ジャッキー・ブラウン 前編
お久しぶりです。短編です。
後編は夜八時過ぎに投稿予定です。
説明しよう! この僕、立花八兵衛は、ここ比衣呂市のヒーロー達にとって頼れるサイドキックである!
……まあ、サイドキックといっても彼らと共に現場へ出るわけじゃないし、個人的に深い交友があるヒーローがいるわけじゃないけど……それでも彼らが僕の腕を信頼していることは確かだ!
彼らは僕の装備が無くては悪とは戦えないし、僕は彼らの活躍が無ければ〝道化師の犯罪者〟を失った〝コウモリ男〟のように張りの無い生活を送るハメになる! こういうのを、win-winの関係と呼ぶ!
再び、説明しよう! 僕が経営する〝マスクドライド〟は、喫茶店に見せかけたヒーローツール専門店だ!
……まあ、そもそも合法的な商売なんだから喫茶店に見せかける必要性はどこにもないだろうとはよく言われるけど……それでもロマンは大事にすべきだと僕は思う! 切実に!
気だるげな美人店員に、解読不能の合言葉に、ヒンヤリとした地下通路に工具に溢れた秘密工房! ここには僕の全てが詰まってると言っても過言ではない!
三度、説明しよう! 僕には小学生の頃から抱いていたステキな夢がある! それは、僕の作った装備を使ったヒーローが世界を救うことだ!
……まあ、常連客の中に世界の危機に立ち上がって活躍出来るようなヒーローはいないし、唯一見所があるヒーローは〝親愛なる隣人〟、あるいは〝比衣呂市の悪魔〟としての現状を貫くつもりだろうから、叶う望みは薄いけど……そもそも夢はそういうもの! 叶わないから夢なんだ!
これ以上の説明は止めよう! するだけ虚しくなってくる! だからさっさと語ることにしよう!
とある、ちっぽけな男の物語を!
◯
それはある日の冬のことだった。珈琲豆と愛宕の吸った煙草の香りが残る店内に僕はいた。外との温度差によって曇った窓から差し込む月明かりで時計を見てみれば、もう九時半。時間を意識するとついお腹が減って、冷蔵庫を漁ってみたけど、すぐに食べられそうなものは見当たらない。一応は喫茶店だっていうのに笑える。戸棚を探したら非常用の乾パンがあったので、それで誤魔化すことにした。
その日、僕が閉店後の店内に残っていたのは、帳簿をつけたり伝票の整理をしたりと、溜まりに溜まった店の雑用を片付けるためだ。好きなことをやって生きていけるのはいいけれど、こういう地味なことも独りでやらなくちゃいけないのが、自営業の辛いところである。
今頃は、市内のヒーロー達が出動している頃だろう。羨ましい。僕だってもう少し、度胸と運動神経と勇気と健康な身体があればヒーローをやっていたのに。
そんなことを考えつつ乾パンの缶を開けようとしていると、何かを叩く音が店の外から聞こえてきた。慌ててキッチンから出てみれば、ひとりの女性が店の硝子扉を頻りに叩いているのが見える。
「開けて! お願い開けて!」
考えるよりも先に身体が動いて、僕は扉の鍵を開けた。すると女性は倒れるようにして店内に入ってきて、そうかと思えば興奮したような口調で「閉めて!」と言う。
命じられるまま扉を閉めて、それからしっかり鍵を掛けた。その時になって僕は、自分の心臓が爆発するくらい鼓動していることにようやく気付いた。情けなくてため息が出る。
深呼吸を繰り返して心を落ち着け、それから彼女の方を見る。窓から離れたボックス席に座り、テーブルに両ひじを突いて自らの顔を手のひらで覆う彼女は、ひどく怯えているようだった。
色々と事情を聴きたいところだけど――彼女を落ち着かせるのが先だ。キッチンへと向かった僕は手早くホットコーヒーを用意し、それを彼女の席へと運んだ。
「やあ、どうもこんばんは。もしよければコーヒーでもいかが?」
「ありがとう」と彼女は呟いたものの、コーヒーには手をつけない。両手のひらで顔を覆い、小刻みに震えるばかりだ。彼女の身に何かあったのは間違い無いのだろうが、弱気の虫が事情を聞くのをどうしても邪魔して、僕は何も話せずにいた。
十分ほどすると彼女は落ち着いたらしく、テーブルの上に置いてあるコーヒーを一口だけ飲んだ。それからようやく顔を上げて、「助かりました」と僕に微笑んだ。
その微笑みを目の当たりにしたその時――僕の脳内には幼い頃の思い出がフラッシュバックした。
小学生、同じクラス、隣の席の女の子、短い髪に快活な性格――初恋。
「……新居那さん?」
「……立花くん?」
過ぎ去ったあの日と同じように、僕達は同時にお互いの名前を呟いた。
二十年余り止まっていた時計の針が、動き出したような気がした。
◯
俺の仕事――街を守る正義の味方にとって、年末年始なんてものは関係ない。
いやむしろ、年末年始だからこそ信じられないバカが多くなって、必然的に仕事が増えるのだからどうしようもない。それこそ三十一日の夜から一日の朝に掛けての時間なんてのは、小休止で缶コーヒーを飲む暇すらないほど忙しい。
そこで、議員サマに提案だ。〝年末年始を無くす法案〟。それに、〝クリスマス中止の法案〟の制定を公約に掲げればいい。そうすれば、少なくともあくせく働く小市民的ヒーロー達の票が手に入る。そのためにどれだけの票を犠牲にするのかは、計算したくもないが。
さてその日、俺は来る〝書き入れ時〟に備えて、スーツのメンテを行うためにマスクドライドへ向かった。店の硝子扉を開ければ、「いらっしゃい」と愛宕の声に煙草の煙。喫茶店としてのこの店に用はないため、いつものように意味不明な合言葉を唱えようとすると、愛宕がすかさず広げた右手を俺に突き出し〝待った〟を掛けた。
「どうした?」
「あれ見てよ」と愛宕が嫌そうに指差すのは、窓際のボックス席に座り、物憂げに外の景色を眺める八兵衛だ。無精ひげは伸び放題だし、いつにも増して頰がこけているように見える。何かがあったことは一目でわかった。
それにしてもまさか、アイツに対して〝物憂げ〟なんて形容詞を使うことになるとは! 立花八兵衛という男は、悩みなんてものとは無縁に生きているのだと思っていたのに。
「……で、アイツはいったいどうしたってんだ?」
「マトモな中学生男子なら一度は発症する例の病気が再発したらしいわ」
「中二病か」
「バカ。恋煩いよ。三日前からコーヒーしか飲んでないみたい」
「死ぬ気かよ。救急車でも呼ぶか」
「いいアイデアね。胸がキュンキュンして死にそうな人がいるんですって、オペレーターに言ってみる?」
「……冗談だよ」
どうやら今日のマスクドライドは開店休業状態らしい。俺は「帰る」と愛宕に告げて店の扉に手を掛けたが、すかさず「待って」という声が追いかけてきた。
「翔太郎、アイツの話聞いてやってよ」
「嫌だよ。なんで俺が」
「店長があの調子のままだと困るのはアンタだからよ」
そう吐き捨てた愛宕は、「それに、友達でしょ」と言い残してキッチンの奥へと引っ込んだ。あのヒーローバカと友達になった覚えはないが、確かに八兵衛があのままだと困るのは俺だ。ここより財布に優しい店を探すのは、きっと困難を極める。
仕方なしに八兵衛の正面の席に腰かけた俺は、「大丈夫か?」と声をかけた。
「……ああ、翔太郎か。元気そうだね」
そこで俺が次の言葉を失ったのは、八兵衛が俺のことを〝タマフクロー〟と呼ばなかったためだ。いくら止めろと言って聞かせても、いくら司から鉄拳制裁を喰らおうとも、頑なに俺をタマフクローと呼び続けたコイツが、まさか自主的に「翔太郎」と呼ぶとは。恋煩いは、笑えないほど重症とみえる。
おかげで調子が狂ってしまい、何を話せばよいのかわからず、とりあえず黙って一緒に外の景色を眺めていると、向こうから話を切り出してきた。
「……ねえ、翔太郎。君、恋をしたことはある?」
何が悲しくて二十をとうに超えた男同士が恋バナなんてしなくちゃならんのだ、とは思ったものの、今の八兵衛の前ではそれも言い出せず、俺は「まあ何度か」と答えた。
「僕の場合はね、泣いても笑っても一回きりだった。たった一度の恋だったんだ」
八兵衛は何かを懐かしむように視線を天井へ向け、小さく息を吐いて自嘲気味に笑う。
現在進行形で初恋を引きずり、拗らせ、悦に入り、あらぬ方向へ進んでいる男と会話しているという事実が恥ずかしくなって、俺は堪らず席を立とうとしたが、ゾンビの如くにゅっと伸ばされた八兵衛の手が俺の腕を掴み、逃亡は未遂に終わった。
「……翔太郎、一生のお願いだ。訊いてくれるかい?」
ここでコイツの頼みを断れることが出来るなら、俺はヒーローなんてとっくに辞めてる。
〇
つい三日前、閉店後のマスクドライドに突然の来訪者があった。店の扉を叩いて開けさせ、蒼い顔して入ってきたその女の名前は新居那沙織。八兵衛にとっては小学生の時の同級生であり――何より初恋の人だったらしい。
新居那がマスクドライドへ駈け込んで来たのは、とある男から逃げてきたためだという。その男というのが新居那の以前の交際相手で、悪い人間ではないらしいのだが、どうしても趣味が合わずに別れを切り出したら、ストーカー化したとのことだ。毎夜のように追いかけては来るものの、元々付き合っていたということもあり警察にも連絡出来ず、彼女はストーカーに怯える日々を過ごしていた。
その話を聞いた八兵衛は義憤に駆られた。ついでに、淡い初恋の記憶に支配された。そして、自分が彼女を守らなくてはという結論に至って、ついこんなことを言った。
「大丈夫。僕がなんとかする」
その話を聞いた新居那は、涙まで流して八兵衛に感謝したとのことだ。その時の八兵衛の思いたるや、想像するに容易い。
しかし、八兵衛の腕っぷしは強くない。むしろ弱い。それこそ、吹けば飛ぶほどに。「枯れ枝の方がまだ骨があるよ」とは、他ならぬ本人の談である。だからといって「やっぱ無理です」とは言えるわけがない。
八兵衛は考えた。考えて、考えて、考え抜いた。
「――それで、翔太朗に頼もうって思ったんだ」
「新居那って人の護衛をか?」
「いや、違う。僕が新居那さんを守るから、翔太郎にそれを見守っていて欲しい。それで、万が一なにかあったら助けに来て欲しいんだ」
俺は決して、人の恋路を助けるのが好きなお節介焼きというわけじゃない。惚れた腫れたに人を巻き込むな。やるなら勝手にやってくれというスタンスで今日までを生きてきたし、明日からもそれは変わらないだろう。
でも、俺の協力を得ようとするために目の前に人参をぶら下げない八兵衛の頼み方は気に入った。今まで色々と世話になった礼もあるし、一度くらいスタンスを変えるのもやぶさかじゃない。
「いいぞ、協力する」
「ほ、本当かい翔太郎!」
「ああ。でも、一つだけ約束しろ。無理はするなよ。ストーカーなんて、刃物の一本持っててもおかしくないんだからな」
「わかってる! 何かあったら真っ先に君を頼るよ!」
そう言って八兵衛は心底嬉しそうに笑った。子どもみたいだなとは思いながらも、釣られて俺もつい笑った。
◯
八兵衛曰く、ストーカーが現れるのは決まって平日。彼女の仕事終わりの八時から十時くらいを狙って、石ノ森駅で奴は待ち構えているらしい。ならば話は単純で、俺達も駅で待機して、何も知らないストーカーがノコノコやってきたところを捕まえて、軽く懲らしめてやればいいだけの話だ。
「つまり、いつも通りの作戦ってことだね?」
「まあ、そういうことだ」
やるのであれば早い方がいいということで、俺達は新居那を悩ますストーカー撃退のため、その日の夜にマスクドライドに集合し、それから計画に移ることにした。用事が終わった後はすぐさま本業に向かえるように、仕事道具一式を持ってマスクドライドへ向かった俺は、店の扉を開けた瞬間に固まった。
「やあ、タマフクロー! 待ちくたびれたよ!」
「……なんだそれ」
「見てわからないかな?」
いや、わかる。一目でわかる。わかり過ぎて困るくらいにわかる。八兵衛はヒーローになろうとしている。しかしダメだ。全体的にダメだ。
蜂を想起させるデザインの全身タイツは、八兵衛の痩せた身体のサイズにしっかり合わせて作られているのが仇となって、軟弱な体系をより際立たせている。あれではヒーローというよりも、何か奇妙な肌色をした、病的なまでに手足の長い猿だ。やたらと大きい白眼がデザインされたマスクを被っていることも相まって、非道な実験の末に産み出された哀しきモンスター感が強い。
「……脱げ。いらねぇだろ、それは」
「断固拒否するね! 僕はこの、〝ミスタービー〟でいくっ!」
某国のコミカルキャラクターみたいなヒーローネームを自分でつけた八兵衛は得意げである。きっとあのマスクの下では、唇を真一文字に締めて、タフガイを気取った表情をしているに違いない。
ここで口論になるのも面倒だ。そもそも、今の八兵衛を説得できると思えない。俺は「わかった」と戦略的撤退をしつつ、しかし後顧の憂いを無くすため、気にかかることはきっちり聞いておくことにした。
「……それならせめて聞かせろ。その格好をする理由はなんだ? 立花八兵衛が立花八兵衛として、新居那って人を守るでいいんじゃないか」
「ダメだなぁ、タマフクロー。ヒーローともあろう者がスパイダーマンを観たことがないの?」
「ねえよ」と即座に答えると八兵衛は呆れたように深く息を吐き、それから「いいかい」と前置きして何やら語り始めた。
五分ほど続いたその話を要約すれば、「助けてくれたヒーローが実は知り合いだったと知った時、女性は必ず恋に落ちるもの」らしい。映画の見過ぎだ。ヒーローをやってる身から言わせて貰えば、そんなことが起きるなんてありえない。
しかし、今は遠き日の初恋に目が眩んだ男は俺の忠告に耳を貸すことはない。それどころか、「マスクを半分剥がして貰ってキスをするのが夢だったんだよね」などと、皮算用どころの話じゃないところまで妄想が膨らんでいる。
気の迷いで人の恋路に踏み入れるんじゃなかった。こうなれば、早いところ新居那の件を終わらせて本業に戻るに限る。短い時間とはいえ、司をひとりにしておくのは心配だ。少し目を離した隙にあのやり過ぎヒーローが、犯罪者を完膚なきまでに叩き潰さないとも限らない。
俺は「行くぞ」と蜂肌の猿を引き連れて、マスクドライドを後にした。
◯
今の八兵衛と共に往来の中にいるのも目立ってしょうがないため、仕方がないので俺達は付近のビルから駅周辺を見守ることにした。高いところにただ突っ立っているだけというのは精神的にも肉体的にも辛い。俺なんかは普段着だから防寒対策もバッチリで、おまけにこういうことには慣れているからまだマシだが、あんな格好をしている八兵衛は「寒いよぉ」と頻りに弱音と白い息を吐いていた。自業自得とはこのことだ。
八時になり、九時になり、やがて十時になろうとしたところで、八兵衛が「あれだよ」と嬉しそうな声をあげた。
「新居那さんが出てきた」
八兵衛の指す方向を見れば、丈の長いコートを着た女が駅から出てきて歩いている。短く切った髪ときりりとした顔立ちは、キャリアウーマンの風格を漂わせる。
「おっと。それ以上彼女を見ないで。君が恋敵になったら困る」
「ならねーよ」
ビルから降りた俺達は、物陰に隠れつつ彼女を追った。駅前から少し離れて住宅街に入ってしまえば人通りもほとんどなく、八兵衛の格好を見られる心配もなさそうだ。
しかし、尾行を始めて十分ほど経つが、新居那のストーカーが現れる気配は一向にない。こうなると、逆に俺達がストーカーだ。仮にここに警察が通って、八兵衛の恰好を見られたら、俺はなんと言い訳すればよいのだろうか。
「……八兵衛、本当に来るんだろうな?」
「彼女自身がそう言ってたんだ。間違いないよ」
その時、前方から大きな悲鳴が聞こえてきた。「新居那さんの声だ!」と八兵衛は言って一目散に駆け出したが、足が遅すぎて一緒に走るのが嫌になる。
「先行くぞ」と俺は言って八兵衛に先行した。
近づければ、新居那は何やら道の真ん中で立ったまま固まっている。何かあったのかと俺は周囲を警戒しながら、「どうしました?」と彼女へ問いかけた。
新居那はある一点を凝視しながら、何も言わずに視線の先を指差す。区内のゴミ置場となったその空間には――顔面を入念に痛めつけられた男が放り出されていた。
慌てて男に駆け寄った俺は、口に手を当て呼吸を確認する。まだ息はあるが、悠長なことはしていられなさそうだ。俺は懐から携帯を取り出し、119番をプッシュした。
「マサノリ、くん……」
「知り合いなんですか?」と受話口を耳に当てながら訊ねる。
「ええ」
新居那は複雑な表情で呟いた。
「わたしを……ストーカーしていた人です」
◯
翌日のこと。昨日出来なかったスーツのメンテナンスのために、俺は朝一番でマスクドライドに向かった。店の扉を開けると、何やら八兵衛がカウンター席に腰掛けてうなだれている。そっと踵を返して帰ろうかとも思ったが、扉に手をかけたところで「やあ翔太郎」と声をかけられそれも出来なくなった。
仕方がないので俺は「おう」と答え、八兵衛の前にスーツが入ったバッグを置く。
「……スーツのメンテナンスを――」
「僕は、ヒーローになれなかった」
……昨夜、あれから起きたことを説明しよう。新居那のストーカーこと福山政則は、何かしらのトラブルに巻き込まれたのか全身アザだらけの状態で見つかり、そのまま病院へ搬送された。ほどなくして意識は戻ったそうだが、少なくとも半年はストーカーなんて元気なことは出来ない身体になったらしい。
厄介なのは、新居那がこの一件を八兵衛の仕業だと考えているということだ。
引きずってきた初恋を成就させることが叶わず、消沈しながらマスクドライドで着替えをしている最中、新居那から電話があったと思ったら、「あれはやり過ぎじゃないの?」なんて言われてしまったというんだから、泣きっ面に蜂と言う他ない。
昨日の夜は「フラれちゃったよ」などとあっけらかんとした調子だったものだから、大丈夫かと考えていたが甘かった。コイツ、地の底まで落ち込んでやがる。
俺は「そんなこともあるだろ」と適当言って誤魔化そうとしたが、そんな言葉で納得するわけがなく、八兵衛は「僕はヒーローになれなかったんだ」と繰り返した。
「……これで終わりって決まったわけじゃない。またチャンスは来るはずだ。だから八兵衛、スーツのメンテナンスを――」
「終わりだよ、終わりだ。全部終わり」
八兵衛はほろほろと泣き始めたかと思うと、おもむろに席を立って俺の胸へと鼻頭を押し付けた。そのまま嗚咽まで漏らし始めたものだから、どうにも突き放せずに扱いに困っていると、今頃出勤してきた愛宕が店の扉を開いて現れた。
「……三十分したらまた来るから」
俺を見て、八兵衛を見て、それからまた俺を見て、どこか慈愛すら感じられる笑みを浮かべてそう言った愛宕は、深く一礼すると店を出て行った。結局、この件の誤解を解くのには一時間ほどを要した。
さて、この日をもって誰しもが終わったと思った、八兵衛の〝帰ってきた初恋〟。しかし、この話にはまだもう少しだけ続きがある。
今はまだそんなことを知らない八兵衛はわんわんと泣いて、俺は心底ウンザリして、愛宕は他の喫茶店への転職を考えている。




