湖水にて
本編第四章『天使の帰還』から最終話の間で、湖水地方の氏名不詳正体不明の宿屋の親父のお話です。
東の山肌の稜線が、赤みを帯びて夜が明けた事を示し始めた頃、男はベッドで目を覚ました。近頃はいつも体が重だるい。ゆっくりと起き上がった男は、足元のスリッパを突っかけると、部屋の隅の小さな洗面台に冷たい水を満たし、ザブサブと顔を洗った。
此処を始めたばかりの頃は黒々としていた髪も髭も、すっかりと白に染まっていた。額や眉間に深く刻まれた皺は、いつも男が難しい顔ばかりしていた証拠だ。男はノロノロとした手付きで着替えを済ませ上着を羽織ると、部屋を出て入口のドアを開けた。
山の稜線から姿を現した太陽に照らされて、踊り弾けるように輝き続ける湖を男はじっと眺めて、今日は随分と機嫌がいいな、と思った。
こんなに湖の機嫌がいい日には、決まっていつもアイツらがやってきた。宿屋の親父は小さな宿屋を振り返ると、客を迎える準備に戻った。
台所でスープの仕込みをしようと小さい寸銅を手にした親父だったが、思い直したように一番大きな寸銅を取り出し水を満たし始めた。そして大きな冷蔵庫の中身やストックしてある食材を確認すると、懇意にしている農家に電話を掛けて昼迄に野菜を届けてもらうよう依頼した。
「親父さん、最近は具合がよくないから、客は取ってないんじゃなかったかい? それとも、娘さん一家が来るんかの?」
不思議そうな農家の主人に、親父は短く答えた。
「いや。客だ。湖の機嫌が良かったからな」
「ああ、『例』の客だな。確か小さい子供がおるんだろ? かみさんになんか作らせて一緒に持っていくでな」
「ああ、頼む」
明るく笑う農家の主人にも、変わりなくぶっきらぼうに親父は呟いた。
「んでさ。こんなオンシーズンに、こんな沢山で押し掛けて、予約なしで本当に泊まれるわけ?」
湖水に向かう列車の中で、ジェームズは口を尖らせて隣のボックス席のハドリーを睨んだ。
「知るか。お前らが勝手についてきたんだ。ダメなら外で寝ろ」
無愛想にハドリーが返事をすると、向い側に座っていたリンダがハドリーを睨み返した。
「まぁ、部屋はアルとキャシー、それからリリーとデビッドが使えばいいわ。私達若夫婦三組はロビーで雑魚寝でもいいけど、ハドリー、アンタは外で寝なさいよ。ねー、リリー」
「きっと大丈夫だよ、リンダ。調べてみたけど、ガイドブックなんかにも載ってないし、知る人ぞ知る穴場みたいだから」
リンダの隣でさっきからリンダに髪をクルクルと結い上げられながらクスクス笑っているリリーには、にこやかな笑みを見せながらリンダが悪態をつくと、反対側から同じようにリリーの髪をクルクルと結い上げているスティーブが、穏やかな笑みでリンダに微笑んだ。
「だからって、なんでお前ら、ついてきてるんだ!」
憮然としたハドリーが、立ち上がって全員を見渡して睨み付けた。
誘ったのはアルバートとキャシーだけの筈だった。昨年、初期の乳ガンの手術を受けたキャシーに夏の間涼しい湖水で休んで貰おうと、自分達の休暇に一緒に行かないかとハドリーが誘ったのだった。
ところが、その旅行にジェームズとアニーが一緒に行くと言い出し、更にリンダまで加わって、総勢十一名にまで膨れ上がっていた。
「ったく、親父が独りでやってる宿屋なんだぞ。しかも予約なしでこんな大人数、部屋はあっても飯は出ないぞ、きっと」
プリプリとしたハドリーに、後ろのボックスから顔を出したアニーが、
「心配ないわよ。マムは別として、他に主婦が三人も居るのよ。ちゃっちゃっと用意するわ。食材が足りなければ買出しに行けばいいし」
と、悪戯っぽく笑い、その言葉に、二年前に結婚したジェームズの妻ミミも、ジェームズの隣でうんうんと微笑んだ。
「リンダは主婦じゃないだろ。飯作れんのか?」
ブスッとしたハドリーに、リンダは顔を近づけて睨み返すと指を突きつけて怒鳴った。
「言ったわね、ハドリー。アンタにはアタシが作ったものは一切食わせないから覚悟しなさいよ」
「ふん、お前の飯なんか食えるか。スティーブも毎日気の毒だな」
「ほんっと、アンタって最低の男ね!」
睨み合う二人に、スティーブはオロオロとしていたが、
「リンダおばさん、料理上手だよ」
ハドリーの隣で独り黙って本を読んでいた十一歳のデビッドが、顔も上げないでボソッと言った。
「ふん。それ見なさい」
リンダに得意そうに見下ろされ悔しそうな顔をしたハドリーだったが、六歳になったリリーが嬉しそうにハドリーを見上げて、「でも、プディングはお父さんのが好き」と言うと、「そうか」と、照れたように頭を掻いてハドリーはそっぽを向いた。
その時、山の端から輝く湖群が見え始め、列車が汽笛を鳴らして目的地が近づいた事を知らせた。
「あー……、大人数ですまん」
宿屋の入口の鐘を鳴らして頭を掻きながら入ってきたハドリーをチラッと一瞥した親父だったが、その後からゾロゾロと沢山入ってきたのにも特に動じるようでもなく、鍵を五つカウンターに並べ、「部屋は勝手に自分達で決めろ」と、ぶっきらぼうにそれだけ言うとまた背を向けた。
それぞれの部屋に荷物を置くと、湖面を渡る風に吹かれながら、宿屋の外で目前に迫る湖を皆黙って見ていた。
風は優しかった。湖に冷やされて涼やかな風に、豊かな水の香りと、ほのかに花の香りがした。
「……ニナが喜んでるわ」
「ああ」
その風に吹かれてキャシーが静かに微笑むと、隣のアルバートも、嬉しそうに湖の遥か遠くを見つめて目を細めた。
「デビッド、釣りに行くぞ。でっかい奴を釣って今夜の晩飯だ」
「ジェミーおじさん釣りした事あるの? 本当に釣れる?」
嬉しそうにデビッドの肩を抱いたジェームズに、片眉を上げて怪訝そうに返事をしたデビッドだったが、ジェームズは口を尖らせた。
「あるぞ! ……子供の頃だけど」
口を尖らせたままそっぽを向いたジェームズに苦笑いしたスティーブは、
「よし。男性陣は釣りで、女性陣は手伝いだね」
と、アニーの夫アンソニーに目配せして、男達は意気揚々と宿屋へ引き返した。
「わぁ。それちょっと、どういう事よ!」
キッチンで夕飯の準備を手伝っていたアニーが、夕刻、男達が釣竿片手にニコニコと笑顔で戻ってきたのを見て目を丸くした。五人の男達が、それぞれ大小の虹鱒を得意そうに抱えていたからだ。
「こんだけあれば、十一人居ても大丈夫だな」
ジェームズが得意そうに鼻を掻いた。
「でも、この一番大きいのはデビッドが釣ったんだよ」
スティーブがニコニコとデビッドの頭を撫でながら微笑むとデビッドはちょっと顔を赤らめたが、
「それよりも、お父さんが初めて釣った事のほうがすごいよ」
と、嬉しそうにハドリーを見上げた。
「ハドリー……今迄何回も来てただろうに、初めてだったのか?」
「うるさい」
呆れたジェームズの突っ込みに、ハドリーは顔を顰めて睨み返した。
その晩の食卓は、それはもう賑やかなものだった。
狭いダイニングでは入りきらず、親父が宿屋の前に大きな即席のテーブルを作って、男達が石を組み上げて作った大きな竈に火をくべて、釣り上げた虹鱒をその場で塩焼きにした。
女達は次々とキッチンで出来上がった料理をテーブルに並べ、農家のおかみさんが作った大きなパイが供されると歓声が上がり、何時までも西の湖の彼方に沈もうとしない陽を浴びて、皆がキラキラとした笑顔で笑い合っていた。
この時刻になると風は冷たさを増してくる筈なのに、今日の風はいつまでも涼やかで穏やかだった。ほんのりとした花の香りを嗅ぐと、ハドリーは嬉しそうに笑った。
――ニナ、一緒に歌うか。
ハドリーは宿屋に背を向けて、今は静かに西日を受けて輝いている湖に向かって歌い始めた。
暫く皆その歌に静かに聴き入っていたが、リリーが一緒に歌い始めると、アルバートも朗々としたテノールで一緒に歌い始めた。リンダも照れ臭そうに久しぶりの歌声を聴かせ始めると、やがてみんな楽しそうに歌い出した。
湖がその歌に一層喜びを増したかのようにキラキラと輝き、遠くまで響いている歌声の中に、ニナが一緒に歌っているのを誰もが聴いていた。親父は独り黙って竈に火をくべながら、静かにその歌を聴いていた。
いつもよりもずっと賑やかな数日間を過ごして、一行は宿を後にした。
「世話になったな。急に大人数だったのに、ありがとう」
ハドリーが嬉しそうに親父に声を掛けたが、「ああ」と、いつものように親父は短く答えるだけだった。それぞれが親父に嬉しそうに礼を言って出て行き、ハドリーが最後に親父を振り返ると、親父は顔を上げてハドリーを見ていた。
「おい、ニナに伝える事はあるか」
親父はじっと見つめ返しているハドリーに、ぶっきらぼうに言った。ハドリーはその言葉の意味を、眉を寄せて考えていたが、やがて静かに親父に微笑んだ。
「いや。アイツに逢ったら、また虹鱒を食わせてやってくれ。喜んでたからな」
「ああ」
親父は静かに頷いた。ハドリーは一瞬悲しそうな顔をしたが、
「また逢える。そんな顔をするな」
そう言った親父は笑っていた。日に焼けた顔に白い歯が少し零れて、澄んだ瞳には優しい光が浮かんでいた。その顔を忘れまいと、ハドリーは目を逸らさずに頷いた。
親父の訃報をハドリーが聞いたのは、その年の冬の事だった。
「もう、あそこには行けないんだね」
デビッドが寂しそうに俯くと、隣のリリーもベソを掻きそうな泣き出しそうな顔をしたが、ハドリーは笑って首を振った。
「いや。来年も行くぞ」
「でも……」
「俺があそこを買った。親父さんの遺言があったそうだ。娘さんから連絡が来た。『お前には遠い此処の維持は出来ないだろうから、アイツらに売れ』だとさ」
その言葉にリリーが嬉しそうにハドリーにしがみ付き、デビッドも嬉しそうに頬を赤らめると、ハドリーとリリーにしがみ付いた。
ハドリーが静かに笑みを浮かべて二人の子供達を愛おしそうに抱き締めると、上機嫌な風が仄かに湖の香りを漂わせて、優しくハドリーの頬を撫でた。
――もう虹鱒食わせてもらったのか。よかったな、ニナ。
心の中で頬を染めて笑っているニナに、ハドリーは静かに微笑んだ。