第1話 トゥルーマン・ショー その2
説明しよう。……というか説明させて欲しい、弁明させて欲しい。あまりにどうしようもない俺のヒーローネーム、〝タマフクロー〟について。
始めに言っておきたい。タマフクローとは俺が泣く泣く〝初代〟から受け継いだ名前であって、天地天明に誓って俺が好き好んで付けたわけではない、ということを。
では、どこの誰がこのような、男性の股間にぶら下がっているソレを彷彿させるような名前をつけたのかといえば、その犯人は初代タマフクローであると共に俺の親父でもある、本郷弘その人だ。
「フクロウを模した埼玉のヒーロー」という意味合いで、自信満々にこの名前を付けたらしいが、思い浮かんだ時に何か妙に思わなかったのだろうか。「アレ? この名前だとちょっと妙な誤解を受けるかも? 子どもウケは悪くないかもしれないけど、お母さんウケはサイアクかも?」とか、ちらりとも考えなかったのだろうか。我が親ながら、このネーミングセンスの悪さにはお手上げと言わざるを得ない。だから母さんにも逃げられるんだコンチクショウ。
ああ、今になっても思い出す。親父が俺にヒーローなどという苦労が絶えない職を継がせた、あの日の夜を。
――話はほんの1年前に遡る。あのころの俺はヒーローに対して毛ほどの興味も持っていなかったし、ましてやそれを自分の仕事にするなんてことは思ってもいなかった。もっとも、今も〝ヒーロー〟という存在に対しては、自分の職であるという以上の認識は無いのだが。
運命の日の夕飯時、親父は突然言い出した。
「翔太朗、話がある」
「なんだよ、やけに改まって」
「父さんな、仕事を辞めようと思うんだ。もう身体がボロボロだ」
「何を言いだすかと思えば……」
俺は親父のその言葉にうんざりした。というのも、親父が「仕事を辞める」と言い出すのもこれが初めてのことではなかったのである。
焼き魚の身と骨を分ける箸を止めないまま、俺は答えた。
「前回は確か、ふた月前だったか? その引退宣言。いい加減にしろっての。どうせ辞めない癖に」
「馬鹿言うな、今度は本気だぞ。絶対だ、絶対辞めてやる」と、親父は子どものように意固地になる。
「辞めてどーすんだ。自分の歳考えろっての、もう46だぞ? 次の仕事が見つかるわけねーだろーが」
「大丈夫だ。実は、田舎の親戚が所有してる空いた土地を間借り出来ることになってる。父さん、農業で生きてくよ」
「ああ、ヒップホップで生きていくなんて言い出さないでよかったよこの糞親父。そんな大事なこと、なんで俺に相談しなかった?」
「4カ月前、父さんに相談もせずに大学辞めたのはどこの誰だったかな」
俺は思わず箸を止め、顔を背けた。俺には、大学に入学してから僅か1ヶ月足らずで、嫌味な教授の態度にどうしても我慢できず、その禿げ頭に退学届を叩きつけて学校を去った過去がある。
口ごもる俺に親父はさらに続けた。
「というわけで仕事辞めるぞ。でもって、明日にでも家を出る。文句ないな?」
「ま、待てって。確かに俺は大学辞めたけど、それとこれとは話が別だろ? 大体、明日にでもって、このマンションはどうすんだよ。家の整理は? 色々順序があんだろーが」
「大丈夫だ。この家はお前にやる。整理はまあ……空いた時間でやれ、ニートだろうが」
「ニートじゃないフリーターだ。てか、マンションのローンなんて払えないからな。要らん」
「そう言うな。条件さえ飲めばタダだぞ」
「なんだ条件って。臓器をひとつ売れ、とか言うんじゃないだろうな」
「どうしてお前はそうすぐに物騒な考えになるんだ。親の顔が見てみたい」
「アンタが親だ。で、条件ってなんだよ」
「俺の職を継げ。それが条件だ」
「継げって、親父の仕事って跡継ぎが必要になるようなモンなのか?」
「もちろんだ。近くにいたらウンザリするけど、居なかったらそれはそれでちょっと困る、父さんはそういう存在なんだぞ。跡継ぎがいなくちゃどうしようもならん」
「世話焼きおばさんみたいだな。それってつまり、なにやってんだ?」
「秘密だ。継ぐというなら教えてやる」
そこで俺はふと考えた。そういえば、親父はどんな仕事をやっていたのだろう、と。
親父は自分の仕事について、ただの一度も話したことがなかった。俺がどれだけせがんでも、頭を下げて頼み込んでも、三者面談の時も、どんなときも、決して。そんな親父の秘密主義のおかげで、小学生の時、「お父さんの仕事を作文としてまとめる」という宿題が出来ずに国語の先生から叱られた覚えがある。
あの時はまさか、親父の仕事がヒーローであるとは思いもしなかった。しなかったので、俺は「家と職が同時に手に入るならまあいいか」などと浅はかな考えに至り、親父の出した条件を飲むことにした。
「わかった。やってやるよ、親父の仕事。大卒じゃなくっても大丈夫なんだよな」
「もちろん。むしろ、お前みたいな体力馬鹿にはぴったりの仕事だ。じゃ、早速俺の部屋に来てくれ。〝仕事道具〟は用意してある」
一転、笑顔になった親父は、その日まで身内の侵入すらも頑なに拒み続けていた自身の部屋に俺を招き入れた。
……そして俺は、入学から1年経たないうちに大学を勝手に辞めたことや、20を目前にして定職に就いていないことなどをネチネチと責められた挙句、ヒーロースーツとわいせつネームを継承するハメになったのである。
自分が去っても町の治安を守るため、後継者を用意するという考えは賞賛に値するとは思う。しかし、その生贄として実の息子を捧げるのはいかがなものか。これはもう地獄に落ちろと言わざるを得ない。
とにかく、〝タマフクロー〟という名前には、そして俺がヒーローになったのには、こんな華やかさはおろか、正義や大義の欠片も無い経緯がある。
○
夜中の2時を回ったころ。屋根から屋根へと飛び移りながら一般市民の目に移らぬよう周辺地域の見回りを終えた俺は、心身ともにへとへとの状態で帰宅した。
埼玉県から東京都にかけて走る某鉄道沿線の、石ノ森という駅から歩いて15分のところにある6階建てのマンション、そこの最上階角部屋こそが俺の自宅兼拠点だ。
玄関に入ったところからすぐ見える、16畳のリビング兼キッチンには、ソファーにテーブル、エアコン、テレビ、パソコン等々……家電や家具はあらかた揃っている。
リビングから繋がるは、サンドバッグが吊るされたトレーニング用の部屋、さらにはベランダ付きの寝室までもある。安月給のヒーローにしては豪華すぎる住処であると思われるだろうが、これもヒーロー活動による恩恵だ。
実はこの部屋、初代タマフクローの活動に対して比衣呂市から格安で提供された部屋なのだ。親父の活動が一定の評価を得ていた、ということなのだろう。若い女性からの評価は文句なしで絶望的だが、その点は考えないことにしたい。
マンションの屋上にこっそりと降り立つと同時に、俺はマスクを脱いだ。あの失礼な女に引っ叩かれた頬に夜風が沁み入る。
住民達に見つからないよう窓から自室に飛び込んだ俺は、道中でスーツを脱ぎ捨てそのまま風呂場に駆け込んだ。熱いシャワーを頭から浴びながら思うことと言えば、もっぱらこの名前を〝ナイトオウル〟、せめて〝フクローマン〟辺りに直せないかということばかりであるが、ヒーロー名の変更は「名前がコロコロ変わると市民が困惑するから」というふざけた理由で認められていないので、思うだけ無駄である。
この仕事を続ける限り俺は、下手をすればセクシャルハラスメントで告訴されかねないこの名前を背負っていくしかないのだ。
シャワーの後は1人寂しく夕食――というよりも早朝食か。途中、ふと付けてみたテレビから流れてきたのは今日の天気予報。今日は午後から雲行きが怪しく、関東一帯で雨になるらしい。いくら雨が降ろうとヒーロー稼業が休みになることはないので、俺には関係ない話だ。
食事の後は眠い目こすってスーツをクローゼットにしまい込み、そのまま布団に倒れ込む。主に気疲れが重りとなって、まぶたはあっという間に落ちていく。
朝日が昇るよりも少し前の時間、こうして地方ヒーローとしてのルーチンは終わりを告げる。こんな生活が嫌になってヒーローを辞めてやろうと考えたことは一度や二度では済まされない。しかし、辞めてしまえば定職と住処を一度に失うのだと考えると、中々どうして踏ん切りをつけることが出来ずにいる。
ああ願わくば、せめて明日は若い女性に殴られることが無いように。
○
説明しよう。ヒーローという職と、その成り立ちについて。
「今さらなんだ、煩わしいぞ」と思われるかもしれないが、現実を知ってほしいのである。ヒーローとは決して華やかな職業ではないという、その現実を。
1950年ごろの話。そのころの日本は戦後ということもあり、酷く治安が悪かったらしい。さらには、警察組織も今現在のように十分な機能を果たしておらず……そこで自然発生的に生まれたのが、報復対策のために覆面を被った一般市民が、自主的に周辺地域を警備するという〝地域防災覆面警備隊〟だ。それが、今で言うところのヒーローの走りである。
そう、日本におけるヒーローは元々地域の治安を守るボランティア軍団であった。別に、突如現れた悪の軍団や怪人などに対抗するため生まれたわけではないのである。
それから時が移りゆくと共に、科学の発展によって犯罪も多様化、増加し、またそれと競うようにしてヒーローの数も増えていった。1990年代前半にはヒーローの数は日本国内だけでもおよそ40万人を超えていたというのだから、世はまさに大ヒーロー時代であったと言うべき他ない。
さて、そんなヒーロー存在の全盛期が1990年代だとすれば、転換期が2000年代前半に当たるだろう。
――2001年6月、「いくら相手が犯罪者とはいえ、なんの権限も与えられないままに暴力をふるう覆面集団を政府が野放しにしていいのか」という市民の声を全面的に受け入れ、全国的に制定された「ヒーロー登録法」によって、ヒーロー活動は登録制となり、その数は著しい減少の一途を辿った。
「国の首輪が付いた英雄など虚像である」。当時は、そんな風に考える気骨のあるヒーローが多かったという。そんなヤツら、今では絶滅危惧種であるが。
2003年には犯罪件数が増加――前年度比にすると約2倍となった。ヒーローという〝ボランティア団体〟に頼り切っていたこの国においては、警察組織だけでは犯罪の抑止力になり得なかったのである。
「そもそも、ヒーローを登録制にするんだったら、犯罪者も登録制にするべきだったんだ」
当時は、こんな皮肉がよく流行ったらしい。
目減りするヒーロー、減らない犯罪件数。業を煮やした政府は2004年、国に登録したヒーローに対し寄付金の給付を決定し、その数の増加を促した。その額は、全国一律でひと月につき24万。色々引かれても20万前後は貰えるので、月の給料としては十分であると思われがちだが、怪我なんて日常茶飯事の危険な仕事だし、加齢による身体的衰えからヒーローを引退した後、別の職に就こうとしても職歴に「ヒーロー」とは書けないし、どれだけの成果をあげても、どれだけの経験を積み重ねようとも24万という額が変わることは無いし、何が起きても全て自己責任だし、誰に文句をこぼすこともできないし……真面目にやろうとすれば、酷くブラックなお仕事である。
東京を拠点とする一部の人気ヒーローの中には、どこぞの事務所とタレント契約をしてがっぽがっぽと稼いでいる奴もいるらしいが、そんなのは全体における1%未満の超マイノリティーのお話なので何も参考にならない。
さて、さらに時は流れて2017年現在。ヒーロー登録者数は依然として全盛期の20分の1程度に収まり、その大半は東京で活動しているというアンバランスな状況の一方で、一日の犯罪件数は10年前の水準を維持している。
ここまで言えば、俺が何を言わんとしているのかわかるだろうが――しかし、あえて説明しよう。
諸君、ヒーローはつらいぞ、猛烈に。