第2話 ランボー その1
人気とか知名度はともかくとして、俺はヒーローである。だからといって、日常的にタマフクローの格好をしている馬鹿野郎なわけではない。
俺は世を忍ぶ仮の姿として、日中の間はしがないフリーター〝本郷翔太朗〟を演じている。ヒーローは大切な人を危険な世界に巻き込まないよう、己の正体を誰にも気取られてはならないのだ。
……というのは建前で、実際は貯蓄を少しでも増やすためにアルバイトをしているに過ぎない。20年後は、ヒーローを続けていられるかなんてわからないのだから。そもそも、ヒーロー業界なんて斜陽産業が20年後に存在しているのかもわからない。
本郷翔太朗の朝は遅い。タップリ7時間睡眠を取るので、起きるのはだいたい11時前後である。それから遅めの昼食を摂り、本格的に動き始めるのは12時くらいのことだ。
朝食を摂ってから、ランニングと筋トレで汗を流した後は、ロッキーばりにサンドバッグを相手に拳を打ち込む。仮にもヒーローなので鍛錬は欠かせない。
ずっしりとした重みを感じるほどにシャツが汗を吸い込んだころ、ふと時計を見上げれば、短針は15時を大きく回っていた。「こりゃまずい」と慌ててシャワーを浴びるなどして身支度を整えた俺は、16時になる前にマンションを飛び出した。今日はバイトの予定が入っているのだ。
マンションを右に出て、閑静な住宅街を道なりに進むと、やがて石ノ森駅に繋がる広い交差点に出る。そこを真っ直ぐに進んでいると、左手に細い道が現れる。そこを曲がってしばらく行ったところにある、ざっと見積もっても100坪は硬い土地に建てられたモデルハウスのような家が俺の目的地である。大理石の表札には、〝秋野〟と書かれている。
豪華な家の造りに対して質素な見た目のインターホンを押すと、ややあって「どうぞ」という声が返ってきた。扉を開けると、上品な笑顔を携え、金持ちオーラを嫌味の欠片も無く滲ませる有閑マダムが俺を出迎えた。
「いらっしゃい、先生。今日も時間ぴったりね」
「先生ですからね。時間くらいは守らなくては」
――そう。本郷翔太朗の世を忍ぶ仮の姿は先生なのだ。……といっても実情は、雇われの家庭教師だが、先生と呼ばれる立場であることには変わりない。
俺は、〝品のいい家庭教師〟を演じながら夫人と言葉を交わす。
「お嬢さんはもうお部屋にいますか?」
「窓から外に出ているような、おてんば娘じゃなかったら大丈夫よ」
「それなら問題ないですね。彼女はいい生徒です」
「どうかしら。なんたってこの私に似たんだもの。部屋から出るくらいしてくれなくちゃ」
秋野夫人はあどけなさの残る顔で冗談っぽく微笑んだ。
「さ、とりあえず上がって。後でお茶菓子を持っていきますから」
「いつもすいません、奥様。では、お邪魔します」
玄関に上がった俺は、すぐのところにある2階に続く階段を昇った。ただでさえ広い家なのに、どうして2階が必要になるのか疑問である。金持ちの考えることはわからん。
2階に上がって、左右に別れた廊下を右に折れ、一番奥にある扉をノックする。
「入るぞ、来華」
「どーぞどーぞっ、遠慮なくっ!」
あっけらかんとした声に言われるまま部屋に入る。ひと目見るだけで俺の家より広いとわかるその空間は、カラフルな雑誌で溢れかえった本棚と、原色の強いポスターで埋められている。そのどちらもが、ヒーロー関係のソレである。相変わらず、立っているだけで目が疲れる空間だ。
「いらっしゃいっ。テキトーにそこら辺座ってよっ」
部屋の主の女子高生――秋野来華は、大人3人でも快適に眠れそうなベッドに腰掛け、雑誌を読んでいる最中だ。雑誌の名前は〝Hero,S〟、世界中で活躍するヒーローの様々な情報がぎゅうぎゅうに凝縮された週刊誌である。
部屋を見ればわかる通り、来華はヒーロー大好き少女である。幸か不幸か、俺みたいな存在と真反対に位置する、漫画やアニメの住人のような非現実感溢れるようなヤツらが好みなので、タマフクローなどという三流のことは詳しく知らないらしい。ありがたい話なのだが、反面、やはり少々物悲しい。
「本当に好きだな、お前は」
俺は来華が持つ雑誌を一瞥し息を吐いた。
「ヒーロー、ヒーロー、ヒーロー……何がいいのかね、こんなの」
「だってカッコいいじゃんっ?こう、バーンって感じで悪い人を倒すのってさっ」
「カッコよく見えるのはそういう綺麗なとこだけ見てるからだ。新聞でも呼んで、あの業界の現実ってのを知ったらどうだ?」
「いつもどーりだね、センセーは。まるで自分がヒーローみたいに言うんだもんっ」
来華は雑誌から目を離さずにそう言って、へらへらと笑った。人の苦労も知らないでと思うが、勝手に苦労しているのはこちらなので、不満は口に出さない。
「ヒーローじゃなくっても苦労はわかる。ああいう仕事って、年中無休だろうしな」
「何を言うっ。元よりヒーローに休息は必要ないのだっ」
来華は雑誌を投げ捨ててベッドに立つと、両腕をYの字に広げて奇妙なポーズを取った。まったくもってアホである。
「バカ言ってないで、勉強だ。ほら、席に着け」
「はいはい」とベッドから飛び降りた来華は、その勢いで勉強机に腰かける。
「仕方ないなー、やったげるっ」
さて、埼玉では有数の名家である秋野家の長女、秋野来華は俺の生徒である。元より笑ったような顔の造りと、ウェーブがかかった栗色の髪の毛が特徴的な、いかにも〝イマドキ女子高生〟なコイツと俺との出会いは、もう5年も前のことになる。
あの時の俺は、当然まだヒーローというわけではなかった。部活をやれば、大して練習もしない癖に態度だけは一丁前の先輩と事あるごとに衝突して辞めさせられ、バイトをやれば、マナーや公序良俗意識の欠片も無い客と衝突してこれまた辞めさせられるということを幾度と繰り返していた点を除いては、いわゆる普通の高校生だった。
従業員へのセクハラが目立つ店長をぶん殴ったことにより、飲食店のバイトをクビになった翌日の学校帰り。人通りの多い商店街にて俺は、チンピラみたいな男3人が寄ってたかってひとりの少女を囲んでいる光景を目にした。その囲まれている少女こそが、当時まだ小学6年生の来華である。
来華は、自分よりも30cm以上背の高い男達に対して、毅然と立ち向かっていた。
「わたしは歩きたばこはダメだよって言ってるだけだよっ! それもわからないのっ?!」
「うっせぇんだよこのクソガキ。ナマイキ言ってんじゃねえ」
「悪いのはアナタたちでしょっ!みんなメーワクしてるんだからっ!」
「んなわけねえだろ。な、通行人の皆さーん?」
チンピラ連中が大人げなくもそう言いながら、威嚇するように周囲を見回すと、遠目から見ていた野次馬連中は白状にもそそくさと歩き去っていった。来華とチンピラ、4人の周囲5mだけ、一瞬にして無人の野となる。
「……アイツら」
自然と握られた拳、回転速度を上げる血流、圧縮される体感時間――。
ほんの一度瞬きをしただけなのに、次にまぶたを開けた俺が目の当たりにした光景は、すっかり伸びたチンピラと、ぴかぴかに磨かれたショーウィンドウに映る、チンピラの背中を踏みつけている俺の姿だった。
「な、なんだテメェ!」
残った2人は逆上した。話し合いでは解決できないと瞬時に理解した俺は、「通行人A」とだけ答え、唸る肉体言語に身を任せるまま男達の顔面に拳を叩きこんだ。男2人はそれぞれ、思い思いの悲鳴をあげてその場にうずくまった。
悪党を倒した俺に対し、周りからは賞賛の拍手が送られた――というわけにもいかなかった。誰が呼んだのか知らないが、紺色の制服を着た方々が乗る車の、甲高いサイレンの音が聞こえてきたのである。現実は非情だ。
「こんなとこで捕まったらアホらしいぞ」と考えた俺は、〝犯行現場〟から逃げ出すことにした。そんな俺のワイシャツの裾を、後ろから引っ張るヤツがいた。恐る恐るといった感じで手を伸ばしているのは来華だった。
「ね、ねえ……もしかしてアナタ、ヒーローなのっ……?」
「さあな」とだけ返した俺は、来華を残して警察に捕まらないうちにとっとと家まで帰った。その件で、「おたくの高校の制服を着た男の子が、商店街で喧嘩をしていた」と、当時、俺が通っていた高校に通報が入り、大きな問題になりかけたのはまた別の話である。
それから3年後、1か月足らずで大学中退という快挙を成し遂げた直後のこと。
考えうる中では最悪の形で大学を辞め、これからの人生どう過ごそうかと考えていた俺の目に、新聞受けに放り込まれていた1枚の求人チラシが目に入った。実働時間の割に給金が高いそれは、家庭教師のアルバイトだった。
「大学中退者がどうせ受かるわけもないが、物は試しだ」と記載してある番号に電話を掛け、面接のために向かった小洒落た喫茶店で俺を待っていたのが、秋野夫人と来華だった。
「あっ、あなたっ!」と来華は俺を指さして、夫人は「あら来華ちゃん、お知り合い?」とのんびり言った。
当時のことを覚えていた来華のおかげで、話はとんとん拍子に進み、30分も経たないうちに俺は晴れて来華の家庭教師となった。情けは人のためならずとは、よく言ったものだ。
「にしてもお前、家庭教師とか絶対要らないだろ」
勉強開始から1時間ほど経って、すらすらと問題を解いていく来華を横目に、特に何もすることの無い俺はぼんやりと呟いた。「夏休み前の期末試験だって学年3位だろ? 怖いもの知らずじゃねえか」
「でも、翔太朗センセーが来る前までは、ほんとーにテスト悪かったんだから。外出禁止命令が出るくらいだったんだよ」
「て言っても、ここ1年はお前になんか教えた記憶が無いぞ。ただこうやって、お前の話に付き合ってるだけ」
「ま、そーなんだけどさ」
来華はシャーペンを指で弄びながら答える。
「でもいーじゃん。そんなわたしのおかげで、センセーは好きなだけヒモ生活を送れてるんだからっ!」
「ヒモって言うな。悲しくなるだろ」
何もせずにぼうっとしているだけで時給が発生する。こんなことを毎日繰り返す生活なんて、ヒモと呼ばずしてなんと呼ぶ。そんなことは理解している。だからなおさら他の誰かに言われたくない、あまりにちっぽけなプライドである。
「悔しかったら、キチンとしたお仕事に就くんだね! なんなら、ウチの執事でもやってみる?」
「冗談言うな。こんな上品な家の家事手伝いなんて出来ねえよ」
そんな会話を交えつつ、来華が勉強する様を眺めていると、やがて扉がコンコンと2度ノックされた。「いいよー」と来華が答えると、秋野夫人が2人分のショートケーキと紅茶を盆に乗せて部屋に入ってきた。
「おや」と、わざとらしく声をあげた俺は夫人に近づき、とびきりの営業スマイルを浮かべる。
「いつも申し訳ありません。頂いてばかりで」
「いいのよ。それより、少し休憩なさったら? 根詰めてやってもいい結果は出ないもの」
「では、お言葉に甘えて」
秋野夫人は盆を俺に手渡すと、真面目ぶって机に向かう来華をちらりと見て、満足そうに部屋を去った。俺はそんな秋野夫人を見送ると共に、大きく息を吐いた。外交モードほど疲れるものは無い。
夫人が部屋を出て早々、シャーペンを投げ捨てた来華は早速とばかりにケーキを掴みにかかった。
「いやーっ、それにしても相変わらずすごいねぇ、センセーの二十面相。わたしの前とお母さんの前では、まったく別人だよっ」
来華はケーキを頬張りながら言った。
「お母さんを騙しとおす演技力、ムダに高い運動神経、ケンカ早い性格っ! センセー、やっぱりヒーローになるべきだよっ!」
「断る。俺はアイツらみたいな派手な格好が大っ嫌いなんだ」
「なんでさっ! 秋野家が総力上げてスポンサーになっちゃうかもしれないのにっ!」
「止めてくれ。いくら言っても無駄だ」
勉強机にケーキの盆を置いた俺は、ベッド上に投げ捨てられた〝Hero,S〟の最新号へと手を伸ばす。ぱらぱらとページを捲っていると、出るわ出るわ、外連味溢れるヒーロー達の立ち姿。これなんて、絹ごし豆腐が裸足で逃げ出すほど真っ白な衣装だ。ただでさえ人の目を引くヘンテコ衣装を着込んでいるというのに、これ以上目立ってどうするつもりなんだろうか。
しかし、いくら斜に構えてみたって、所詮俺も傍から見ればこいつらと同じなのだろう。そんな自己嫌悪に陥っていると、折り目のついたページで自然と指が止まった。ほとんど何も視認できないぼけた写真と、これでもかという量のクエスチョンマークが目につく見開きの特集ページだった。
「おっ! お目が高いね、センセーっ!」
来華はひょいと雑誌に顔を寄せてくる。
「センセーはそういう方がタイプなのかなっ?」
「タイプも何もねぇよ。というか、なんだコイツ」
「何もわからないんだよっ」と来華は意味ありげに微笑む。「わからない?」と聞き返すと、来華は「待ってました」と言わんばかりのしたり顔で説明を始めた。
「そうっ。ヒーローネーム不明、性別不明、年齢不明、身長体重不明、好きな食べ物も座右の銘だってもちろん不明。一切合切がベールに包まれた謎のヒーロー、通称〝幽霊〟。それが彼なのっ!」
「……幽霊、ね」
俺は額にしわを寄せて写真を凝視する。おぼろげな月明かりが、ビルの上に立つ人影をぼんやり照らしている写真だ。立ち姿と恰好を見ただけで、その人物がヒーローであろうことは何となくわかるが、それ以上の情報を読み取ることは難しい。
「見た目がわかってるなら、それはもう幽霊でもなんでもないだろ。マスクを被って人助けをして回る、〝正体不明の不審者〟だ」
「違うんだよセンセーっ。そのヒーロー、ホントに幽霊かもしれないんだからっ!」
来華は興奮気味に腕を上下に振る。テンションが上がった来華の言動が意味不明なのは昔からだが、今日はまた一段と解読不能だ。
「どういう意味だ?」
「だーかーらっ! 彼はヒーローの幽霊なんだよっ!」
「だからもなにも、それじゃなんの説明にもなってないだろ」
「もうっ!」と来華は俺の鼻先に指を突きつける。
「国に登録されたヒーローだったら、フツー、見た目さえわかればヒーローネームはわかるもんでしょっ! でもっ、彼の場合はなにもわからないっ! それってつまり、ヒーローの幽霊に他ならないでしょっ!」
来華はその瞳を眩しいくらいに爛々と輝かせている。俺から言わせれば、物好きなフリークがヒーローの真似事をしているだけに過ぎないのだが……もうコイツには何を言っても無駄だろう。
目の前に迫った面倒事を回避するため、「そうだな」とだけ答えた俺は雑誌を放り投げた。
「にしても、ヒーローの幽霊ってのも楽じゃないな。一度死んだってのに、世直しのために墓から出てきたってわけか」
「そうっ! 正義のために蘇った……まさにゾンビ! ゾンビヒーローっ!」
「……ゴーストかゾンビか、どっちかにしろよ」
ぼやいた俺はイチゴをつまみ上げる。ゾンビだの幽霊だの血なまぐさい話をしていたせいか、紅く染まったイチゴを見た俺を、原因不明の悪寒が襲った。