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鏡の国と夜の国  作者: トロ
2/6

0.序章

夜風が吹く。

夏の木々の、葉影が揺れる。ざわざわ、ざあ、とさんざめく。

蒼い黒い夜のとばり、白く褪せた月の下。

よどむ暑さの、夏至の日の夜。

影絵のような葉擦れのざわめきは、夜の湖をとりかこむ。


春祓は廃墟のはずれ、夜の湖の水際にいる。

春祓の容姿はおさない。十になるやならずの、子どものすがた。

かれは、水際に膝をついている。

砂利の敷きつめられた浅瀬。月光に蒼く透きとおった水が、むきだしの膝頭をさぷさぷと洗ってゆく。

春祓は腕のなかに、木偶人形を抱いている。

骨のように乾いた木と、砕かれた鉱石を複雑に組みあわせてできた木偶。

愛でる玩具、素直な意味での人形というよりも、退廃美を示す芸術作品のような人型。


(…夜を焼け)


澄んだ水が打ちよせる。

月光に落ちる影は蒼く、意外なほどにくっきりとして、透明な水をつきぬける。

湖底から敷きつめられた砂利は岸までつづき、小石どうしのかさなる影が、くっきりと水底に沈んでいる。

その蒼い影が、ゆらゆらと揺れた。


(夜どもを、)


春祓は木偶人形を、湖の浅瀬に横たえる。

凪いだ湖水に、しずかな波がたつ。

春祓は微笑う。

ひたひたと、うちよせる水にひたる木偶を、いつくしみをもって見下して、微笑う。

かれの容姿はおさない。

顔立ちも、すがたも声も、幼い。だがその目の伏せようには、幼さにみあわない、酷薄な表情が宿っている。


(夜どもを、灼け)


顔のあるべき部分に、ゴツゴツと無骨なままの鉱石結晶の原石を埋め込んだ木偶人形の、頬にあたるあたりを、春祓のかさついた、むきだしの指先が撫でる。

夜をうつす湖面にちらちらと、月の光がさざめいている。

春祓は普段、黒い手袋をしている。滅多に外さない。

いまは、外している。

春祓の手首から先、かれの身体のうちでそこだけ、急激に老いて深い皺をきざむ、かさついた両手が露わになっている。おさなく華奢な外観とかけはなれた、春祓が実際に生きてきた齢に実際にみあうのは、その手である。


老いさらばえた皺くちゃの指先が、空中に奇妙な図形を描くしぐさをする。

最後のラインをすべらせてそのまま、春祓はその手を木偶の胸にあてる。

ホワイトオパールの眼の、奥底のほうの気配が変わる。ざわりと、華奢な体中から異様な圧が噴き出してゆく。

ふわりと僅かに髪が浮き上がり、襟元にあしらった黒いスカーフリボンがゆらりと揺れる。

「……さあ」

幼いすがたのくちびるから、囁くようなかすかな声がこぼれる。

乳白色の宝石じみた瞳が、白霧のけぶるような睫毛にふちどられて細められる。


「起きろ」


ぶわあ、と杯から水があふれだすように、光があふれた。


春祓が両手をおいた木偶の胸から、光がこぼれだす。

まずは、白昼の雪原のように、まばゆくつめたい白光。

そこに、ちらちらちらっと疾るように、細かな硝子を砕いた夕陽色の煌めきが混ざりこみ、一気にぶわっと、炎のように燃える琥珀色にかわる。

燃えあがった光は木肌の表面を水滴のように滑ってゆく。はじけて、こまかく散って、霧のように微細な光輝になって、それからまた雪のようにほろほろと木偶人形にふりつもり、しみこんでゆく。

じわじわと、心臓部に。

それから、全身に。

ひとをかたどっただけのものの、そのかたちの表面全体が、ぼんやりとした光をおびる。

ざわざわと、ざわめきはじめる。

湖面に、ゆるやかなさざなみが揺れる。浅瀬に横たわる木偶を中心に、波紋がひろがってゆく。

ちらちら、ちらちら。

音はない。夜のなかに、水面を散らす光がただ、揺れる。

春祓は、木偶人形の胸を、押さえ込むように両手を押しつけている。その灰色の髪のひとすじひとすじまで、下からの燈に照らしあげられて、くっきりとした影が浮きあがる。

「さあ おれの、かわいい子よ」

春祓は重ねてささやく。いとおしく。

さあ、と風が吹く。ざざざざ、と水面に波がたつ。

ざざざ、ざ。




ざあ。






むすめは頭を垂れて、湖の浅瀬に座り込んでいた。


肩口でふわりとふくらむ黒い袖につつまれた、しなやかで細い腕を、身体の両脇にだらりとさげている。

月光に透き徹る水波に、指先まで布地に覆われた両手がひたっている。うつむいた顔に、蜜柑色のセミロングの髪がかかっていて。

漆黒のドレスをまとったむすめ。

「……」

黒い衣装のそこここに、光の残滓がまだ残っている。

ちいさな粒子がちらちらとちらついて、ちりり、と震えるように煌めいては消えてゆく。

むすめが、伏せていた顔をゆるやかに上げる。優しい顔だちの、うつくしい少女である。

血の通った、なまみの、やわらかく白い頬。

無垢であるのに蠱惑的な顔だち。長い睫毛。はしばみ色のひとみ。

ひらかれた娘の眼、その瞳を、霧にけぶる虹のようなきらめきの乱反射が覆っている。

きらきらと、湖面のように揺れている。


(…… ここは)


むすめは虹に覆われた瞳で、はじめて見る世界を見る。

ざあざあ、ざあと黒々と、湖をとりまく夏の夜の木々がざわめいている。

どこかで、夜の鳥がこころぼそく啼いている。

むすめは空を見上げる。

夜天を仰げば、とおくひどく高いところに、白く褪せた月が、こうこうと在った。

ああ、とむすめは思う。


(なんて うつくしいのかしら…)


夜の湖の、水際で。

むすめは、ぼんやりとした瞳をおろす。

目の前に少年がいる。むすめがすこし手をあげれば、たやすくかれの顔にふれることができる、それほどに近くに、白い瞳をもつ帽子の少年がいる。

冷静で、自信に満ちた、老いた手と幼い頬をもつ少年が、水辺に膝をついたまま、かのじょのことを見上げている。

目が合った。

虹の光輝に覆われたはしばみの瞳と、乳白色の宝石めいた眼とが、互いにまっすぐ、突きあたった。

かれのくちびるが、緩やかに動いた。むすめにむけて、ことばを紡ぐ。

「……よく生まれてきた。おれの、かわいい娘、」


おれの かわいい人形よ---。


人形のむすめは、そのとたんに知っていた。かれが、自分を生みだした人形師だと。

そうして、彼女は知っている。

なぜ自分がつくられたのか、も。


夏至の日の夜。

蒼い蒼い、しんしんと降る褪せた月光のなか。


(……ああ ここは なんてうつくしくて、)


「わたし は……」

うまれたての人形のむすめは、うちよせるしずかな波のなかに膝をついたまま、ふたたび夜天を仰ぐ。

紡がれたことばで動き出した時間をおそれて、ほんのひととき、目を瞑る。

ああ、ここはなんて うつくしくて。

……そして なんて、なんて こわいところだろう。


祈るように月を仰ぐむすめを見て、春祓は薄く笑う。



(---さあ夜を灼け、夜も夢もすべて)





コロナ。

太陽が月に喰われても、おとずれる夜をふせぐ最後のひかり。


陽光の最外層にある火の名前を冠したむすめの---

鏡の国最高峰の人形師・春祓の、近年至高の傑作となるべき人形『古炉那』の生まれた、夏至の日の夜のことである。







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