出そうになった右腕を左腕で押さえつける。コイツ、言わなくてもいいことをべらべらと。
「……すいませんね。こう見えても暇じゃないもんで」
「わかったよ。じゃ、手短に」
優男は一枚の写真を懐から取り出し、それを俺に向ける。
「この三流ヒーローを知らないかなって思ってね」
ピンボケしているものの、そこに写っているのは間違いなくタマフクローだった。あのハンディカメラで撮った映像から切り取ったのだろう。
どうやらコイツは俺をお探しらしい。顔面をぶん殴られた者の反応として普通のことだと思うが、それでも警察ではなく自身の脚に頼っているということは、やはりこの男は後ろめたい理由があって、昨夜のように一文字を追っていたということだろう。ストーカーか、狂気に駆られた映画監督かは知らないが、気持ち悪いことは確かだ。
写真にちらりと目をやった俺は、「知りませんよ」と突き返した。
「ヒーローとかには興味無いんで」
「まあ、そう言わずに。何ひとつ見当がつかないってわけじゃないだろう?」
「知らないものは知らないんです。じゃあ」
「待ってよキミ、そう無下に……ああ、わかったぞ。さてはキミ、ボクを不審者だと思ってるんだろう?」
また勝手な決めつけだ。というより、「不審者だと思う」でなくてお前は正真正銘の不審者だろうと、そんな文句が前歯の裏の辺りまで込み上げてきた。ここまでくれば、拳が出ていないことがもはや奇跡である。
優男は人差し指で帽子のつばを跳ね上げ、サングラスを僅かにズラして自らの顔を明らかにした。その勝ち誇ったような瞳は人を苛立たせることに特化したような造りである。
「ほらこの顔。わかるだろう? ボクは怪しい男なんかじゃない。ま、色男ではあるけど。といっても、ソッチの気はないよ。勘違いしないように」
いくら顔を見せられたところで、昨日会った時点での「いけ好かない見知らぬ変人」という評価が覆るはずもない。我慢できずに握られた拳がいつ何時暴発するかわからなかったため、俺はさっさと話を切り上げることにして優男に背を向けた。
「……怪しいとかどうかは関係ないことです。とにかく、構うんなら〝ボクの顔を見るだけでキャーキャー喚いて大騒ぎになる女の子〟相手にやってください」
「いいの? ホントに? 後悔するよ? サイン貰っておけばよかったって」
負け惜しみのようなそんな言葉が、寂しそうに背中を追ってくるのを聞きながら、俺はあくびを噛み殺した。