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エピローグ パルプ・フィクション

 俺は目の前に並べられた料理の匂いを嗅いだ。泣きたくなるような、自然と背筋が伸びるアンモニアに近い刺激臭が強烈に鼻を刺す。


 目の前に並べられているのはピータンだった。20mくらい離れた場所から眺めればスライスされたゆで卵に見えなくもないだろうが、この距離で見る色と匂いが毒々しく、とても食べ物とは思えない。


 こみ上げそうになる胃液を腹筋で押さえながら、俺はピータンを箸でつまみ上げる。そして、前の席に座る秋野夫人と交互に眺める。夫人は屈託のない笑顔を浮かべている。彼女自身には悪意の欠片も無いのが嫌になる。


 俺は、都内にある高級中華料理屋に来ていた。同席者は、秋野夫人、来華、そして司。4人で囲む円卓には、所狭しと様々な中華が並べられている。


 ……そう、例の食事会がついに現実のものとなったのだ。テーブルマナーをあまり意識しなくてもいい中華になったのは不幸中の幸いだが、一難去ってまた一難という言葉の通り、不幸というのは立て続けに起きるものである。


「見た目はこんなだけど美味しいのよ。オトナの味ね」


 そう言って夫人は嬉しそうにピータンを頬張った。隣の席で黙々と麻婆豆腐を食べ進めていた司は、「なんと」と小さく感嘆の声を上げる。


「お母さん、ホントにそれ好きだよねっ。アタシはあんまり好きじゃないのにさ」

「お母さんの子どもだもの。来華ちゃんだって大人になれば、きっと好きになるわ」


 秋野夫人はふた切れ目のピータンを口元に運ぶ。


「さ、本郷先生も」

「え、ええ、もちろん頂きます。ただ、今まで食べたことの無いものでして、よく観察しておこうかなと」


 ぎこちなく微笑んだ俺は、息を止めてピータンを口に放り込んだ。キツイ匂いでむせ返りそうになるが、涙目になりながらもなんとかそれを堪える。


「美味しいでしょう?」とあくまで無邪気な秋野夫人。

「美味しいです、涙が出るほど」


 その言葉とは裏腹に、俺はウーロン茶の注がれたコップに手を伸ばすのを我慢出来ずにいた。


「それはよかったわ。好き嫌いがある食べ物だから。先生のお口に合うか不安だったの」


 わかっているのなら食べさせないで欲しかったですね、なんて、飛び出しかけた台詞をウーロン茶と共に胃に流し込む。


「どうかしら司ちゃんも。一口食べればきっとやみつきよ」

「私は遠慮しておきましょう。父曰く、〝素敵な料理はその味がわかる年齢になってから〟。私にとってそれは、些か早そうだ」


 人の悪さと子どもっぽさを同居させたような表情で笑った司は、誰にも気づかれないよう俺にウインクを飛ばした。「コイツめ」と俺は、声に出さないよう唸る。


「いやいや、お前もここはひとつ食べてみたらどうだ? 案外、その子ども舌にも合うかもしれないぞ」

「いえいえ、涙が出るほど気に入ったのでしょう? そんな本郷先生から、たとえ一口でも頂くなんて、とてもとても」


 俺と司は視線をぶつけ合い、互いに一歩も譲らないまま珍味の所在について押し付け合いをする。「このバカ」「何を」と、唇を動かすだけで程度の低い言い争いをするという、酷く不毛な時間を過ごしていると、来華が「それにしても」と全く別の話を切り出した。仲裁のつもりなのかと思いきや、色鮮やかなエビチリをこれ見よがしに美味しそうに頬張っているので、そういったつもりは毛頭なさそうだ。


「驚いたよねぇ。まさか、アージェンナイトがヒーロー引退だなんてさ。わたし、今でも信じられないよ」

「本当ねぇ」と夫人が続く。


「でも私、今の彼の方が好きよ。今までは何か、目がギラギラしていて怖かったもの」


「思うところがあったんでしょう」と他人事のように言った俺は、ピータンの皿をそっと司の前に寄せる。


 来華と夫人が言った通り、アージェンナイトこと百白皇はヒーローを引退した。突然、夕方のニュース番組に乱入したと思ったら、「ドクターストップが掛かった」とひと言、試合後のボクサーみたいにボロボロの顔つきでそう言うと、あとは何も語らずにカメラの前から去っていった。


 ヤツのファンにとっては、この引退宣言はあまりに突然だったが、しかしそこまでショッキングというわけでもかっただろう。何せ百白は、引退宣言の数分後に開いた記者会見で、「これからは俳優としてやっていく」と恥ずかしげもなく言ってのけたのだから。


 来華が言うには、引退宣言を受けた世間のアージェンナイトファンからは、「ヒーロー引退は残念だけど、俳優として見れるならいっか」程度の反応しかなかったらしい。〝ヒーロー〟としての百白の姿にしか興味が無い来華は、ヤツのファンをすっかり辞めてしまったらしいが。喜ばしいことだ。


 さて、それでは何故、人気絶頂ヒーローだった百白が引退を決意したのか。説明しよう。


 ある日のこと、百白の自宅に差出人不明の一枚のDVDが届いた。それには、〝か弱い女の子〟を罵詈雑言で責め立てる百白や、ファンの前では決して見せることの無かった裏の顔。さらには、そんなどこからどう見ても悪人の百白が、無名ヒーローに完膚なきまでに叩きのめされる無様な姿が収められていた。


 当然、百白は驚愕した。どこで、いつ、どんな目的で撮ったのか。〝誰が〟ということ以外、次々湧く疑問を捨て置くことにした百白は、即日で差出人と思わしき人物へ接触を図った。それが俺である。


 その日の俺は、朝9時前からマスクドライドで掃除の手伝いをしていた。襲撃の日から3日経ったが、掃除は未だ半分程度しか進んでいなかった。20分ごとに煙草休憩を取ろうとする愛宕と、口ばかりで手を動かさない八兵衛とでは、進捗状況が芳しくないのも無理はなかった。


 やがて百白が喫茶店までやって来た。その服装は、いつもと違ってジーンズにジャケットというまったく人目を惹かない格好だった。


 店内にも関わらず、「どうせ汚れてるんだから」という理由で煙草の灰を床に落とす愛宕の横をすり抜けた百白は、俺を弱弱しく睨みつけた。


「……単刀直入に言おう。あの映像を買いたい。もちろん、君のいい値でいい」

「金なんて要るか」


 俺は長箒の柄にあごを乗せる。


「これ以上司に関わるな。そうすりゃ、あの映像は公開しないでおいてやる」

「そ、それじゃダメだ。あの映像がキミの手元にあるままじゃ、安心してヒーロー何て職業続けられないじゃないか」

「約束は守るから心配すんなって。それに、後になって金を寄越せなんてケチなことも言わねえよ」


「そうは言ってもさ」と百白は中々納得しないで金を押し付けようとしてくる。俺は「要らん」と突き返す。そんな押し問答がしばらく続き、やがて耐えかねた俺は「だったら」とぶっきらぼうに言った。


「辞めりゃいいだろ、ヒーローなんて。それで、タレントにでもなって適当に金稼げよ。そうすりゃ、ヒーロー云々の心配は要らねえだろ」


 投げやりなその言葉は、百白にとっては天啓とか、目からうろことか呼ぶべきものだったらしい。途端にクソ真面目な顔つきになった百白は、「なるほど」と何度も頷いて、ムカつくくらいの晴れやかな笑顔で俺に手を伸ばした。


「なんだよこの手」

「握手だよ。感謝してるんだ、キミに。ボクに新しい道を示してくれてありがとう、ってね」


「……そりゃどうも」と俺は手を握り返す。あの時、俺が「呆れた」と口に出さなかったのは、元より百白という男に呆れていたからに他ならない。


「じゃあね、〝本郷クン〟。僕は帰るよ。今日にでも記者会見を開くことにしよう。サプライズだ。それが、アージェンナイトとしての最後の仕事さ」


 そうして百白は店を後にした。その背中をぼんやり見ていた愛宕は、紫煙と共に「あほくさ」という言葉を吐いた。


 宣言通り、百白はその日のうちにヒーローを辞めた。


 これが、〝国民的人気ヒーロー電撃引退〟の裏側である。大多数のヒーローの例に漏れず、あの男はヒーローに対する敬意とか誇りとか、正義感とか使命感とか、そういうのを何ひとつ持っていなかったというわけだ。


 重苦しいものは持たない主義の俺だったが、「ヒーローを続けるんだったら信念のひとつくらいは持っておいた方がいいのかもしれない」と、百白のおかげで考えを改め直すことが出来た。


「でも、わたしやっぱりヤだなあ。あーんなカッコいいスーツ着たヒーローが引退するなんて」

「そうは言っても、仕方ないでしょう。先生の言った通り、アージェンさんにも思うところがあったのよ」


 夫人がそう言い終えると同時に、話が終わるのを見計らったかのようにウェイターが俺達の机に杏仁豆腐を乗せた小皿を4つ運んできた。


「あら」と満足げに目を細めた夫人は、小さなスプーンで杏仁豆腐をツンと突く。


「そういえば杏仁豆腐って、アージェンさんに似てるわね。白いところとか、やけに甘いところとか」


「勘弁してくれ」と、俺は心の中で唱えた。



 夜の8時を回ったところで、食事会はお開きとなった。ピータンを噛まずに飲み込む作業以外は、さほど苦労せずにこれを乗り切ることが出来たのは、隣に並んでいた司が奥様との会話のほとんどを引き受けてくれたに他ならない。


「礼は要らんぞ。貴様には、いくら感謝してもしきれないくらいの恩がある」


 夫人が化粧直しで席を立った時、司は何食わぬ顔でそう言った。だったらピータンも任せてしまいたかったのだが、それは言わないことにした。


 店を出ると、知らないうちに夫人が呼んでいたのか、一台のタクシーが〝送迎〟のランプを光らせて停まっていた。


「秋野さんですか? どうぞ、こちらへ」


 柔和な顔の運転手が、そう言って後部座席の扉を開いた。俺は開いた扉に手を添え、夫人と来華のふたりに手招きをする。


「どうぞ、奥様。それに来華さんも」


「ありがとう」と微笑んだ夫人は、来華と共に後部座席に着く。それを見送った俺は、静かに一礼した。


「奥様、今日はごちそうさまでした。どの料理も、もちろんピータンも、美味しくいただけました」


 もちろんピータンの部分は世辞だが、そうとは少しも思っていないだろう夫人は、窓を開けると「それはよかった」と頬に手を当てた。


「それよりも、ふたりも乗っていかれたらどうかしら? 途中までは一緒でしょう?」

「そーだよっ!乗っていきなって!」と来華。どうやら、まだ喋り足りないらしい。


 申し訳なさそうに一歩出た司は、「お気遣い有りがたいですが」と頭を下げる。


「私は遠慮しておきます。この後、用事があるので」

「えーっ? なら、センセーはどう?」

「自分も。食後は少し運動するようにしているんです。教師は健康が第一ですから」


 にこやかに、そして爽やかにそう言った俺は、もう一度頭を下げた。


「あら、それは残念ね」と夫人は名残惜しそうに微笑む。


「それじゃあ、本郷先生に司ちゃん。今日はご一緒出来て楽しかったわ。今度は夫も参加できると思うから、また企画させてね」


 夫人に加えてほとんど顔を合わせたこともない旦那とも食事とは、考えたくもない。


 勘弁してくれとは思いながらも、「是非に」と心にもないことを言うと、小さなエンジン音と共にタクシーが出発する。慌てて窓から顔を出した来華は、最後の別れでもないのに、大げさなくらい大きく手を振った。


「じゃーねふたりともっ! センセーは、司ちゃんをきちんと家まで送ってあげることっ!」


 俺は司と並んで手を振る。しばらくそれを続けた後、タクシーがすっかり見えなくなったことを確認した俺は安堵の息を吐いた。


「肩凝るな、本当に」

「……翔太朗、貴様、コハナの母親の前だといつもあんな風なのか?」

「言うなよ。自分でも気持ち悪いってのはわかってる」


 緊張した身体をほぐすため、俺は肩をぐるぐる回しながら歩きはじめる。何を言うでもなくその後に続いた司と共に、俺は夜の比衣呂市を歩いた。


 季節はもう10月の後半に差し掛かる。肌寒いと感じる日もあれば、夏に逆戻りしたかのように暑い日もあるという、妙な気候が続いている。どんなヒーローだって気象変動をどうにかすることは叶わないので、俺達は甘んじてそれを受け入れるしかない。


 頭の後ろで手を組んで空を見上げれば、晴れているというのに月が出ていない。ゆっくりしたい今日に限って新月だ。これじゃ、仕事をサボるわけにもいかないだろう。


 月が出ていない土曜日なら、駅前なんかよりも商店街の方が要注意だ。あの通りはコンビニもないため、深夜2時から3時の間は全く人が通らないから、個人店を狙った窃盗なんてものが年に2,3回は発生する。


「翔太朗、阿呆のように空を眺めて、何を考えているのだ?」

「〝食後の運動〟について、ちょっとな」

「それは奇遇だな。私も、〝この後の用事〟について考えていた」

「もったいねえの。せっかくの高校生なんだから、たまには遊んでもバチ当たらねえだろ」

「おいおい、私はヒーローだぞ。遊びほうけている暇など――」


 そこで言葉を切った司は、自分の発言を鼻で笑いながら「いや」と首を振った。


「もう止めたんだったな、〝コレ〟は。高校生活の方も、善処させてもらうさ」

「それでいいんだよ、それで」


 そう言って俺が口元を緩めた、その時のことだった。耳をつんざくような女性の悲鳴が、そう遠くないところから聞こえてきた。


「司、今の声――」

「ああ。絹を裂くほどの、という喩えがこれほど合う悲鳴もあるまい」


 表情を引き締めた司は、その場で屈伸をして身体を温め始める。


「行くぞ、〝ヒーロー〟。手の届く範囲にいる全ての人を助けるのが、私達の役目だ」

「もちろんだ。……でも司、ひと言だけ言わせろ」


 俺は苦笑しながら言った。


「俺はヒーローなんかじゃない」


これにて終了です。今までお付き合いくださった方々、ありがとうございました。


気が向けば続きを書くやもしれませんが、予定は未定ということで。

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