第2話 ランボー その3
朝になっても鼻にはまだ痛みが残っている。それに加えて、口の中にこびりついたままの鉄の匂い。そのふたつが、つい数時間前の出来事が夢でなかったということを教えてくれる。
時間の経過と共に痛みは引いていくが、代わりに怒りが湧いてくる。あのガキ、今度会ったらただじゃおかん。大人を怒らせることがどれだけ怖いかってことを、思い知らせてやる。
家にいてもすることはなく、苛立ちが募るばかりである。テレビ東京で流れていた『シャークネード』というくだらない映画を眺めるうちに、その苛立ちがいよいよ頂点に達して、俺はハーフパンツとTシャツに着替えて外に飛び出した。行く当ては無いが、家にいるよりずっとマシだと思った。
昨日までの雨雲は一夜のうちに消えてしまったようで、空には太陽が輝いている。公園からは子どもたちの遊ぶ平和の声が聞こえる。道路に落ちる葉は逆巻く風に吹き上げられ、空を呑気に漂っている。人の気も知らないでと、俺は恨みがましく鼻を撫でる。
目に移る全てに若干のいら立ちを覚えるという、通り魔的な思考の元、街をふらふら徘徊していると、ばったり来華と遭遇した。
「あ、センセーじゃんっ」
来華は白い脚を見せつけるようなホットパンツを着込んでおり、その服装が今日は土曜か日曜であることを教えてくれた。夜の時間を中心に生活していると、曜日感覚が狂って困る。
俺は夫人がいないのをいいことに「おう」と雑に応じた。
「珍しーね。こんな時間に外出るんだっ」
「失礼なことを言うな。俺は引きこもりじゃないぞ」
「そーなんだけどさ、でもセンセーってフリーターだし、てっきり」
「世界中のフリーターに謝れ。意外と活発なんだからな」
「はいはいごめんなさーいっ」
来華は悪びれも無く笑い、俺の顔についた傷を指す。
「にしてもセンセー、どーしたのさ、その顔っ」
「近所の子猫と喧嘩してな、それだけ」
まさか、見知らぬヒーローに――ましてや高校生くらいのガキに鼻を殴られたなんて、口が裂けても言えなかった。
俺の言い訳を素直に受け入れた来華は、「ふーん、最近の子猫って、ずいぶんアグレッシブなんだねーっ」などと言って頷いている。この純粋さは、裕福な家庭で育ったゆえの賜物なのだろうか。
そんなことを思っていると、来華は「そだ」と何かを思い出したように手を打った。
「センセー、いまヒマ? ヒマなんでしょ?」
嘘を吐いても仕方がないので「ヒマだ」と答えると、来華は「よかったー。やっぱりヒマ人だー。思った通りー」とやや失礼なことを笑顔で言って胸を撫で下ろす。
「じゃ、ついてきて。今から友達のトコ行くんだーっ。センセーに紹介してあげるっ」
「何を馬鹿な」と言いかけたが、どうやら来華は本気だ。ささみジャーキーを前にしたポメラニアン風の能天気な笑顔がそれを物語っている。
しかし、いくらコイツが本気だろうと駄目なものは駄目だ。教え子の友人と会って何になる。そもそも、家庭教師を紹介されたところで向こうが困るだろう。
「遠慮する」とはっきり断った俺は、これ以上来華に絡まれる前に歩き出した。
「あと、遊びに行くのは勝手だけど4時半までには家にいろよ。お前が居ないと秋野家は大慌てなんだ。捜索に駆り出されるのはゴメンだからな」
「その点はだいじょーぶ、帰りはタクシーの予定だしっ。それより、ホントに来ないの?せっかくクール系の女子高生と遊べるのにさっ」
そんな言葉を背中に受けつつ、俺はその場を後にした。それから俺はレンタルビデオ店、古本屋などを冷やかしに周った後、家へと戻り、日課のトレーニングを始めた。流れる汗が怒りの炎を消火してくれるかと思いきや、そう簡単にはいかず、熱を帯びたままの感情は心の片隅にいつまでも燻った。
一心不乱にサンドバックを叩き続け、ふと気づけば家庭教師のバイトまで残り30分しか残されていない時間である。シャワーをさっと浴びて、慌てて余所行きの服装に着替えた俺は、秋野家の邸宅へ向かった。
家庭教師のアルバイトは、盆や正月、ゴールデンウィークなどの特別な日を除いてほとんど毎日組まれている。もちろん教師である俺も大変だが、遊びたい盛りである来華にとってはもっと大変だろう。名家のお嬢様というのも楽ではない。
駆け足で秋野邸までやってきて、息を整えながらインターホンを押すと、ややあって夫人が姿を現した。
「どうも、奥様。今日もお世話になります」
「いらっしゃい先生。こちらこそ、今日もよろしくお願いしますね」
「もちろんです。では、お邪魔します」
笑顔を携え家に招き入れてくれた夫人に一礼して、玄関に上がった俺は、階段を昇って真っ直ぐ来華の部屋を目指した。部屋の前までやってきた俺は、もう要らないだろうと思いながらも儀礼的に扉を2回ノックした。
「入るぞ、来華」
「ちょ、ま、ま、待って待って!」
「どうした、何かあったか?」
「い、いやそうじゃないからだいじょーぶっ! とにかく待ってね! すぐだからっ!」
「別に部屋が散らかってるくらい構わないぞ。いつものことだろ」
「い、いや、そーじゃなくってさっ! な、なんて言えばいいのかなーっ?!」
焦りに満ちたその声は、いつものような底抜けの能天気さを微塵も感じさせず、どうにも調子はずれに聞こえる。どうしたのかと聞き耳を立てると、微かではあるが部屋からは、〝2人分〟の足音が聞こえてきた。
秋野夫人は娘の友人を家に上げることを嫌がるような狭量な人物ではないが、だからといって家庭教師の時間になっても友人を家にあげたままでいるような、娘のわがままを許す甘い親でもない。
それなら、導き出される答えはふたつにひとつ。俺の杞憂か――そうでなければ緊急事態だ。
「……彼氏が入ってました、なんて話でも、恨むなよ」
呟いて、蹴破るように扉を開けた俺は前転する形で部屋になだれ込む。拳を顔の前で構えて周囲を警戒し、もう1人分の足音をさせていた人物を索敵する。しかし俺の視界にはぎこちなく笑う来華が映るばかりである。
「……来華、〝もう1人〟は?」
「い、いやー、そのー……」
「――後ろだ、間抜けめ」
瞬間、膝裏に強い衝撃が走る。身体のバランスを崩され、前のめりに倒れた俺の背中に乗った何者かは、肩を膝で押さえつけながら、右腕を背中に回して俺の身体を床にべったり貼りつけた。コイツ、只者じゃない。
「誰だ、貴様は。名を名乗れ」
声からすると、俺を抑えつけているのは女である。女に力負けしたことに無性に悔しくなりながらも、俺は「お前こそ誰だ?」とめげずに言い返した。
「私はコハナの友人だ。もう一度聞くぞ、〝貴様は誰だ〟」
刺すような敵意が俺の後頭部に浴びせられる。それがこの行為を遊びではないことを教えてくれる。答え方を間違えれば骨を折られる――そんな雰囲気だった。
〝商売道具〟を折られては堪らない。身体が動かなくなれば、ヒーローなんて即廃業だ。金勘定を一瞬で終えた俺は、「まあまあ」と即座に下手に出た。
「落ち着けよ。俺は来華の家庭教師だ。怪しい男じゃない」
「本当か? 貴様が強盗ではないという確証がどこにある?」
「この善人顔を見て言うことがそれか? 大体、扉をノックしてから押し入る強盗がどこの世界にいるんだよ。俺は無実だ、無実」
「世界は広いからな。貴様のような間抜け顔の強盗が、どこにもいないとは限らん。念のために腕を折っておくのも――」
「つ、司ちゃんっ! ストップストップ! その人、ホントーにわたしの家庭教師だからっ!」
慌てて来華が止めにかかる。「もっと早く止めてくれよ」と思わないでもないが、ともあれ助かった。
「コハナ、脅されているわけではあるまいな?」
「ホントだって! その人、口が悪いフリーターってだけで基本的には人畜無害なセンセーだからっ!」
まったく大きなお世話だが、余計なことを言って話が拗れては面倒なので口には出さない。
それから少しして、乱暴女は不満げに小さく息を吐きながら俺の身体を解放した。
「……済まなかった、早とちりだ。許せよ家庭教師」
「次やったら、いくら来華の友人だろうとデコピンだからな」
「父曰く、〝己の罪は甘んじて受け入れろ〟。その時が来れば、デコピンなり拳骨なり食らわせればいいさ」
「……頼もしい返事だよ、まったく」
本当に生意気なガキだ。素直に「ごめんなさい」も言えないし、よくもまあここまで好き勝手に育ったものだ。〝父曰く〟なんて妙なこと言いやがって、親の顔が見てみたい。
じんと痛む肩を押さえながら立ち上がった俺は、来華の同級生がどんな面構えをしているのか拝んでやろうと振り返る。
俺の視界に入ってきたのは、生意気そうに吊り上った眉と瞳、それに、性格を体現するようなぶっきらぼうな髪型……服装ばかりは〝あの時〟と違ってマトモな制服を着込んでいる、が――目の前のコイツは間違いなく、約12時間前には俺の部屋にいた、例の暴力ヒーロー少女だった。
俺と顔を見合わせた女はバツの悪そうな顔から一転、「信じられない」とでも言いたげに口をあんぐり開けた表情に変わる。その表情はまさに間抜けであったが、俺も似たような表情になっていたのでお互い様だ。
どれくらい互いの顔を見合っていただろうか。とにかく、やたら長く感じる時間が経過した後、表情を引き締め直した暴力女は、改めて俺に冷たい視線を投げた。
「……よもや、また会うとはな。しかもこのような場所で」
「それは俺のセリフだ。あん時はよくもやってくれたな」
ここで会ったが百年目――いや、一年はおろか一日にすら満たないが、この怒りが百年どころか一万年級にデカいことは間違いない。
暴力女はすり足でこちらににじり寄り、俺はそれを動かず待ち受ける。正面からなら当たり負けはしない。たった二回不意打ち食らわせただけでいい気になるなよ。大人の世界ってのを教えてやる。
気づけば互いに制空権。どちらかが動けば、どちらかが撃つ。激突秒読み、爆発寸前。
そんな俺達を止めたのは、嬉しそうな来華の声だった。
「あれっ? もしかして2人って知り合いなのっ?」
「ああそうさ」と女は来華に目を向けずに答える。
「私とこのヘンタイは知り合いだ。それはそれは、ロミオとジュリエットの如く〝辛い別れ〟をしたばかりで、もう2度と会えないものとばかり思っていたがな」
そう言って女はくつくつと笑う。それは間違いなく純度100%の皮肉だった。それにも関わらず、来華は元より楽しげに細めていた目を一層細めて喜んだ。
「なーんだっ! じゃ、2人は仲良しなんだねっ!」
頭の中に向日葵畑でもあんのか、コイツ。天衣無縫の能天気っぷりをみせる来華に、俺は思わず頭を抱える。
「…………来華、俺達が仲良しに見えるか?」
「見えるよーっ! だって、あーんなに見つめ合ってたしっ!」
確かに、見つめ合っていたと言われても強くは否定できないほど、俺とこのガキは互いの顔を見ていただろう。しかしそれは勘違いで、実際のところは睨み合っていたにすぎない。それを懇切丁寧に説明すると、来華は「意味同じだよー」と言ってへらへらした。ある種の愛おしさすら感じるほど、来華はどこまでも無邪気である。
それから「見つめ合っていた」「睨んでいた」の水掛け論がしばらく続いたところで、俺達のやり取りを間近で見ていたガキが呆れたように息を吐き、「もういい」とだけ言ってベランダへ続く窓を開けた。
次は何をする気だと思っていると、女はベランダに置いてあった踵の潰れたローファーを履き、ベランダの手すりに足を掛ける。
「私は帰ることにする。ではな、コハナ。また学校で会おう」
「えぇー?! 司ちゃん、帰っちゃうの?」
「ああ。すべきことがあるものでな」
「あっ、それって宿題? そっかー。今日、結構いっぱい出たもんねーっ」
ガキの発言を勝手に都合よく解釈した来華は、「またねーっ」と言って笑顔で手を振った。ベランダから出入りするマナーのなっていない友人を目の前にしてもこの笑顔。多分、来華の前世はナイチンゲールだ。
一方、大人げなくも腹の虫がおさまらない俺は「待てよ」とガキを呼び止める。しかし「なんだ」と振り返るガキの顔を見ても、特に言いたいことは見つからず、やや考えた後「お前にとっての玄関ってのはベランダのことなのか?」という嫌味ったらしいことを言うにとどまった。
「そんなわけがなかろう。なに馬鹿なことを言っている」
俺の言葉を易々両断したガキは、何のためらいもなくベランダから飛びおりた。まさかと思って階下を覗けば、何事もなかったかのように着地したガキが、秋野家邸宅の塀を軽やかに乗り越えているところが視界に映った。忍者かあのガキ。いや、ヒーローか。
驚きの光景が目の前に起きていたにも関わらず、来華はまったくの呑気で、「司ちゃん、相変わらずスゴイなぁ」などと口にしている。
「ホントにスゴイ運動神経。ヒーローになればいいのになぁ」
〇
その日の来華はとにかく喋った。右手に持つシャープペンシルで正確な英文をつづる傍ら、あの暴力女について延々と喋り通すという器用なことをした。よほど俺とあのアイツが知り合いだったことが嬉しかったのだろう。
俺としては、理不尽の権化みたいなヤツと名家の箱入り娘が友人であることはまったく良いとは思わないのだが、そんなことを口に出しても要らない波風を立てるだけだ。そう考えてじっと口をつぐんでいたら、来華はなおのこと喋った。おかげで、知りたくもないアイツの情報を色々と覚えてしまった。
アイツの名前は一文字司。歳は来華と同じで17歳。通っている高校も同じで、1年の時からの友人らしい。
小柄な見た目に反して運動神経が良いだけではなく、勉強でも学年2位の実力だとか。しかし、夜な夜な行うヒーロー活動で就寝時間が遅いせいか、授業中は居眠りが目立つ上、歯に衣着せぬ言動が多いこともあり、結果として教師からの評価はすこぶる悪いらしい。それを聞いた時、俺は「ザマーミロ」と心の中であっかんべーをしてやった。
「みんなからは誤解されがちだけどさ、すっごく良い子なんだよ、司ちゃん!」
来華は繰り返しそう言った。「知らん!」と叫んでやりたかったが、それはぐっと堪えた。
ちなみに、一文字がベランダを使って部屋に出入りしていたのは、玄関から入ったことが夫人にバレると、やれお菓子だ、やれジュースだと、とにかく気を回してくるせいで、お喋りもまともに出来ない状態になるかららしい。世話焼きの母を親に持つ、思春期の子ども特有の悩みである。
「司ちゃん、カッコいいんだよ! わたしが変な人に絡まれた時、バーンって助けてくれたんだ!」
来華はその日のことを思い出してなのか、頬を染めて手足をバタバタさせた。さながら恋する小学生だ。
「そりゃよかったな」
「うん、よかった! そだ! せっかくだし、今度3人であそぼーよっ!」
「お断りだ。なるべくなら、俺はアイツにもう会いたくない」
「なんでさー。司ちゃん、いい子じゃんかぁ」
「いい子だとか悪い子だとかは関係ないんだよ」
俺は両腕で大きくバツ印を作った。
「俺は〝アグレッシブな近所の子猫〟が嫌いなんだ。それだけの話」
「なにさソレ」と、察しの悪い来華は小首を傾げた。