第2話 パシフィック・リム その4
ある平日の昼下がり。〝マスクドライド〟には今日も閑古鳥が鳴いている。窓から差し込む陽の光を目一杯に受けるテーブルや椅子が虚しい。
ふと時計を見れば、この店へ来てからそろそろ1時間が経つ。預けたスーツのメンテナンスはもう終わる頃だろうか。そんなことを思いながら、溶けた氷のせいで風味すらほとんど無くなったアイスコーヒーを飲んでいると、カウンターを挟んだ向こうに立ち、煙草を咥えてじっと俺の顔を眺めていた愛宕が煙を顔に吹きつけてきた。債務者を追いつめる時のヤクザか、コイツは。
「なんだってんだ、急に」
答える代わりに再び煙草の煙を吹きつけてきた愛宕は、「女のことでも考えてたの?」と突拍子もないことを訊ねてくる。
「そんなわけあるか。突然なに言いだすんだ、お前は」
「ウソばっかり。顔に書いてあるわよ。気になってる子がいるんでしょ?」
その時、俺の頭にふと浮かんできたのは天道の顔だった。確かにアイツの存在は近頃何かと気にかかってはいるが、断じて愛宕が想定しているような感情を抱いているわけではない。だというのにこの女は、「ホラ、また考えた」と俺の額を人差し指で突いてくる。
「どんな子なの、その子。もしかして、司ちゃんとか言うんじゃないでしょうね」
「だから違うっての。妙な言いがかりは止めろ」
「止めないわよ。アンタに泣かされる女の子がまた出たら可哀そうだもの」
「〝また〟って、お前。人をどんな男だと――」
「なんだいなんだい?! 恋の話かい?!」
ややこしくなってきた俺達の会話に嬉々として割り込んできたのは、他でもない八兵衛である。メンテナンス作業を終えて戻ってきたらしく、その手には俺のスーツが入ったバッグを持っている。
「恋の話は大好きサ! だって、ヒーローには欠かせない要素だもの! あ、でも、普通の恋じゃ意味が無い。君達ヒーローに必要なのはずばり悲恋だ! 愛した女性が敵組織の幹部だったり、敵組織のボスの娘だったり、人間に擬態した怪人だったり……ヒーローの恋は報われないからこそいいんだよね!」
拳を握って熱く語った八兵衛は、俺と愛宕を交互に見て何度も頷いた。同意を求められているらしいが、首を縦に振る気は起きず、俺は黙って八兵衛をまじまじと見た。
侮蔑混じりの視線で八兵衛を眺めていた愛宕が、「お話の中でくらい報われるべきよ」と浪漫主義に則した主張を展開させたところで、店の硝子扉が開く音がした。入り口の方を向きながら「いらっしゃい」と言いかけた愛宕は、ふいに口を閉ざし、吸いかけの煙草を気怠げに灰皿へ押し付ける。
「……翔太朗、〝お友達〟が来たわよ」
店の入り口に立っていたのは、幽霊にでも取り憑かれたかのように青白い顔をした百白だった。その表情を見るに、厄介ごとを持ち込んできたことは明らかである。猛烈に帰りたくなって席を立つ俺だったが、どうせここで帰ったところで追い回されるだけだと思い直し、再び腰を下ろした。
ふらふらとした足取りで俺の隣の席に座った百白は、「コーヒーを」とだけ呟いて注文した。その頬はすっかりやつれており、いつものような調子のいい笑みを浮かべる余裕もない様子だ。気分がいい反面、気味が悪い。
放っておけば自分から話しだすかと思いきや、百白は何も語らずに、濡れた瞳でこちらをじっと見ながら、出されたコーヒーをすすっているばかりだ。こうなると、ほとんど地縛霊みたいなものである。
「…………愛宕、塩持ってきてくれ。山盛りで」
「生きてる人間に塩撒いても効かないと思うけど。熱湯とかにしたら?」
「成仏はしないだろうけど、目つぶしくらいにはなるだろ。それに、熱湯は床が濡れる」
「待ちなよ、タマフクロー。一寸の虫にも五分の魂というじゃないか。ここはせめて、コーヒーを飲み終えるまで待ってあげたらどうだい?」
「3人揃ってイキイキと人を苛めないでくれよぉ!」
「うるせぇ。例の事件の解決を自分の手柄にしたこと、俺は忘れてないからな」
「あ、あれはマネージャーがそうした方がいいんじゃないかって……」
「マネージャーだかなんだか知らないけど、決めたのはお前だろ。言い訳すんな」
いよいよ俺は百白の脳天に拳骨を落とそうと腕を振りかぶるが、あまりにも「待ってよ!」と何度も繰り返すので嫌になって、「なんだよ」と弁解の余地を与えてやる。
「ありがとう。これを見て欲しいんだ」と百白が懐から取り出してテーブルに置いたのは、くしゃくしゃになった一枚の手紙である。読んでみるとそれには、百白への恨み言に加え、今度の木曜日に予定されている、百白が主演を務める映画の撮影を襲撃するとある。差出人は〝バランサー〟。これはいわゆる模倣犯、というヤツだろうか。こいつも随分と怨まれたものだ。
「で、これを見せてどうしようってんだ?」
「またキミにボディーガードを頼みたいんだ」
「アホか。ご丁寧に期日まで指定してくれてるんだから、撮影中止にすりゃいいだろ」
「それは出来ない。その日の撮影は特に重要で、絶対にズラせないんだ」
「だったら、今度こそ俺の出る幕じゃねぇ。警備会社か警察に相談しろ」
「ダメだよ。そんな人達を呼んだら現場の皆が緊張する。それに、そいつらが口を滑らせて撮影内容をバラしちゃうかもしれない」
百白はパチンと指を鳴らしてこちらを指す。
「その点、キミは安心だ。見学者ってことにしとけば問題無いし、ボクに興味が無いから撮影内容をバラす心配も無い」
「全部お前の都合じゃねーか」と俺は百白の頭に拳骨を落とす。「ぎゃん」という奇妙な声を上げた百白は、叱られた柴犬のようにやるせない表情を浮かべた。同じような表情を来華がしたら良心の呵責に苛まれるというのに、コイツの場合は1ミリたりともそんなことにならないから不思議だ。
「……本郷クン、どうしてもダメかな?」
「駄目だ」
きっぱりとそう言い放つと、わなわなと肩を震わせた百白は大粒の涙を流し始めた。これ以上面倒なことになる前にさっさと退散してしまおうと席を立とうとしたその矢先、百白は俺の腰に腕を回して抱き着くと、「行かないでよぉ!」と泣き叫ぶ。コイツのファンが見たら卒倒しそうな光景だ。
「……翔太朗。引き受けてあげたら?」
「そうだよ。涙を流す人がいたら助ける。それがヒーローだろう?」
2人はそう言って哀れみを滲ませた瞳で百白を見た。こうなると、なんとなく断りづらい。俺は深くため息を吐き、「わかったよ」と吐き捨てる。
「やってやる。警備でもなんでも。だから、もう泣くな」
「あ、そう? そりゃよかった! そう言ってくれると思ってたよ、キミなら!」
スッと立ち上がった百白は、俺の右手を両手で包み込んでブンブン上下させる。その顔に浮かぶのは1秒前に泣いていたとは思えないほどの満面の笑み。もはや怒る気力も湧かない。
「……役者だな、本当に」
「だろう? 天職だったみたい」と言って百白はキザっぽくウインクした。




