0.序章
夜風が吹く。
夏の木々の、葉影が揺れる。ざわざわ、ざあ、とさんざめく。
蒼い黒い夜のとばり、白く褪せた月の下。
よどむ暑さの、夏至の日の夜。
影絵のような葉擦れのざわめきは、夜の湖をとりかこむ。
春祓は廃墟のはずれ、夜の湖の水際にいる。
春祓の容姿はおさない。十になるやならずの、子どものすがた。
かれは、水際に膝をついている。
砂利の敷きつめられた浅瀬。月光に蒼く透きとおった水が、むきだしの膝頭をさぷさぷと洗ってゆく。
春祓は腕のなかに、木偶人形を抱いている。
骨のように乾いた木と、砕かれた鉱石を複雑に組みあわせてできた木偶。
愛でる玩具、素直な意味での人形というよりも、退廃美を示す芸術作品のような人型。
(…夜を焼け)
澄んだ水が打ちよせる。
月光に落ちる影は蒼く、意外なほどにくっきりとして、透明な水をつきぬける。
湖底から敷きつめられた砂利は岸までつづき、小石どうしのかさなる影が、くっきりと水底に沈んでいる。
その蒼い影が、ゆらゆらと揺れた。
(夜どもを、)
春祓は木偶人形を、湖の浅瀬に横たえる。
凪いだ湖水に、しずかな波がたつ。
春祓は微笑う。
ひたひたと、うちよせる水にひたる木偶を、いつくしみをもって見下して、微笑う。
かれの容姿はおさない。
顔立ちも、すがたも声も、幼い。だがその目の伏せようには、幼さにみあわない、酷薄な表情が宿っている。
(夜どもを、灼け)
顔のあるべき部分に、ゴツゴツと無骨なままの鉱石結晶の原石を埋め込んだ木偶人形の、頬にあたるあたりを、春祓のかさついた、むきだしの指先が撫でる。
夜をうつす湖面にちらちらと、月の光がさざめいている。
春祓は普段、黒い手袋をしている。滅多に外さない。
いまは、外している。
春祓の手首から先、かれの身体のうちでそこだけ、急激に老いて深い皺をきざむ、かさついた両手が露わになっている。おさなく華奢な外観とかけはなれた、春祓が実際に生きてきた齢に実際にみあうのは、その手である。
老いさらばえた皺くちゃの指先が、空中に奇妙な図形を描くしぐさをする。
最後のラインをすべらせてそのまま、春祓はその手を木偶の胸にあてる。
ホワイトオパールの眼の、奥底のほうの気配が変わる。ざわりと、華奢な体中から異様な圧が噴き出してゆく。
ふわりと僅かに髪が浮き上がり、襟元にあしらった黒いスカーフリボンがゆらりと揺れる。
「……さあ」
幼いすがたのくちびるから、囁くようなかすかな声がこぼれる。
乳白色の宝石じみた瞳が、白霧のけぶるような睫毛にふちどられて細められる。
「起きろ」
ぶわあ、と杯から水があふれだすように、光があふれた。
春祓が両手をおいた木偶の胸から、光がこぼれだす。
まずは、白昼の雪原のように、まばゆくつめたい白光。
そこに、ちらちらちらっと疾るように、細かな硝子を砕いた夕陽色の煌めきが混ざりこみ、一気にぶわっと、炎のように燃える琥珀色にかわる。
燃えあがった光は木肌の表面を水滴のように滑ってゆく。はじけて、こまかく散って、霧のように微細な光輝になって、それからまた雪のようにほろほろと木偶人形にふりつもり、しみこんでゆく。
じわじわと、心臓部に。
それから、全身に。
ひとをかたどっただけのものの、そのかたちの表面全体が、ぼんやりとした光をおびる。
ざわざわと、ざわめきはじめる。
湖面に、ゆるやかなさざなみが揺れる。浅瀬に横たわる木偶を中心に、波紋がひろがってゆく。
ちらちら、ちらちら。
音はない。夜のなかに、水面を散らす光がただ、揺れる。
春祓は、木偶人形の胸を、押さえ込むように両手を押しつけている。その灰色の髪のひとすじひとすじまで、下からの燈に照らしあげられて、くっきりとした影が浮きあがる。
「さあ おれの、かわいい子よ」
春祓は重ねてささやく。いとおしく。
さあ、と風が吹く。ざざざざ、と水面に波がたつ。
ざざざ、ざ。
ざあ。
むすめは頭を垂れて、湖の浅瀬に座り込んでいた。
肩口でふわりとふくらむ黒い袖につつまれた、しなやかで細い腕を、身体の両脇にだらりとさげている。
月光に透き徹る水波に、指先まで布地に覆われた両手がひたっている。うつむいた顔に、蜜柑色のセミロングの髪がかかっていて。
漆黒のドレスをまとったむすめ。
「……」
黒い衣装のそこここに、光の残滓がまだ残っている。
ちいさな粒子がちらちらとちらついて、ちりり、と震えるように煌めいては消えてゆく。
むすめが、伏せていた顔をゆるやかに上げる。優しい顔だちの、うつくしい少女である。
血の通った、なまみの、やわらかく白い頬。
無垢であるのに蠱惑的な顔だち。長い睫毛。はしばみ色のひとみ。
ひらかれた娘の眼、その瞳を、霧にけぶる虹のようなきらめきの乱反射が覆っている。
きらきらと、湖面のように揺れている。
(…… ここは)
むすめは虹に覆われた瞳で、はじめて見る世界を見る。
ざあざあ、ざあと黒々と、湖をとりまく夏の夜の木々がざわめいている。
どこかで、夜の鳥がこころぼそく啼いている。
むすめは空を見上げる。
夜天を仰げば、とおくひどく高いところに、白く褪せた月が、こうこうと在った。
ああ、とむすめは思う。
(なんて うつくしいのかしら…)
夜の湖の、水際で。
むすめは、ぼんやりとした瞳をおろす。
目の前に少年がいる。むすめがすこし手をあげれば、たやすくかれの顔にふれることができる、それほどに近くに、白い瞳をもつ帽子の少年がいる。
冷静で、自信に満ちた、老いた手と幼い頬をもつ少年が、水辺に膝をついたまま、かのじょのことを見上げている。
目が合った。
虹の光輝に覆われたはしばみの瞳と、乳白色の宝石めいた眼とが、互いにまっすぐ、突きあたった。
かれのくちびるが、緩やかに動いた。むすめにむけて、ことばを紡ぐ。
「……よく生まれてきた。おれの、かわいい娘、」
おれの かわいい人形よ---。
人形のむすめは、そのとたんに知っていた。かれが、自分を生みだした人形師だと。
そうして、彼女は知っている。
なぜ自分がつくられたのか、も。
夏至の日の夜。
蒼い蒼い、しんしんと降る褪せた月光のなか。
(……ああ ここは なんてうつくしくて、)
「わたし は……」
うまれたての人形のむすめは、うちよせるしずかな波のなかに膝をついたまま、ふたたび夜天を仰ぐ。
紡がれたことばで動き出した時間をおそれて、ほんのひととき、目を瞑る。
ああ、ここはなんて うつくしくて。
……そして なんて、なんて こわいところだろう。
祈るように月を仰ぐむすめを見て、春祓は薄く笑う。
(---さあ夜を灼け、夜も夢もすべて)
コロナ。
太陽が月に喰われても、おとずれる夜をふせぐ最後のひかり。
陽光の最外層にある火の名前を冠したむすめの---
鏡の国最高峰の人形師・春祓の、近年至高の傑作となるべき人形『古炉那』の生まれた、夏至の日の夜のことである。