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黒い瞳の少女 -2-

「ようやく来たな。フレッド」

「おう。来てやったぜ、ハドリー」

 フレッドはニヤリと笑うと、片手を上げたハドリーの拳に自分の拳をコツンと当てた。


 ニナの死からニ年が過ぎ、前年行われたニナの追悼コンサートでもキャンベルを補佐したフレッドは、キャンベルが病気療養のため休養するに当たって後任に指名され、その要請に応じることとなってロンドンのハドリーの元へやってきた。

「事務所はキャンベルの息子が継ぐらしいな」

「ああ、俺はプロデュース専門だ」

「俺をあんまり呼ぶなよ、フレッド。俺は家族優先だからな」

 首を竦めるハドリーに、フレッドは意地悪そうな笑みを浮かべた。

「何言ってる。ニナの歌を歌い継げるのは、今はお前しか居ないからな。バンバン出てもらうぞ」

「今は……って、将来ならあんな歌い手が現れるとでも思ってるのか?」

 ハドリーが同じく意地悪そうな目でフレッドを見返すと、

「ああ、きっと現れる」

 意味深に微笑んだフレッドはハドリーの頬を軽く叩いた。


 フレッドの中央入りと合わせてレイモンドも中央に呼ばれ、以前レイモンドを見初めた演出家のジョージの下で補佐として働く事になり、ヘレナと一人息子と共にロンドンにやってきた。現場にはその時の事を覚えているスタッフやキャストも大勢居たが、全力で舞台に打ち込むレイモンドに皆肩を叩いて励ました。

 初めてハドリーと顔を会わせた時には、黙ったまま深々とお辞儀をしたまま顔を上げようとしないレイモンドに、ハドリーは苦笑いして肩を叩いて、

「おい、演出家がキャストに頭を下げてどうする。もっと偉そうにしろ。でないと舐められるぞ」

 と、耳元で囁いた。その言葉に眉を寄せて辛そうな顔を上げたレイモンドに、

「もう忘れろ。いや、忘れるな。ニナを忘れないでやってくれ」

 ハドリーは澄んだ瞳でレイモンドに微笑んだ。

 




 劇場の裏入口の体の大きな警備員を怖そうに見上げながら、ヘレナは上目遣いで恐る恐るそっと話し掛けた。

「あの……演出家のレイモンド・ブラウンの家内ですけど、忘れ物を届けに……」

 ジロリと見下ろした警備員にビクッと体を震わせたヘレナだったが、やがてその警備員の瞳が驚いたように見開かれて、

「……え? ああ、聞いています……どうぞ。真っ直ぐ行った廊下の突き当たりがミーティングルームです」

 と、戸惑ったようにドアを開けると、「ありがとうございます」と慌てて頭を下げて、ヘレナは開けられたドアから中に入ったが、その警備員がまだ驚いたように自分を見ているのを背中越しに感じていた。

 途中で会う人会う人、皆にペコリと頭を下げて通り過ぎるヘレナだったが、その度に皆弾かれたように振り返って自分を見ているのを感じていた。


 金髪を纏めた女性が目の前のドアを勢いよく開けて出てきてぶつかりそうになった時、

「あ、ごめんなさい! 怪我しなかっ……」

 と、その女性もそこで言葉を失って、ヘレナを呆然と見つめていた。

「いえ、大丈夫です。すみません」

「失礼ですけど、貴女は?」

 恥ずかしそうに頭を下げたヘレナに、まだ驚いた表情の女性はヘレナを覗き込むように訊ねた。

「あ、あの……演出のレイモンド・ブラウンの家内です。宜しくお願いします。今日は、忘れ物を届けに……」

「……そう、貴女が……」

 真っ赤になってクルクルの黒い髪を揺らして恥ずかしそうに黒い瞳を俯かせているヘレナに、金髪の女性は呆然と呟いたが、ヘレナには分かっていた。

 ――この人はニナをよく知ってる人なんだ。あの時の事も……

 そう悟って胸の痛みを感じたヘレナは、唇を噛んでその女性に深々と頭を下げると小走りに廊下を駆け出した。金髪の女性がヘレナの後ろ姿をじっと見ているのを感じながら、私は誰にも許して貰えないと、自分の胸の痛みは生涯消えないと思うと、ヘレナは一層唇を噛み締めた。




「ああ、済まなかったね、ヘレナ」

 ミーティングルームでヘレナに微笑み掛けるレイモンドを見た途端、ヘレナは辛そうに眉を寄せてレイモンドに抱きついた。

「……どうしたんだ? ヘレナ」

「みんな……みんな、私の事を振り返って見るの」

「ああ。そりゃあ仕方ないかもしれない。君は本当にニナに似ているからね」

 レイモンドはしがみ付くヘレナの黒髪をゆっくりと撫でて微笑んだ。


 ニナが来るまではずっと栗色に染めていた髪は、子供が生まれてからずっともう染めていなかった。黒々として艶を浮かべた黒髪はニナと同様に暴れたようにクルクルと跳ねていて、髪の色と瞳の色が違うだけで、華奢な体つきも小さな鼻と口もまるでニナにそっくりだった。

「レイ、私はきっと誰にも許して貰えないわ。ニナを苦しめた私の事を……」

 悲しそうに見上げるヘレナに、レイモンドは小さく息をついた。

「そんな事はないよ、ヘレナ。むしろ僕が君を選んだからニナはハドリーの元へ戻ったんだ。君の存在が無ければ、ニナは皆の元には戻らなかったかもしれない。だからきっと、誰も君を恨んだりはしてないさ。ただ、君はみんなにニナを思い出させているだけなんだよ」

 微笑むレイモンドに、それでも悲しそうにヘレナはしがみ付いた。


 黙ったままのヘレナを優しく抱きとめていたレイモンドだったが、一抹の不安があった。ここまでニナに似ているヘレナにハドリーが会ったらどう思うだろうか、とそれが不安だった。自分がヘレナをニナの代わりにしたように、ハドリーがヘレナを欲したら自分は拒めるだろうかと、レイモンドはヘレナの黒髪を撫でながら心配そうに妻を見下ろした。

「ヘレナ、急いでお帰り。ハドリーに……ハドリーに会わないうちに」

 強張ったレイモンドの顔を見上げて、彼の言いたい事が分かったヘレナは眉を寄せて頷いた。




 ヘレナが部屋を出ていった後、届けられた書類に目を通していたレイモンドの元にリンダがやってきて、固く強張った表情で「レイ。話があるの」と切り出した。

「何かな? リンダ」

「貴方の奥さんだけど……」

「ああ。ヘレナがどうかしたかい?」

 平静さを装おうとしたレイモンドだったが、ニナの異母姉でもあるリンダからどんな言葉を投げ付けられるのかと、不安で声が少し固くなった。

「……ご両親は健在なの?」

 リンダはレイモンドが予想しなかった問いを投げかけてきた。


「いや、ヘレナは元々母子家庭で母一人子一人だ。母親は僕と出会う前に亡くなっているが……」

 怪訝そうに答えたレイモンドに、リンダは暫く黙って考え込んでいたが、

「あそこまでニナに似ているのよ。貴方、疑問に思った事ない?」

 リンダはツカツカと歩み寄ると、座っているレイモンドの顔を真顔で覗き込んだ。

「いや、ヘレナは一人っ子には違いない。ニナも母親は判明していると聞いたが、まさか……」

「その、まさかかもしれないわ」

 リンダは真剣な顔でレイモンドに更に顔を近づけた。

「調べさせて貰えないかしら? 私との間の姉妹関係を」

「しかし……今更調べてどうするんだ? もうニナは居ない。確かめたところで……」

 戸惑っているレイモンドに、リンダは顔を上げて腕を組んだ。

「私にもよく分からない。けれど、やらなきゃいけない気がするの」

 リンダの真剣な顔を、レイモンドは黙ったまま見上げていた。




 レイモンドに書類を届けて、一刻も早くここから立ち去ろうと急ぎ足で俯いて小走りに走っていたヘレナは、自分の前から歩いてきていた男に気付かなかった。体がぶつかって初めて気付いたヘレナが慌てて顔を上げて、「ごめんなさ……」と、言い掛けたところで、目の前の相手がハドリー・フェアフィールドだという事に気付いて愕然とした。


 このミュージカル界トップの俳優の顔を勿論ヘレナは知っていた。目の前のヘレナを呆然と見下ろしている蒼灰の瞳に、ヘレナは動揺して立ち竦んだ。

「ああ……大丈夫か? ……お前、いや、失礼、君はレイの奥さんだろ?」

 意外にもハドリーの言葉は優しかった。ハドリーだと知った途端、顔を強張らせて俯いたヘレナへの優しい問い掛けに、ヘレナは震えたまま頷いた。

 ――どうしよう……謝らなくちゃ。でも、でも顔を見られたら……見られたらいけない。

 動揺して震え続けているヘレナに、ハドリーは小さくフッと息をつくと苦笑いした。

「そんなに怖がるな。別に取って食おうとは思ってない」

 その言葉に恐々と顔を上げたヘレナに、ハドリーは優しく微笑んだ。

「俺が食いたいと思うのはニナだけだ。お前はニナに似ているがニナじゃない。お前はお前だ。何も怖がる必要はない。お前の思う通り、レイを支えてやればいい。アイツは今が正念場だからな。それはお前にとっても正念場という事だ。しっかり支えてやってくれ」

 ハドリーの蒼灰の瞳には優しい光が映っていた。その時、ヘレナの頬に優しい風が吹いて通り過ぎていった。屋内に居る筈なのに微かに花の香りを含んだその風に、ハドリーは顔を上げて上を見上げた。

「ニナも言ってるぞ。お前に頑張れって。……って、失礼、お前じゃなかったな。口が悪くてすまん」

 頭を掻いて笑うハドリーに、ヘレナの見開かれた黒い瞳には涙が浮かんだが、やがて小さな口元に微かに微笑みを浮かべて、「……はい」と、ヘレナは嬉しそうに頷いた。




 翌日、ハドリーと顔を会わせたレイモンドは、また深々と頭を下げた。

「ハドリー、済まなかった。僕は変な邪推をしていた。重ね重ね本当に申し訳ない」

「さあ? 何のことだ?」

 無礼を詫びるレイモンドの言葉だったが、ハドリーはそっぽを向いて知らん顔をした。

「ヘレナが喜んでいた。ハドリーにお礼を言ってくれ、と」

 静かに微笑んだレイモンドに、ハドリーは知らん顔をしたまま黙って頭を掻いた。

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