アリス、4(気狂いお茶会)
辺りに薫るのはミルクの匂いです。
「…はっくしゅんっ」
ベスはびしょ濡れの体をぶるっと震わせました。泉のときのように水じゃないだけましかも、と思いましたけど、水色のエプロンドレスが濁った色になっているのと茶色と黒の縞縞になった靴下を見て、
「全くましじゃないわ!」
と悲鳴をあげました。ベスから滴るミルクティーがテーブルの白いクロスに染みていきます。回りにはティーカップとソーサー、ミルクポットやスプーンが散乱していました。
唯一無事なのは砂糖壷くらいかしら。
「ミルクティーのカップ中に落ちたのね。そしてミルクティーを飲んだら大きくなったんだわ!」
ベスはドレスの裾を絞りながらぐるりと見渡します。ベスが乗っているまあるいテーブルにはイスが六脚、でも誰も座ってません。
「…誰もいなかったのはラッキーと見るべきね」
こんな姿を六人もの前に曝したくはないわ、とベスは呟きます。ベスのドレスから絞られたミルクティーはカップにちょうど二杯分、ありました。
テーブルの周りは木、木、木…その合間に扉が三つ。
なにかしら?
「アリスでティーカップといったら決まってるわ。気狂いお茶会よ、mad tea party!ならあれは帽子屋ね!」
ベスはテーブルから飛び降りると扉に向かって駆け出しました。
扉にはシルクハットをかたどったノッカーが付いています。ベスはノッカーを力いっぱい(それはとても重かったんです!)叩きました。
「…なんだい騒々しい、」
「初めまして帽子屋さん!」
ベスはドレスの裾を摘んでお辞儀をしようとして裾から滴るミルクティーに気づき、慌てて絞りました。
「ミルクティーの滴るお客人、君はどなたかね。What your name?」
「My name is…」
そこでベスは思いました。小さなベスはこんなに大きくないし、ミルクティーが滴ってもいないわ。なら今のベスはベスじゃないんじゃないかしら?
「…Elsie、エルシーよ」
「初めましてエルシー、私は知っての通り帽子屋だ。初めてなのになぜ君が知っているのかは分からないがね。
エルシー、なぜそんなにミルクティーを滴らせているんだい?私の知る限りでは、ミルクティーの雨が降ったとは聞いていないなぁ」
エルシーはぐっと言葉に詰まりました。トカゲのくしゃみに吹き飛ばされた、なんて言いたくなかったのです。それに、トカゲに会うまでも何だかとても長くて。
「…どこから話せばいいのかが分からないわ。どこまで話せばいいのかも、」
「話しなど!」
帽子屋は両手を高く上げてエルシーを見ました。
「最初から始めて最後に来たら止めればいいのさ!」
「…そ、それはそうね」
エルシーはなるほどと頷きました。両手を上げた帽子屋は有無を言わさず、というか反論を許さないように大きく見えます。
何だか威嚇されているみたいだわ、とエルシーは思いましたが賢明なことに口には出さずにいました。
「ミルクティーに濡れているのはティーカップに落ちたからよ。ティーカップに落ちたのは、鳥の巣から飛び降りたからで、鳥の巣には風に飛ばされたの。
さなぎさんに教えられたきのこじゃ大きくなれなくて、逆に縮んでしまったから。
縮んだから扉を通れたんだけど、なかなか追いつけなくて、クッキーちゃんはおいしかったけど。
そうよ白ウサギを追いかけて井戸を落ちたのよ!」
そうよ、エルシー。白ウサギを追いかけなきゃ。
「ねえ帽子屋さん、白ウサギを知りません?チョッキを着て懐中時計を持っているの、」
「時計?時計だって!?時計のことならこの私に知らぬことはない。
なぜなら私は帽子屋だからな!」
「帽子屋だからですって?帽子屋がどうして時計に詳しいの?帽子のことならいざ知らず!」
「帽子屋だからに決まっているだろうが、エルシー!」
「エルシー、君、帽子屋に何が売っているとおもうのだね?」
「帽子に決まっているじゃない」
何て妙なことを訊くのかしら、とエルシーは思いました。けれど帽子屋は扉を開け放ち、部屋の中をエルシーに見るように促したんです。
「見たまえ、君、帽子屋は時計を売るものなのさ、エルシー!」
「まあっ」
エルシーは言葉を失いました。それも当然です。帽子屋の部屋の中を埋め尽くすのは壁掛け時計、置き時計、柱時計、腕時計、時計、時計、時計…それらがみんな時を刻んでいるのですから!
「まるで時計屋敷だわ、」
エルシーは驚いてぽつりと呟きました。時計屋敷なんて見たことがないけれど、あるとしたらきっとこんなだろうと思ったんです。けれど、
「時計屋敷だと!?君、それはどこにあるのだ。私が知らない時計はあるはずがない!」
エルシーの言葉に反応した帽子屋はエルシーの両肩に手を置き、揺さぶります。エルシーは脳みそが十分シェイクされてからようやく帽子屋を引き剥がしました。
「こ、こんなに揺さぶられた、たら、言えることも言えない、わ…っ」
エルシーはくらくらする頭を抑えながらしゃがみ込みました。あんまり揺さぶられたのでミルクティーに濡れた服も乾いたほどです。
(喜ばしいことだけど喜べないわ!)
エルシーは揺さぶられて、気持ちが悪くなりました。そのまま揺さぶられていたら、気を失っていたことでしょう。
エルシーが意識を手放しかけたとき、帽子屋の時計という時計が一斉に鳴り出さなかったら!
〈ジリリリリリリ〉
〈ピピピピピピピ〉
〈ゴーンゴーン〉
〈パッポーパッポー〉
何ていう音量!時計それぞれが割れんばかりで時刻を告げているんです。
「………!」
帽子屋が何かを言ってエルシーを離しましたが、エルシーには聞こえてないみたい。当然ね!
ああ、それにしてもうるさいわ!
帽子屋、早くその音を停めて頂戴!
帽子屋は懐から懐中時計を出し、時刻を確認しています。どうしてわざわざ懐中時計を見るかですって?
それは時計たちがそれぞれ異なる時刻を指しているからです。どれが本当なのかわかりゃしないわ。
と、音がぴたっとやみました。
エルシー、大丈夫?
(ま、まだ耳の中で鳴ってる感じ)
へたり込んだエルシーに、帽子屋が言います。
「何をしているんだ、お茶の時間じゃないか!」
帽子屋はエルシーを引っ張り立たせると、強い力で店の外に連れ出しました。
エルシーが歩かなくてもいいくらい、すごい力です。
「う、腕がもげちゃうわっ」
(それにお茶なんて!ミルクティーに落ちたばかりだから充分っ。)
「なんてことだ!ティーテーブルがぐちゃぐちゃだ!」
突然帽子屋は止まったものですから、エルシーはポイッと投げ出されちゃいました。まあ、丁度椅子の上だったからいいわね。
「支度をし直さねばならないではないか。エルシー、君、ヤマネの店に行って来てくれ!」
帽子屋はそう言ってエルシーに唯一無事だった砂糖壷を渡しました。残った食器はテーブルクロスでくるんで、投げました。いくつか悲惨な音がしたけど、聞かなかったことにしましょうか。
「ヤマネ?ヤマネの店で何をするの?」
「エルシー、君は何も知らないな!ヤマネの店はティーカップ専門店だ。いれたての紅茶を六揃い、くれぐれも砂糖壷を忘れるな!」帽子屋はエルシーに3つの扉のうちの1つを指差しました。
「急いでくれ、お茶の時間はもう過ぎているんだ!」
エルシーは砂糖壷を抱えて走りました。ティーテーブルをぐちゃぐちゃにしたのは自分だから少しはお手伝いしなくちゃ、と思ったんです。帽子屋が怖かったっていうのもありましたけど。
扉にはティーカップをかたどったノッカーが付いていました。エルシーはノックをしようとしましたが、あら、取っ手がないわ。
「カップの口がくり貫かれてる…もしかして、」
と、エルシーは砂糖壷から角砂糖をひとつ、ティーカップにほおりこみました。ちりんちりん。
小さい鈴が鳴って、扉が薄く開きました。
「誰だい?」
「ヤマネさん、いれたての紅茶を六揃い、くださいな。帽子屋さんの言付けなの」
姿を見せたのはネズミのような、そんな感じです。
「砂糖壷をお出し」ヤマネはエルシーから砂糖壷を受け取ると、中をすっかり食べてしまいました。角砂糖をそんなに食べて、気持ち悪くないのかしら?
「お茶は間違いなく持っていくよ。あたしもお茶会に呼ばれているからね。帽子屋に今日は公爵夫妻がおいでになるから、ジャムの用意は出来ているか、確かめといておくれ」
「ええ、でもヤマネさん、お茶会はもう始まっている時間だって帽子屋さんが言っていたのよ。急いで持っていかなきゃ!」
「あやつが時間を間違えるのはいつものことさ。たくさんの時計のうちひとっつも正しいのはありゃしない、」
ああ、お茶をいれなきゃね、とヤマネは顔を引っ込めました。
エルシーは帽子屋の元へ戻ります。
「帽子屋さん、公爵夫妻がいらっしゃるのよ。 って、まあ!」
エルシーはテーブルに戻ってびっくり。テーブルに真っ白なシーツがかかっているのはいいとして、並んでいるのは時計、時計、時計…椅子にも近くの木々にも時計がかかっているのです!
「帽子屋さん、お茶会のはずでしょう? これでは時計の会だわ」
「そう、公爵夫妻が来るのだったな。エルシー、君、急いで時計屋に行ってきてくれ」
「時計屋ですって? これ以上の時計はいらないわ、」
エルシーは眉をしかめました。
「君、エルシー、何を言っているのだ。時計屋に時計があるわけがなかろう。時計は帽子屋が売るものだ」
「じゃあ何があるっていうの?」
「ジャムを売るのさ!」
当然のように言い切られ、エルシーは思いました。
(…帽子屋が時計を売り、時計屋がジャムを売る、有り得ないことじゃないわね。いいえ、現に有り得ているんだから!)
エルシーは帽子屋の機嫌を損ねないよう、時計屋の元へ走りました。
(でも、大好きな帽子屋が嫌いになりそうだわ)
時計屋は3つの扉の1つ、店主は三月ウサギです。
「三月ウサギさん、ジャムをくださいな!」
エルシーは扉を叩いて(だってドアノッカーがついていなかったんです)大声で呼びました。
けれども返事はありません。
「三月ウサギさん、時計屋さん!いるのかいないのか返事をしてください!」
エルシーは本当に何度も叫びましたけど、返事はありません。
留守みたいよ?
「そうね、」
エルシーは三月ウサギに会えなかったことをちょっぴり残念に思いながら、帽子屋のところへ戻りました。
けどね。
「いるならいると言って頂戴!」
帽子屋のティーテーブルには既に五人、座っていたんです。嬉しそうに時計をカップに浮かべている帽子屋、溢れんばかりの砂糖を入れ続けるヤマネ、それに沢山のジャムの瓶をポケットに入れているのが三月ウサギでしょう。