リンダの憂鬱 -2-
次の日の仕事から、いつもと変わり無くキビキビと動き、手際の悪いスティーブを怒鳴り散らし、いつもの『おこりんぼ』のリンダが戻ってきていた。時折スティーブは何か言いたそうにリンダを見つめていたが、敢えて無視してリンダは仕事に没頭した。
ニナが眠っている間、全ての舞台が停滞していたが、ニナの目覚めの吉報を受けミュージカル界は盛り上がりを見せて、仕事も多忙になった事はリンダにとっても吉報だった。過ちは忘れたいというように、リンダは仕事にだけ集中していた筈であった。
ところが、その頃小道具係に新しく入った若い女の子が、スティーブと楽しそうに話しているのを見掛ける度、あの胸の痛みが再びリンダを襲うようになっていた。
綺麗な金髪で、柔らかいブルーの瞳は少し目尻が垂れて、仔犬のような顔立ちのスティーブはいつも誰にでも優しく、恥ずかしそうに頬を染めてスティーブを見上げているその子にも、同じ様に優しく話し掛けていた。
仕事は半人前のくせにと、内心で悪態をついてみても、リンダの胸の痛みは消えてくれない。益々苛立ちを募らせて当たりまくるリンダに、周りのスタッフもキャストも戦々恐々としてリンダを遠巻きにしていた。
その日、小道具部屋に衣装に合わせる小物を取りに行かせたスティーブがいつまでも戻って来ないのに業を煮やして、怒鳴りつけようと小道具部屋のドアを開けたリンダの耳に、囁くような女の子の声が入ってきて、小道具部屋の棚の影で、スティーブとあの子が佇んでいるのが見えた。
「スティーブ、だっていつも衣装は大変そうじゃない。リンダに怒鳴られてばかりで……」
「うん。でも僕、衣装が好きなんだ」
怒りで頭に血が上ったリンダは、怒鳴ろうと口を開き掛けたが、
「私、貴方の事が心配なのよ。スティーブ、貴方が好きなの」
と、うっとりと囁くような女の子の可愛らしい声に、リンダは凍りついた。
「私と付き合ってくれないかな?」
恥ずかしそうに頬を染めた女の子から目を逸らして、リンダは音を立てないようにドアをそっと閉めた。
顔を強張らせて衣装室へ戻ったリンダは、手近の椅子に力なく座り込んだ。
――あんな半人前同士、お似合いじゃないの。子供のままごとカップルみたいで。
必死に悪態をついても、今迄感じた中で最大の胸の痛みは消え去ってくれなかった。こみ上げそうになる涙を必死で堪えて、張り裂けそうな胸の痛みなんて気のせいだ、と何度も自分に言い聞かせた。今迄そうしてきた、それで立ち上がってきたじゃないか、と唇を噛んで必死に自分に言い聞かせていたリンダだったが、自分が泣いている事には気づかなかった。
その後、衣装室に戻ってきてビクビクとした顔で「遅くなってゴメン」とこちらを窺っているスティーブの顔を見ようともせず、リンダは背を向けたまま立ち上がると、「生地屋に行って色見本を取ってくるわ。時間になったらさっさと帰りなさい」と言い残して、いつもならスティーブに言いつける雑用を理由してそのまま振り返ることも無く部屋を出て行った。
困惑した顔で立ち尽くしていたスティーブであったが、バツが悪そうにポリポリと頭を掻いてフゥとため息をついた。
次の日、リンダはやはり不機嫌そうであった。次の公演に向けて衣装室で在庫チェックをしていたが、一緒に仕事をしながらその様子に戸惑っていたスティーブは、やがて決心したように小さく咳払いをしてからリンダに話し掛けた。
「リンダ」
「何よ!」
振り返って眉を寄せて怒鳴るリンダに、スティーブは悲しそうな目をした。
「何でそんなに怒ってるんだい? この間の事なら……申し訳なかった。君の気持ちも考えずに……」
スティーブはいつだって優しい。優しいからこそ、傍若無人な真似はせず、誠意から謝っているんだと分かっていたリンダだったが、謝って欲しくはなかった。ひと時の気の迷いだと、自分に言い聞かせていながらも、それを認めたくない自分が居ることにも気付かず、一気に感情が爆発したリンダは、持っていたリストを乱暴に床に投げつけて怒鳴り散らした。
「何よ! 謝るぐらいなら最初から何もしなければよかったのよ!」
「そうだけど……リンダ……終わった事を無かった事には出来ないよ……」
「そうね! もう終わった事なのよ! 貴方はそれでいいんでしょうけど! お優しい貴方は可哀相な私を慰めただけだったって事よね! だから簡単に終わった事だって言えるのよ!」
もう自分が何を言っているのか、リンダには分からなかった。ただ胸の中に悲しみが溢れて、堪えきれずに涙が零れ出した。
「リンダ……」
スティーブは口を押えて嗚咽を堪えて涙を溢しているリンダを悲しそうにじっと見ていたが、やがてギュッと口を結んだ。決意を秘めた瞳には静かな光が宿っていた。スティーブはゆっくりとリンダの元に歩み寄ると、泣いているリンダの肩を抱き寄せて、戸惑っているリンダをそのまま抱き竦めた。
「な……離して!」
「嫌だ。リンダが泣いてるのに離す事なんか出来ない」
小さく抗ったリンダだったが、頼りないと思っていたスティーブの力は意外に強くて振り解けなかった。そして、暖かい胸に抱き締められるとそれ以上抗う事が出来ず、リンダは観念したのか瞳を閉じて、そのままスティーブの胸に顔を埋めて泣き続けた。
暫く泣き続けていたリンダだったが、やがてキッと顔を上げると何時ものようにスティーブを睨んだ。
「分かったわ。認めるわ」
「何を?」
戸惑っているスティーブの瞳から目を逸らし、眉を寄せたまま頬を染めて、リンダは悔しそうに言葉を吐き出した。
「私は貴方が好きなのよ、悔しいけど。だから他の子に優しくして欲しくないの。でも、あの子を選ぶなら、あの子を選んだんなら、このまま黙って出て行って。私を一人にして。私なら大丈夫よ」
その言葉をリンダは自分自身に対して何度も何度も心の中で呟いた。大丈夫、大丈夫だ、自分はいつもこうやって独りで立ち上がって生きてきた筈だと、零れ出す想いは溢れ返ってもう元には戻せないことも分かっていたが、きっと時間が経てば忘れられる筈だと、そう思いながら唇を噛み締めたままのリンダは目を逸らしたが、スティーブはキョトンとした顔で暫く考え込んでいて、やがて思い付いたのか笑顔になった。
「ああ。もしかして昨日の小道具の子かな? あの子なら断ったよ」
「え?」
「僕には好きな人が居るからって。リンダに見られてたんだね。でも、最後まで見てなかった?」
思い掛けない言葉に狼狽したリンダは、視線を泳がせながらまだ自分を抱き締めているスティーブから離れようともがいたが、一層ギュッと抱き締められて小さく顔を振り続けていた。
「……リンダ、僕を見て」
微笑むスティーブに顔を向けられず、震えるように目を逸らし続けるリンダの頬にスティーブはそっと手を寄せると、リンダを振り向かせた。
「ほら、僕はリンダしか見ていない。ずっとだよ。君だけを見ていた。愛してるんだ、リンダ」
スティーブの深い蒼の瞳に魅入られたが、リンダは泣きそうな顔で小さく首振った。そんなリンダにスティーブは微笑むと、静かに顔を寄せてリンダの唇を塞いだ。困惑して眉を寄せていたリンダだったが、やがてスティーブの背に手を回して瞳を閉じ、二人静かにずっと抱き合っていた。