第3話 ニキータ その2
岬からメールが入ったのはそれから5分ほど後のことだった。件名に「あたしの太陽へ♡」と見たくもないハートマーク付きで書いてあるのが、言いようもないほどに恐ろしい。
ざっと見ると、本文には怪文書めいた事柄しか書かれていなかったため、さっさと添付のファイルを開く。するとそれはスーツの注文書であった。
値段や仕様、サイズなどを読み飛ばし、注文者の名前を見てみれば〝テンドウアスマ〟とカタカナで書かれている。住所は渋谷のメゾンソプラノ。集合住宅か何かだろうか。
注文者の苗字を見てふと頭に浮かんできたのは、あのよく泣く女――天道の顔である。そういえば最近、あの顔を街で見かけない。夜に外を出歩くのは止めたのだろうか?
「――どうした、翔太朗。何か気になることでもあるのか?」
その声で、自分が少しぼうっとしていたことに気づかされ、俺は慌てて「なんでもない」と答える。
「それよりもここ、行ってみるか?」
「それしかないだろうな」と司は難しい顔で言った。
翌日。俺達は注文書にあった住所へと向かった。駅から徒歩でおよそ30分。喧騒から少し離れた住宅街にあるそこは、だいぶ古びた感じの二階建てアパートである。ところどころ剥げた外装を塗りなおそうとすらしないのが、ある種の男らしさすら感じられて好感が持てるが、〝悪の組織の根城〟にしては心もとないと言わざるを得ない。
「ここで合っているのだろうな」と司はボロアパートを訝しげに見上げながら言う。
「住所によりゃ間違いないんだ。とにかく入ってみるしかないだろ」
202号室にテンドウアスマの部屋はあるという。オートロックも無ければ警備員もおらず、俺達は楽に目的の部屋の前まで来た。扉の横に付いた郵便受けにはチラシやパンフレットが多く挟まっている。チャイムを押したが返事は無い。扉越しに呼びかけても同じである。留守にしているようだ。
「どうする、司」
「待つ」と司が即答し、扉に背を預け持久戦の構えを見せたところで、アパートの廊下をこちらに向かって歩いて来る人がいた。
「……翔太朗、さん?」
不思議そうに目を見開きながらも、どこか嬉しそうな笑みを浮かべるその人は、この部屋の持ち主と同じ苗字を持つ女――天道ひよりその人だった。
〇
「――驚きました、本当に。まさか、翔太朗さんがいらっしゃるなんて」
天道は微笑みながらそう言って、紅茶が注がれたカップを俺達の前に置く。透き通った赤の液面から白い湯気が立ちのぼると共に、甘い香りが鼻を抜ける。味の良し悪しはよくわからなかったが、一口飲んだ司が「素敵な味だ」と目を細めたところを見るに、きっと美味いのだろう。
ここは例の〝テンドウアスマ〟の部屋だ。ぱっと見回して目につくのは、必要最低限の家電とこたつ机。ベッドの脇に置いてある小さな本棚に視線を移せば、来華も愛読する〝Hero,s〟がぎっしりと詰まっている。なんとなく貧乏学生風の趣を感じる部屋だ。
扉の鍵を開け、ここへ俺達を通したのは他ならぬ天道だ。「勝手知ったる」という慣れた手つきで戸棚から茶葉とティーポット、カップを取り出し、紅茶を淹れてくれたのも天道。つまり、〝テンドウアスマ〟と天道には何かしらの関係があるということで間違いないのだが、両者の間になんとなく〝アブナイ男女の関係〟を感じ取ってしまった俺は、先ほどから話を切り出せないでいた。
司もそれは同じらしく、紅茶を味わいつつ俺に目配せを送るばかりで、自ら話そうとはしない。同じ学校に通う後輩であるゆえに、下手なことは言い出せないのだろうが、だからといって俺に全て任せるというのはずるいのではなかろうか。
自分が淹れた紅茶を一口すすった天道は、「それにしても」と話を切り出す。
「翔太朗さんと一文字さんが、なんで一緒にこの家に?」
「私はたまたまこの男がここにいるのを見かけ、声を掛けただけのこと。よくわかりませんが、ここに用事があるのは翔太朗の方でしょう」
――コイツ、上手いこと逃げやがって。
天道の視線がこちらへ向く。もう逃げられない。仕方なく俺は、「まあ色々あってな」と大事なところをぼやけさせ、そのまま用件を訊ねた。
「この部屋の主に用があってきたんだ。〝テンドウアスマ〟について、何か知らないか?」
すると天道の顔から笑みが消え、代わりに哀しみが浮かんできた。聞いてはいけないことを聞いてしまったというのは、一目で明らかである。俺は慌てて「言いたくないなら」と言いかけたが、天道は「いいんです」と言ってそれを制した。
「……天道遊馬はわたしの兄です」
確か、天道の兄貴はしばらく連絡も取れないような半ば失踪状態だったはずだ。大方、天道は時折この部屋に来て、兄貴がいつ帰ってきてもいいように掃除なんかをしているのだろう。
これ以上、他人の家庭の事情に首を突っ込むつもりはない。テンドウアスマという名前も、この住所も、きっとダミーで使われただけだろう。
残った紅茶を飲み干した俺は、「悪かった」と言って頭を下げ、すぐさま立ち上がる。
「もう帰るよ。変なこと聞いてごめんな。俺達が来たことは忘れてくれ」
場に流れる妙な空気を察したのか、司も何も言わずに立ち上がる。俺達はそろって軽く頭を下げた後、早足で玄関へ向かったが、その背中を「待ってください」という天道の声が呼び止めた。
「その……すいません、翔太郎さん。わたし、あなたに嘘をついていました」
「どういうことだ?」と振り返ると、天道は憂いを帯びた微笑みをこちらに向けている。その顔を見て俺は、自分の心音が少し早まるのを感じた。
「わたしの兄は……天童遊馬は、1年ほど前に亡くなっているんです。困ってる人を助けようとしたところで、事件に巻き込まれて……。この部屋は、兄の思い出を残しておきたくて、借りたままにしているだけなんです」
この答えはさすがに予想外で、なんと言えばいいのかわからなくなった俺は、ただ「そうか」と返すしかなかった。続けて出てきそうになった中途半端な慰めの言葉は、喉まできたところで辛うじて呑み込めた。
続く沈黙が痛く刺さる。何を話せばいいのかわからず、かと言って帰ることも出来ず、立ち尽くしたまま、ただ時間ばかりが過ぎていく。
「……すいません。変なこと言ってしまって。でも、翔太郎さんには嘘をついたままではいられなくて」
「いや、悪いのは俺だ。天道、そんな話させて悪かった」
「いいんです。隠すほどのことでもありませんから」と言って、天道は口角を僅かに上げた。それは見ているだけで居たたまれなくなる、無理に取り繕った微笑みだった。




