マルガリータの憂鬱
本編第一章『残酷な過去』の頃で、多重人格症のナンシーが持つ人格『マルガリータ』が主人公のお話です。
『マルガリータ』はソファに深く腰掛け、足を組んで自分の手を翳しながらじっと見ていた。手あれが酷く爪の短い自分の手を眉を寄せて見ながら、マニキュアがしたいのにと、ぼんやりと考えていた。
――あーあ。退屈。
目の前に二人の男が座っていて、一人は眉を寄せて自分を睨んでいるし、もう一人は眼鏡の奥からニコニコと微笑んでいるが、こいつは油断がならない相手だと『マルガリータ』は本能的に悟っていた。さっき誘いを掛けてみたら怒られたので、余計に『マルガリータ』は退屈だった。
「で、ナンシー、君はどれぐらいの頻度でハンセンに呼ばれていたんだ?」
睨んでいた男、刑事のチャーリーが『マルガリータ』に話し掛けてきた。
「アタシは『マルガリータ』よ。そうね、二日に一回ぐらいだったかしら」
『マルガリータ』はちょっと眉を寄せてめんどくさそうに返事をした。さっきからこっちの男は自分を『ナンシー』と勘違いしてるし、告発なんてヤメときゃよかったかしら、と『マルガリータ』は小さくため息をついた。
チャーリーも目の前の物憂げな少女を見ながらため息をついた。多重人格症ということでアンダーソン医師に同席してもらったが、こういった症例を初めて見てどう接していいのか分からなかった。そして、目の前の少女が『ナンシー』なのか『マルガリータ』なのか、どう判別したらいいのか戸惑っていた。その戸惑った目をアンダーソン医師に向けると、医師は静かに頷いて『マルガリータ』に話し掛けた。
「『マルガリータ』。君は何時頃から『ナンシー』と一緒なんだい?」
「……そうね、最初に気づいたのは六年前ぐらいかしら。目覚めた時、ハンセンにヤられてる最中だったのよ。驚いたわよ。目の前の男はブサイクだし、ヘタクソだし。あんまり痛かったから、『もっと優しく感じさせて』って文句を言ったのよ」
『マルガリータ』は楽しそうに笑った。
「それから『ナンシー』がアイツに呼ばれる度にアタシが代わってやったのよ。まぁ、ブサイクでも男は男だしね。たっぷり楽しんでやったわ」
あっけらかんとした『マルガリータ』にチャーリーはポカンと口を開けていたが、やがて眉を寄せると、
「それじゃあ、君はハンセンとは同意の上でSEXしてたって事なんだね?」
と、怪訝そうに訊ねてきた。
「そうね、アタシはね。でも『ナンシー』は同意してなかったわ」
まためんどくさそうに『マルガリータ』が呟くと、
「同意の上での性交なら、罪には問えないんだよ」
「だから『ナンシー』は同意して無かったって言ってるじゃない」
「君が『ナンシー』なのか『マルガリータ』なのか、残念だが判別できないんだよ」
アンダーソン医師が眉を寄せて『マルガリータ』を見た。
「今『ナンシー』は眠っている、そう言ったね? その『ナンシー』を見せてもらわないと、君が『マルガリータ』だって判断がつかないんだ」
「無理ね。『ナンシー』は目覚めないわ。今起こしたら、施設に残してきた妹の事で、きっと錯乱しちゃうんじゃないかしら」
こちらも眉を寄せてアンダーソン医師を睨んだ『マルガリータ』に、チャーリーがため息をついた。
「それじゃあ難しいな。このままでは、ただ単に君が、その……男好きなだけにしか見えないんだ。それが『ナンシー』なんだって言われると否定できない」
そのチャーリーの言葉に『マルガリータ』は体を起こすと、正面から向き合った。それまでの物憂げそうな瞳が妖しく光っていた。
「施設ではね。女の子はみんな嬲り者にされてたのよ。例外無くね。逃げられる娘は皆逃げたわ。でも、施設に妹や弟が一緒に居る娘は逃げられなかったのよ。逃げたらそりゃあ酷い虐待をされるからよ」
そこで言葉を切った『マルガリータ』は遠い目をした。
「十四歳の姉と、十歳の妹と、二歳の妹の三姉妹が居て、姉は妹達を連れて逃げ出したけど、そんな子供だけの三人組なんて、何処でも生きていける筈無かったわ。直ぐに見付かって施設に戻されたわ」
「教会とか頼る場所があったろうに」
チャーリーが口を挟むと、『マルガリータ』は可笑しそうに笑った。
「教会? 笑っちゃうわ。同じように小さな弟を連れて教会に逃げた娘が居たけど、どうなったと思う? 神父に散々弄ばれた挙句に施設に送り返されたのよ」
そしてチャーリーを睨み返すと、
「その後、その娘は、施設の職員トイレに一日中弟と立たされるのが仕事になったわ。そこで何をされてたのか、分かるでしょ? 職員達の『便所』にさせられてたのよ。来る男を拒む事も許されず、小さな弟が嬲られているのを抗議も出来ず、その娘は逃げ出して一ヶ月後に弟と自殺したわ」
その言葉に目の前の二人の男が絶句すると、
「三姉妹も戻された時に、酷い虐待を受けたの」
『マルガリータ』は静かに立ち上がった。
「十四歳の姉はハンセンにヤられながら、目の前で十歳の妹が職員達に輪姦されるのを見て、その場で舌を噛み切って死んだわ」
『マルガリータ』の瞳には暗い灯が妖しく揺れていた。
「十歳の妹は、その姉を目の前で見て、覚悟を決めたの。此処で自分が盾になって下の妹を守っていくしかないって。今度逃げ出したら、下の妹が自分と同じ目に合う、だから此処で守っていくしかないんだって、そう決めたのよ。その十歳の妹が……『ナンシー』よ」
壮絶な話にチャーリーもアンダーソンも言葉が出せずに呆然としていると、『マルガリータ』はまた物憂げそうにソファに腰掛けた。
「でも、『ナンシー』には耐えられなかったのよ。ハンセンに嬲られる自分が。逃げられない、受け入れるしかないと分かっていても、その屈辱に、いつかは自分も舌を噛み切って死ぬかもしれないと、それを恐れていたのよ。だから『ナンシー』にはアタシが必要だったの。アタシが、必要だったのよ」
呆然としていた二人だったが、やがてアンダーソン医師が悲しそうに口を開いた。
「それなのに、妹を残して君は施設を出て来たんだね」
「そうよ。そうしないと終わりに出来ないからよ。妹は十二歳になったわ。後四年経てば、妹もアイツの食い物にされる。その前にうまく逃げ出せるか『ナンシー』には自信が無かったの。今なら、今ならアイツを告発して、この地獄を終わらせる事が出来るのよ。だからアタシが『ナンシー』を説得して、こうやって出てきたのよ」
アンダーソン医師は静かな瞳で、『マルガリータ』に向き合った。
「『マルガリータ』、僕達は君の願いをきっと叶えてみせる。君も、『ナンシー』も、『ナンシー』の妹も、そしてニナも救ってみせる。僕達を信じてくれないか?」
その医師の瞳をじっと見つめていた『マルガリータ』は、
「そうね、きっとそれでアタシは貴方に消される事になるんでしょうけど、構わないわ」
と、医師を静かに見返した後、妖艶に微笑んだ。
「でも……その前に、一度貴方と寝させてくれないかしら?」
慌てたアンダーソン医師は首を振って、
「それはダメだ、『マルガリータ』。医師は患者と寝ちゃダメなんだよ」
と苦笑した。詰まらなそうにチェッと口を鳴らした『マルガリータ』は、
「ふん。残念ね。まぁ仕方ないわ、そっちの男で我慢しておくわ」
と、刑事を流し目でチラリと見ると、チャーリーも慌てて立ち上がって首を振って、
「いやいや! 俺達も関係者と寝たりしたらクビが飛ぶから、勘弁してくれ!」
と叫んだ。益々『マルガリータ』は不機嫌そうに、口を尖らせて呟いた。
「あーあ。退屈だわ」