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月給24万円でヒーローやってるけど色々しんどい  作者: シラサキケージロウ
第2章 2話 パシフィック・リム
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第2話 パシフィック・リム その3

 翌朝。11時を過ぎる頃に起きて、朝の支度を済ませ、遅めの朝食を食べ終えたところで呼び鈴の音がリビングに響いた。「本当に来やがったのかよ」という言葉を堪え玄関に出ると、そこにいたのは天道だ。薄手のコートにロングスカートの着合わせは、清楚なお嬢様めいている。


 天道が何故俺の家まで来たかと言えば、昨日約束した〝デート〟に出掛けるためだ。まさか、昨日の今日で出掛けることになるとは思ってなかったが、天道がそう言い出したのだから仕方がない。コイツに逆らうことはクビに直結している。


「おはようございます、本郷さん。もしかして、起きたばかりですか」


 つっけんどんにそう言い放った天道は、訝しげに俺の頭を見た。


「寝癖、ついていらっしゃいますよ」


 頭頂部に手を当ててみると、確かに髪が跳ねている。俺は手櫛で髪を撫でつけながら、「申し訳ない」と謝った。今日の至上命題は、とにかくこの女の機嫌を損ねないこと。それに尽きるのだから。


 寝癖を直して玄関へ戻って来ると、そのまま出掛けることになった。マンションを出て、石ノ森駅の方向へ歩いてしばらく行ったところにテラス付きの洒落たカフェがある。大きな窓から店内を見れば、女の客かカップルしかいない。その店の存在自体は知っていたが、雰囲気が俺に合わないことはわかっていたため入ったことは一度もない。天道がその店の常連だからと俺の手を引かなければ、一生涯入ることはなかっただろう。


 店の天井は高く、陽の光がよく差し込むように一面を大きな窓にしてある。照明に付いた用途不明のプロペラめいたものは、優雅にくるくると回っている。テーブルや椅子はもちろんのこと、カップやメニュー表などの小物などを含めた全てが小奇麗な店で、俺という存在は明らかに異物である。だというのに店員は、嫌そうな顔ひとつせずに注文を聞いてくるのだから流石と言う他ない。


 店員のレベル、店の内装、値段、そして恐らく料理の味も、全てが八兵衛の店とは雲泥の差がある。だから落ち着かない。ドブ川の鯉が清流では住めないのと同じだ


 注文から間もなく、軽やかな足取りの店員が一杯850円もする高すぎるコーヒーを運んできた。飲んでみても値段に見合った美味さなのかはわからない。向かい合わせで座る天道を見るが、表情ひとつ変えていないから予想もつかない。


 こちらが黙っている限り天道は何も喋らない。楽しいんだか不満なんだかよくわからない顔で、じっと俺を見るばかりである。黙っていても仕方がないのでとりあえずは何か話を振るのだが、「ええ」とか「そうですね」とか返ってくるばかりでロクに会話が続かない。なんのために俺を誘ったんだ、コイツは。


 しかし黙るわけにもいかず、俺は「しかし、この店は雰囲気がいいところですね」と適当に沈黙を埋める作業を行う。


「週にどれくらいいらっしゃるんですか?」


「昔はよく兄と一緒に来ていたんですが……最近はあまり来ていません」


「お兄さんがいるんですね」


「……ええ」


 こうしてまた会話が終わる。これではどうしようもない。漂う閉塞感につい小さなため息をこぼすと、天道が初めて自分から話しかけてきた。


「あの……すいません。わたしなんかといても、面白くないですよね」


「いえそんなことは」と慌てて否定したその時、俺の心に浮かんできたのは、自らに対する哀れみと怒りだった。


 ――なんで俺は下手な嘘なんか吐いてまで、こんな女のご機嫌取りなんてやってるんだ。


 一度そう思い始めると、自分の中でだんだんと「やってらんねぇよ」と不貞腐れた思いが支配的になってくる。こうなるともう駄目だ。せめて文句のひとつでも言ってやらないと気が済まない。機嫌を損ねないことなんて至上命題は、既に大気圏外の彼方である。


 俺はまだ熱いコーヒーを一気に飲み干すと、勢いに任せて「ですが」と始めた。


「本音を言えば、よくわからないなとは思ってます。天道さんはあまり楽しそうじゃありませんよね。なんで僕を誘ったんですか?」


 困ったような顔をした天道は、コーヒーの黒い液面に視線を落とし、「すいません」とただ謝った。こう言われると、こちらとしてはもう閉口するしかない。


 言いたいことを言ってやったことで、悶々とした思いが幾分かすっきりすると思いきや、なおさら消化不良感は強まった。天道はまた泣きそうな顔をしている。いよいよ耐えがたいほど辛気臭い。


 こういう空気は苦手だ。一刻も早くどうにかしたい。となれば伝家の宝刀を抜く他ない。息を深く吸って表情を作った俺は、「天道さん」と呼びかけた。


「……はい」


「下見てないで、こっち向いてください」


 おずおずと視線だけこちらへ向けた天道は、やや間を置いた後、真一文字に締めた唇からぷっと息を吹き出し――堰を切ったようにけらけらと笑いだした。大きな笑い声に釣られて周囲から視線が集まるが、そんなこと気づいていない様子で天道は笑い続ける。目元に光るその涙は冷たいものじゃないと思いたい。


 天道が笑っているのは、表情筋に目一杯力を込めた俺の顔を見ているからである。眉間の辺りに力を込めて、両目を真ん中にぐっと寄せ、唇をきゅっと尖らせた、〝ひょっとこ〟と歌舞伎を意識したこの顔は、友人と喧嘩してやけに落ち込んだ来華を慰める時に開発されたものだ。〝清楚なお嬢様〟相手にも通用するとは、存外、中々の切れ味のようである。


 むせかえったところでようやく笑うのを止めた天道は、人差し指で目元を拭いながら「ヘンな人」と呟いた。かと思えば俺の顔をちらりと見てまた笑う。こうなると、誇らしいのを通り越して恥ずかしい。


 表情筋を緩め、「大丈夫ですか」と声を掛けると、天道はなんとか「ええ」と答える。笑いの潮は未だ引かないと見える。


「そんなに僕の顔が面白かったですか」


「いえ、そういうわけではありません。ただ、そんな子供だましみたいな方法でわたしを笑わせてくれようとする本郷さんが、どうしてもおかしくって」


「……人がせっかく場を和ませようとしたってのいうのに――」


「すいません。でも、元気が出たのは本当ですから」


 天道は頬を赤く染めながら、恥ずかしそうにはにかんだ。初めて見たその笑顔に不覚にもほだされてしまった俺は、「まあいいか」と言うに止めた。





 客や店員からの注目が集まってしまい、なんとなく居づらくなった俺達は、手早くコーヒーを飲んで喫茶店を後にした。久しぶりに晴れた空を見上げながら、ふたりで当てもなく街を歩く。微塵も気まずさを感じないのは、天道が自分から話すようになったからだ。それに、今まで見せてこなかった分を補うかのようによく笑う。昨日とはまるで別人だ。


 喋っているうちに敬語を使うのも馬鹿らしくなって、俺はいつの間にか砕けた喋り方になって天道を呼び捨てにしていた。天道の方は変わらず丁寧な口調だったが、元々そういう喋り方なのだろう。


 近くの公園まで歩いた俺達は、そこのベンチに腰かけた。俺は園内の自動販売機で買った缶コーヒーを手渡しながら、「なあ天道」と話しかける。


「はい。なんでしょう」


「改めて聞きたい。なんで、俺を誘ったんだ?」


「さあ? 本郷さんのことが好きになっちゃった、とかですかね」


「馬鹿言えよ」と俺は鼻で笑う。まさかこんな冗談まで飛ばしてくるようになるとは、昨日までの俺に言っても信じないことだろう。


「本当のところは何なんだ? なんか文句でも言ってやろうとしたのか?」


「違うんです。ただ、本郷さんがなんとなく兄に似ていたもので、懐かしくなっちゃって」


「懐かしいって……長いこと会ってないのか?」


「そろそろ1年になります。……どこ行っちゃったのかな、本当に」


 やや落ち込んだような表情になる天道だったが、プルタブを起こしてふたを開け、缶コーヒーを一口飲んだころには笑顔に戻っていた。


「ねえ、本郷さん。お願いがあるんです。本郷さんのこと、お名前で呼んでもよろしいかなって」


「別に断るようなことじゃないだろ。こっちだってかたっ苦しい敬語は止めてるし、お前のことは呼び捨てだ」


「よかった」と微笑み、顔だけこちらへ向けた天道は「翔太朗さん」と恥ずかしそうに言った。なんだかこっちまで気恥ずかしくなってきて、俺は思わず顔を逸らす。


 天道の携帯が鳴ったのはその時のことだった。バッグから携帯を取り出し、電話を掛けてきた相手を確認した天道は、少し温度が下がった微笑みで「すいません」と謝った。


「急な用事が出来てしまいまして。少し、行かなくちゃいけないみたいです」


「別に気にすんな。せっかくの高校生なんだから、きちんと遊んだ方がいい」


「あ、遊んでるわけじゃないんです。ただ、その、外せない用事と言いますか……」


 言葉尻を濁し、「すいません」と再び言った天道は、ベンチから立ってやや歩いたところで、こちらを振り返って手を振った。


「あの……今日はありがとうございました! 翔太朗さんのおかげでわたし、頑張れそうです!」


 よくわからないが人の力になれたなら何よりだ。「ほどほどに頑張れ」と返した俺は、サムズアップを送った。


 後日。鬼の形相をした来華に「ひよりさんがセンセーのこと名前で呼んでたけどどういうことかな?」と詰め寄られたのは、また別の話になる。


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