ヘルゼンとグレェテルン
「ヘンゼルとグレーテル」より
ヘルゼンとグレェテルンは月明りを頼りに宵闇を彷徨っていた。
ヘルゼンの落とした砂金粒は波にさらわれ見つかるわけもなく、長く入組んだ海岸線をどこへ行けばいいのか見当も付かない。
その上グレェテルンが泣き続ける為にヘルゼンの苛立ちを一層助長し、方向感覚を鈍らせるのである。
果たして家に帰れるのだろうかとヘルゼンは不安になる。一度は帰り着いた家路だが、今はただ目印を失い彷徨うばかりである。
それもこれも、グレェテルンが悪いのだ。
ヘルゼンはそう思ったが口には出さない。
この状況では一人より二人のほうが得策である。
利用出来るものは利用するだけしてから削除すればいい。ヘルゼンは口には出さない。
ヘルゼンはなんとか前回辿った道を探し当てようとしていた。そこにはまだ貝殻の目印が残っているはずである。
あの母王が回収していなければの話だが。
ヘルゼンは嫌な考えに首を振る。ヘルゼンは聡い少年だったのでありとあらゆる可能性を思い浮かべることが出来た。
いや、母王はそこまで頭が回るまい。母王は自分の命だけが惜しいのだ。
己の考えを打ち消しヘルゼンは泣き続けるグレェテルンを背に歩き続ける。
ヘルゼンとグレェテルンは父王と母王の間に産まれた兄と妹だった。
もしかすると姉と弟かもしれない。自分の出自の順についてヘルゼンは尋ねたことはない。グレェテルンは疑問にすら思わない。精神的成長を鑑みればヘルゼンは兄でグレェテルンは妹だった。
父王と母王はそれぞれがそれぞれの国を持つ王族である。父王の伴侶である妃には父王の後継である男子が居、母王は伴侶である国主との間に後継として男子を産んでいた。父王と母王は互いに敵対する国でありながら密通し、ヘルゼンとグレェテルンを産んだのである。
どちらの国にも居場所が無いヘルゼンとグレェテルンは、国都から遠い岬にある王族の別荘に何人かの奉公人と父王と母王からの心ばかりの金で住んでいた。
あるとき母王は二人が住む別荘に住みたくなり、ヘルゼンとグレェテルンを追い出すことにする。父王は反対したが、母王は二人にそれ相応の金子を持たせれば良いだろうと押し切った。二人を慮った父王は何でも二人の欲しいものを与えると言ったがヘルゼンとグレェテルンは今まで通りの暮らしをと望みいやそれ以外のものならばと父王が言いならば、とヘルゼンがとても無茶な望みを言った。
それを聞いた母王は青褪め、ヘルゼンを珍しいものを見せてやると連れ出し見知らぬ場所に置き去りにした。
こんなこともあろうかと月明りを反射する貝を拾い集めていたヘルゼンは道すがらその貝殻を落とし、母王に置き去りにされてから夜を待ち月明かりを利用し貝殻を目印に家に帰って来た。
驚いた母王は再び甘言で持ってヘルゼンを連れ出そうとしたが上手くいかず、ならばとグレェテルンを使ってヘルゼンとともに連れ出し見知らぬ場所に置き去りにした。
ヘルゼンは前に連れ出され貝殻を目印に帰り着いたとき、グレェテルンにこういうことがあるだろうから目印になるものを集め身に着けておくように、と説いていた。しかしグレェテルンの用意したものは小瓶いっぱいの砂金粒だったのである。
ヘルゼンは道すがら砂金粒を落としたが夜が暮れて月が出ても目印になることはなかった。
それでもヘルゼンは少しでも手掛かりを見つけようと、いつしか海の中に踏み入るまで探し続けているヘルゼンは膝辺りまで海に浸かり目印となる砂金粒を探し、グレェテルンは泣きながらヘルゼンの後を付いて回った。
ヘルゼンは聡い少年だったが、グレェテルンは美しい少女だった。ヘルゼンは自分の聡さを知っているが故に一つの考えに没頭する節があり、グレェテルンは自分の美貌を知っているが故に何も出来ない少女だった。
ヘルゼンが夢中になって海を掻き回しているうちに高波が起こり、あ、と言う間もなく二人は波に呑まれ海へと引きずり込まれた。
次に二人が目覚めたとき、目の前には一軒のみすぼらしい小屋がある。ヘルゼンとグレェテルンはふらふらと小屋に入って行く。
ヘルゼンとグレェテルンの前には豪華な食事の用意があった。
みすぼらしい小屋は炊事場と洗濯場と掃除場と裁縫場だった。空腹だったヘルゼンとグレェテルンはそれぞれ無言で食物を口に運ぶ。
そのとき小屋の窓から女が飛び込んで来た。
お前たちは誰だ何をしているのかどうしてここにいるのか何を食べているのだ。
と問いと怒りを同時に話した。
あなたこそ誰なの、とグレェテルンは問い返したところ、
自分の名も名乗らずわたしの名を訊くのか断りも無く人の家に侵入し勝手に食事を摂りそれを謝罪する事なくわたしの名を訊くのか。
と女は怒りに言葉を紡ぐ。
黙り込んだグレェテルンに代わり口を開いたのはヘルゼンである。
本当に申し訳ない、僕はヘルゼンでこちらはグレェテルン、こういう事情で波に呑まれ気がついたらここに居た、あまりにも空腹だったので料理を食べてしまった、謝ってすむ話ではないが食べてしまった分は労働でも何でも償いをする。
とヘルゼンは丁寧に謝罪した。
誠意を尽くしたヘルゼンの言葉に怒りを露にしていた女も落ち着きを取り戻し、それは気の毒なことですここに辿り着いたのは幸運でした、と穏やかに言った。
女の変り様にグレェテルンは機嫌を損ね、ヘルゼンはこの場を繕う最善の方法について考え、ヘルゼンはグレェテルンに女に謝り損害を償うことを申し出る様説いた。
しかしグレェテルンはこんな身分の分からない女に頭を下げたくはない。自分は二つの王族の血をひく娘なのだ。グレェテルンには高慢な自尊心があった。
女は二人の様子を見、溜息を付いた。
美しい子グレェテルンあなたには何を言っても無駄な様ですね、聡い子ヘルゼンあなたに償いの為に旦那様の元で働いて貰いましょう。
と女は言う。
わたしは旦那様に仕える者です、あなたがたが食べた食事は旦那様のもの、夕餉を運ぶ際にあなたを旦那様のところへ連れて行きましょう、旦那様の元で償いをなさい。
と女は提案する。
ヘルゼンはそれで解決するならばと承諾し、グレェテルンはヘルゼンと離れることだけを不安に思っていた。
その夜グレェテルンは一人みすぼらしい小屋に残された。ヘルゼンは女と出て行ったまま帰って来なかった。
グレェテルンは小屋を回り炊事場に残された料理をしぶしぶ口に運ぶ。裁縫場と洗濯場から柔らかく綺麗な布を集めると小屋の中央に敷き詰め寝台にした。一糸纏わぬ姿になるとグレェテルンは眠りにつく。
グレェテルンが目覚めたのは夜も白む頃、女の怒声でであった。
女はグレェテルンに何をしているのだと叫んだ。
それは旦那様の衣服に寝具の布であるお前の寝具ではない。
グレェテルンはわたしの寝具が無かったのだもの、仕方なく借りたのよ、それともわたしに床で寝ろと言うの、と苛立った。
美しい子愚かな子グレェテルン、この家物はお前のものではなく旦那様のもの、お前は物を使うどころかこの家に入ることも許されていない、自分のしたことの代償を払う気も無い愚かな子よここから立ち去れ。
と女に言われたグレェテルンはわたしは二つの王族の娘、国にあるものは王族のものだわ、と言い返した。
女は荒立てた気性が落ち着くようにふぅ、と息を吐く。
美しいけれど愚かな子あなたは何も知らないのか知ろうとしないのか。
わたしはあなたがたについて少し聞いたことがある、と静かに語り始める女の話を未だ苛立ちを納められぬままグレェテルンは黙っている。
岬の屋敷に住む少年と少女の話、人々と接点を持たない何人かの奉公人がおり、極たまに貴族らしき人が訪ねて来る屋敷、それがあなたがたのことでしょう。
と女はグレェテルンに言った。そうよ、わたしは王族の娘だわ、と言うグレェテルンに、
美しいけれど愚かな子あなたは何も知らない知ろうともしないのですか、知るべきことすらもならばあなたには旦那様の元にいる資格がない早々に立ち去りなさいさあ早く。
と女は続けた。
何を知らないというのです、とグレェテルンは訊いたが、美しいけれど愚かな子知るべきことすら分からないのですね、と女の力は強くグレェテルンは小屋から出されてしまう。グレェテルンは小屋の扉を叩いたが開く気配はない。仕方なくグレェテルンはヘルゼンの名を呼びながら辺りを歩き始めた。
しかしヘルゼンは現れるはずもなく、力のないグレェテルンは砂浜に疲れて座り込む。グレェテルンは気力を無くし飲まず食わず眠らず何もせず座り込んでいた。
どれほど座り込んでいただろうか、グレェテルンは笑い声を聞いた。声はヘルゼンのものである。
グレェテルンはふらふらとヘルゼンの声へ歩く。途中足をとられ転び砂だらけになりながらグレェテルン行く。
笑い声はヘルゼンのものだけでなく複数あった。たくさんの少年と少女の声が遠く遠く聞えて来る。
ああ、ヘルゼン、待って。グレェテルンはそう言ったはずだが出た声は嗄れた掠れ声だった。ヘルゼンの若く嬉しげな声とは全く違う、そのことに気付き愕然となる。
グレェテルンが自分の両の手を見ると傷一つない白魚の様であった手がぼろぼろと流木のように皺枯れている。どうして、とグレェテルンが呟いたとき目の前に屋敷が現れた。
グレェテルンは半ば這う様に屋敷に辿り着き、扉を叩く。応答し扉を開けたのはあの小屋の女だった。
女はグレェテルンを一瞥し、どうぞお引取りを、とだけ言い扉を閉めようとする。なんとかグレェテルンは扉に体を割り込ませ旦那様とやらに会わせなさい、と言った。
あなたには旦那様に会う資格はない旦那様に会えるのは秀でたものだけですと女は冷たく言い放った。
ヘルゼンは聡さに秀でていますがあなたは何にも秀でていない帰りなさいと女に言われ、ヘルゼンが聡いならばわたしは美しいわ、あなたも美しい子と呼ぶ様に、旦那様も美しさを気に入るわ、と言ったグレェテルンの言葉に女は美しさが一体旦那様の何の役に立つと言うのです、と嘲笑った。足の速きものは競わせればより速くなり旦那様の足となり働くだろう、料理の出来るものは日々旦那様の為に食事を作るだろう、賢き聡いものは競い学び合い旦那様の知恵となるだろう、しかし美しいものは旦那様の為に何か出来るだろうかいや出来はしないでしょう。
と言う女にグレェテルンはわたしは旦那様の為に子を授かることが出来るわ、と言い返した。
女はますます高く笑い、旦那様は子を為す要はない旦那様は唯一無二の永遠な方、と言った。
旦那様は性など持たず子孫など作らぬさあ立ち去れ愚かな子よそれとも自らが未だ美しいかこの鏡で見てみるか。
と言われグレェテルンは示された方向の鏡を見た。
風の音ともしれない悲鳴がグレェテルンの喉を付く。鏡に映るのは枯れ枝のような裸体をした傷だらけで目の落ち窪むの女である。グレェテルンは長く尾を引く叫びをあげながらも鏡から目を離せず、傍らで女が嘲りの笑い声を上げている女は言う。
美しかった子グレェテルンお前の場所はここにない立ち去れ。
しかしグレェテルンは鏡から目を逸らせない。鏡の自分を触りわたしが、わたしがと呟き続けていた。
グレェテルンの傍らの女は愚かしい子、と呼び掛けるとグレェテルンは咆哮を上げながら女に飛び掛かった。気狂いしたグレェテルンは赤々と燃える暖炉に女と共に飛び込む。声が上がるがすぐに静かになった。
屋敷で書物を読んでいたヘルゼンは声を不審に思い部屋を出、声がしたと思われるところへ向かうが誰の姿も無く暖炉だけが静かに燃えていた。不思議に思ったがこの屋敷の主人に呼ばれ部屋に戻ろうとする。
しかしヘルゼンは呼び声に再び足をとめた。途端に暖炉が弾け気のせいだと思い直す。背を向け一歩踏み出した途端、暖炉から伸びた手がヘルゼンを掴み引きずり込んだ。
ヘルゼンの姿は炎に消え、屋敷の主人は新しい飯炊き女が一人要るようだ、と呟いた。
二つの敵対する王族の中に密通し不義の子をもうけた者たちがいた。不義の親たちは政争によって殺され、二人の子はいずこにいるか行方を知る者はいない。
波打ち際で砂金粒を拾い集める少年の姿を見たというものがいるがそれも定かではなかった。
HP掲載、加筆修正。