プロローグ
まだ少し冷え込んでいる3月のある日。実家からは遠く離れた高校に通うことになったため、一人暮らしのために引っ越して来た家の片付け作業をさっきまでしていた。流石に一日中働き詰めだとかなりきつい…。時刻は11時を回った頃、家のドアがノックされた事に気付いた。こんな時間に人が来るとは思えないのだが…。俺は疲れきった身体を起こし、玄関に足を運ぶ。
扉の前に立つとものすごい緊張が走った。変な汗も身体中から出てくる。俺の場合まず、最初に変な人だったらどうしようとか思わず考え込んでしまう。そう、犯罪者とか悪質な訪問だったらとか想像しただけで血の気が引いてしまう。もうこれだけは認めても良いが、俺はチキンと言う名のビビリだからこんなふうに考えてしまうのも無理はないと思っている。まだ何も起こってないのにネガティヴな事ばっかり考える人いるじゃん。俺ってまさにそういう性格。家族や友人に同意を求めた事があるが、納得のいく返事が返ってきた事は無い。
とりあえず誰が来たのかを確認すべく、俺は扉の中央の少し上にある小さな穴から覗いてみた。すると目玉がこちらを見ていた。相手も覗いていたらしい。
「うわあああああ‼︎な、ななな、なんだ⁉︎」
心臓が飛び出るかと思うくらいびっくりした。叫んでしまったのと同時に、反射的に扉から離れ、そのせいで壁に頭をぶつけた。
さて、これで居留守を使うことができなくなった。叫び声が扉越しに丸聞こえである。もうこうなったらどうにでもなれええ!そう心の中で叫びながら目を瞑り、力強くドアノブを握りしめたまま勢いよく扉を開けた。すると何かに当たる音がした。
「ああああああああああ!鼻があああああ!うぅぅ…」
あれ?今の声的に女の人じゃん。俺はゆっくり目を開けると、驚いた事にその人はメイド服を着ていた。見た感じ黒髪のショートヘアで大きい黒目が特徴的。多分身長は俺より少し低いから160くらいだろうか。ていうかこの人メイド服着たままここまで来たのかよ。まあとりあえず女の人で良かった…。
「ちょっと!痛いじゃないの!こんな事しといて謝罪の一つも無しに何ホッとした顔してるの!」
彼女はしゃがみこんだまま鼻を片手で抑え、もう片方で俺の方を指差して怒りの言葉をぶつけてきた。俺はあまりの展開に混乱した。
「いや、ごめんなさい!もし変な人とかだったら怖いな…って思って怖くて勢いよく開けてしまって…」
「ちょ、変な人ですってええ⁉︎あなた失礼にも程があるわよ!」
どうやら俺の精一杯の謝罪で彼女の怒りを更にヒートアップさせてしまったようだ。いきなり何なんだよこの人。
「べ、別にあんたの事を変な人って言ったわけじゃないんだけど…」
「うわ!また言った!また言ったよこの人!またわたしのこと変な人って言ったよ!ありえなーい!」
俺の言葉を遮るように口走った。こいつ日本語理解できてるのかな。俺は面倒くさそうに頭をかく仕草をしながら尋ねた。
「で、何か用ですか?」
すると彼女はスッと立ち上がり、俺の方を向いて両手に腰を当てると俺にこう言った。
「わたし、今日からあなたのメイドとして働くことにしたから!」
………は?今なんて?
「いや、別に頼んだ覚えはないけど…」
怪訝そうな表情をしているであろう俺に、彼女は当たり前でしょと言わんばかりに言った。
「そうよ、頼まれてないわよ」
意味が分からない。
「理由ぐらいは説明してもらえるんだよね?」
「理由なんてないわ!これはもう運命なのよ…!」
ふざけた態度をとったのに腹を立てた俺はとっさにドアノブを握り、さっきと同じくらいの勢いで扉を閉めようとした途端に彼女は泣きついてきた。
「ねええええ!分かりましたあああ!お願いしますううう!話を聞いてくださいいいい!」
時刻は11時を過ぎている。ここはアパート。こんな叫び声がアパート中に響けば睡眠の妨げになるに他ならない。そんな事も気にせず大声で泣き続けるこのメイドに静かにするように注意を促した。
「おい!何時だと思ってるんだよ!近所迷惑だろが!」
その瞬間、右隣の扉が開き、そっくりそのままの言葉が返ってきた。
「おい!何時だと思ってるんだよ!近所迷惑だろが!」
そう言うと勢いよく扉を閉めた。お隣の細西さんだった。細西さんには引っ越してきた初日に挨拶に伺ったのだが、愛想が悪くてどうも今後のご近所付き合いが面倒になると悟った。
俺がよほど驚いた表情をしていたのか、さっきまで泣いていたこのメイドはこらえるようにクスクス笑っている。こいつドアで小指挟めてやろうか。
またさっきみたいに泣き叫んだりされてはたまったものではないので、こいつを家の玄関に入れる事にした。
「いい?わたしはメイド学院を卒業して」
「え、何?メイドになるための学校とかあるの?」
「そうよ、学校では成績優秀だったの!」
うわ…すごく胡散臭い気がするな。俺は目を細めて腕を組みながら自慢気に胸を張る彼女を見つめた。
「ちょ、何よ!変なものでも見るようなその目は!もしかして私のこと疑ってるわね?いいわよ!だったらこれをしっかりと自分の目に焼きつけなさい!」
そういってポケットから何やら二つ折りになっている画用紙を取り出し、俺の顔に叩きつけた。
「痛っ!何すんだよ!」
俺は少し彼女を睨みつけながらその画用紙を開いた。様々な項目と数字がずらりと書かれていた。見た感じ成績表のようだ。数字のほとんどが4と5で埋め尽くされている。どうやら彼女の証言は本当だったらしい。
しかし俺はまだ彼女が本当にメイドなのかを疑っている。普通にタメ口だし人様に迷惑かけるし、挙げ句の果てにはメイドとして雇ってもらおうとしている人に暴力まで振るった。
メイドとしてあるまじき行為を色々とやらかしてくれたわけだが...こりゃ初日でクビになるのも納得がいく。
「さっきからおとなしくしてりゃ色々とやってくれるじゃないか。いいのかなぁ?ご主人様にそんな事しちゃってぇ」
ちとからかってみた。すると負けずと言い返してくる。
「別にまだあなたのメイドになってないしー!」
「へーそうかい」
俺は踵を返してリビングの方へ歩こうとした。
「あああ!ごめんなさいごめんなさいお願いします許して下さい!」
ほんと邪魔だなこのメイド。
「あーもう分かったから静かにしてくれ…」
彼女は『白鳥女子メイド学院』の卒業生。成績優秀でスタイルも良くて美人。非の打ち所がない学生だったらしい。(学校では)メイド学院に通っているからには、当然将来はメイドとして働くのが決まりなので、秋頃にはどの家で働くかを決め始める。まあ一般的に言えば進路選択のようなものがあった。彼女は成績優秀だったため、大きい屋敷に住んでいる大金持ちの主人のメイドとして働くことになったのだが…なんと独り言で愚痴を言っているのがたまたま主人に聞かれてしまい、初日にしてクビになったそうな。馬鹿である。実に馬鹿である。家を追い出された駄メイドは学校に相談をすると、ランクも給料も下がるがそれでも良いならメイドとして雇ってくれる所を自力で探してこいと言われ、とうとう俺の家に辿り着いたらしい…いや待て!
「ていうか何で俺の家なんだよ?」
するとなぜか俺から視線を逸らし、早口で何やら言い出した。
「たまたまこの辺を歩いてたら?まあたまたまあんたが歩いてるのを見かけて?あんた冴えなそうだし質素な生活しかしてなさそうだったから仕事するこっちからしちゃあ楽だと思っただけよ!」
ほんと殴りたいんですけど…俺は必死に歯を食いしばり、勝手に飛んでいきそうな右手を左手で抑えつけた。我慢しろ…相手は一応、女の子でメイドだ。俺ももう高校生だし、手を出したりすれば警察のご厄介になりかねん。
「だからさ!これにサインしてよ!」
そう言ってまた何やらポケットから一枚の紙を取り出して、どうぞ押して下さいと言っているかの様に両手でその紙を見せつけてくる。
サインという事は契約書か何かなのだろう…しないぞ。絶対サインなんてしないぞ。
その時、俺は大変ヤバイ事に気がついた。玄関の右端に設置されている靴を入れる棚があるのだが…両親から色々と荷物が届く予定なので、いつ来ても良いようにと、印鑑を置いていたのをすっかり忘れていたのだ。
ヤバイ…この人なら自分で押しかねん。
動揺している事に気が付いたのか、怪しい人でも見るように、まじまじと俺を見つめてくる。
やめてくれ、あんたのその視線怖すぎるよ。鏡で見てもらいたいぐらいだ。
俺は彼女の視線を逸らし、印鑑をじっと見てしまった。すると彼女も俺が見つめている方向に目線をやったらしい。
まずい!しかしもう手遅れだ。
「あっ!それってまさか!」
駄メイドは印鑑を勢いよく手に取ると目をギラギラ輝かせた。
あーもう駄目だ。俺の青春はもうぶち壊されたも同然。
さようなら。俺の優雅な学生生活。
「はい、これはあなたに押してもらわないと!流石に自分で押そうだなんて思ってないわよ〜」
そう言って印鑑の蓋を開けると、俺の右手にそっと印鑑を握らせた。
うーん…だいぶ疲れが溜まってきてるな…。あぁ…眠…。……カクッ
「はっ!」
あれ?今一瞬だけ意識が遠くなった気がするのだが…
「やったあああ!これで文句は言わせないからねえええー!早く連絡しなくちゃあー!」
笑顔ではしゃぎながらさっきの紙をひらひらさせている。俺は見逃さなかった。ひらひらしている紙に一瞬、赤いインクがついていたのを…
「だあああああああああああああああー!!!」
やってしまった。どうしよう。なんてことをしてしまったんだ。
恐らく俺が眠気に襲われて、頭がかくついたのと同時に、印鑑を持っていた右手も一緒にかくついてしまい、押されたっぽい。
頭を抱えしゃがみ込んでいる俺を気にせず、駄メイドは喜びの舞を舞っている。
いや、待て!そんなはずない!俺の意識が遠のいている間にこの駄メイドが何かしたに違いない!
「おい待て!お前!俺に何を」
顔を上げた途端に、駄メイドがスマホで誰かと電話しているのが目に入った。
「はい!…はい!…ほんとに快く承諾して下さいまして…はい!これから精一杯頑張らせていただきます!…え?あ、はい分かりました!」
会話を終えると俺にスマホを渡してきた。訳が分からずキョトンとしている俺にこう言った。
「私の担当の先生でございます。どんな人なのか、ご挨拶がしたいそうですよ」
タメ口なのが電話越しにバレないように突然口調が変わった。コイツめ!
俺はしぶしぶスマホを受け取り耳に当てた。
「もしもし…」
すると、教師にしてはまだ若いなという感じの声が聞こえてきた。
『初めまして、わたくし白鳥女子メイド学院の荒崎といいます。えっと、お手数お掛け致しますが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか』
流石メイド学院、かなり丁寧な言葉使いだ。そこの駄メイドにこの教師の赤を煎じて飲ませてやりたい。
「えっと、山口正紀です」
『山口様でございますね』
えっなんか様って言われたんですけど…で、でも今時普通か。
『先程彼女から話は聞かせていただきました。文句一つ言わず快く承諾してくださったようで…本当にありがとうございます』
早速間違った情報が伝わってますけど!あいつさっき何喋ってたんだよ!
俺は怒りの視線を送ると、ふいっと目を逸らした。
「えっとあの、そんなつもりじゃ」
『彼女も大変喜んでおりました…次はクビにならないように頑張ってほしいものですね』
思わず吹き出した。まさか教師からもこの話が出てくるとは思わなかった。駄メイドも突然吹き出した俺を見てびっくりしているようだ。
『どうされました?』
おっと、いかんいかん。
「いっいえ、何でもありません!」
『そうでございますか。それでは、これから彼女に色々とこき使っ...手伝わせてあげて下さい。きっとお役に立てると思いますよ』
今こき使ってあげて下さいって言おうとしたよね。ていうかこの人さっきから俺の話聞いてくれないんだけど。
「いや、だからちょ」
『では、失礼いたします』
「えっ!ちょ待」
途端に雑音の後に、ツーッツーッという音だけが聞こえてきた。
「………………………」
あの教師、話聞かねえし勝手に電話切るし全然丁寧じゃないな。
何やら駄メイドがニヤニヤしている。何だよ気持ち悪いな。俺は素っ気なくスマホを返した。
この際どうでもいいや。もうどうせ取り返しのつかない事になってるだろうし。
しかし一つだけ問題がある。
「なぁ…俺メイド雇えるお金とか無いんだけど…」
まさか借金してでもとか言い出すんじゃなかろうな。もしそうならもう死にたいんですけど。
するとえっマジでとでも言いたげな顔をした瞬間、表情を変えた。
「あ、ああ、安心して!その心配なら必要ないわよ!給料は学校から私の通帳に支払われる事になってるから!そ、そういうシステムなのよ!」
そんなうまい話があるとは思えないが…つまり俺は何もしなくてもいいって事か?とっても不安なので一応確認してみる。
「それほんとなのか?」
「ほ、ほんとよ!だから安心して!」
自信満々に胸を張る駄メイド。返事だけはご立派ですね。
俺はズボンのポケットからスマホを取り出し時刻を確認すると、もう12時を過ぎていた。
「じゃあ私、この紙を学校に提出に行かなきゃいけないから、明日からよろしくね!ご主人様!」
そう言うと俺に向かってウィンクをしてきやがった。今ならそのウィンク見ただけで吐ける自信ありますよ。
ん?そう言えばこいつもう卒業したのに、何でまだ学校に行ってもいいんだ?しかも給料まで払ってくれるとかすごい。
「お前もう卒業したんだろ?何でまだ学校が色々とそんなにやってくれるんだ?」
「ああ、うちはそういう学校なのよ。とういうかむしろ、卒業生に対しての取り組みの方がしっかりしてる学校なのよね」
それほんとに卒業っていうのかよ。学校というよりは会社じゃん。まあ細かいことまで気にしてたらきりが無いしな。
世の中色んな形で回ってるもんだって認識しておこう。
「それじゃあ、明日の朝から本格的にお仕事開始って事で!」
踵を返して出て行こうとした瞬間に、何かを思い出したかの様にポンっとてを叩き、再び俺の方に振り返った。
「あっそうそう!一応これを渡しておくわね!」
そう言うと、またポケットから取り出した。今度はカードサイズの物を渡してきた。
「それ、私の学生証明書!もし何かあったら連絡して!あと…寂しくなったらその美しい顔写真を見て、私の事を思いだしてね?」
「誰が見るかよ!!!ふざけんなバーッカ!!!」
俺は怒り狂いながら学生証明書を投げ捨てた。シュレッダーがあったら今すぐかけてやりたい。
「あっははははは!!!じゃあねー!!!」
笑いながら出て行く駄メイドを俺はしばらく睨みつけてやった。
扉が完全に閉まると俺は深くため息をついた。
「ったく…マジで何なんだよあいつ…」
ふと床に視線をやると、さっき投げ捨てた学生証明書が裏向きになって落ちていた。
まあ一応見るだけ見ておくか…。
腰を低くしてそれを拾い上げると、まず顔写真に目がいってしまった。
「………………」
自分で自分をごまかすかの様に今度は名前の方に視線を変えた。
「そういえばあいつ、名前を一度も名乗らなかったな」
俺はある事に気が付いた。多分、初めて見る名前ではないという事だけは。
「水森…凪沙…?」