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黒い瞳の少女 -1-

本編第四章『天使の帰還』と最終話との間で、ニナの異母妹ヘレナに纏わるお話です。

 夜明け前の小さな産院で、産声を上げたばかりの小さな赤ちゃんの泣き声が響き渡った時、全身で荒い息をつき、汗に塗れながらヘレナは目を見開いてただ神に祈っていた。

「おめでとうございます。元気な男の赤ちゃんですよ」

 産まれたばかりでまだ真っ赤になって泣いている赤ちゃんを優しく抱き上げた助産師は、呆然としているヘレナに微笑んで声を掛けた。

 普通の母親なら喜ぶか泣きながら我が子を抱き締めようとするのに、ヘレナは怯えたような戸惑ったような顔をしていた。助産師はそのヘレナの顔を見て、一層優しく微笑んだ。

「お父様によく似た、黒髪でグレーの瞳のハンサムさんですよ。将来、女の子が大騒ぎになるわ、きっと」

 その言葉に、呆然としていたヘレナの瞳に涙が浮かび始めると、助産師はそっと赤ちゃんをヘレナに手渡した。

「神様……神様……ありがとうございます……」

 大声で元気に泣いている赤ちゃんに、ヘレナは愛おしそうに頬擦りして涙を溢した。


 ヘレナはずっと不安だった。あの時、レイモンドを舞台に立たせたいがために体を許したブローカーは、ヘレナがどんなに懇願しても避妊してはくれなかった。その後に妊娠が判明した時には、父親はレイモンドかもしれないし、その男かもしれないという状況に、ヘレナは泣いてレイモンドに詫びて別れを乞うたが、レイモンドは「その子の父親は僕だ」と言ってヘレナを抱き締めた。

 シェフィールドに来たニナを見た時には、自分は捨てられると覚悟していたヘレナだったが、意外にもレイモンドは自分を選んだ。レイモンドが自分を受け入れてくれた喜びと、ニナを深く傷つけた事への良心の呵責でヘレナの心は複雑に揺れ動いたが、レイモンドが「全ての責任は僕にある。僕が責任を取る」と言ってくれた。

「僕はヘレナを愛している。君に生涯を掛けて詫びるから、僕と一緒になって欲しい。これから、僕は一から出直しだ。きっとまた苦労を掛ける。それでも一緒に居たいんだ。君と、一緒に居たいんだ」

 そう言ってヘレナを抱き締めたレイモンドにヘレナは泣きながら頷いたが、やはり生まれた子がレイモンドの子ではなかったら、黙って去ろうと決めていた。だが、神は祈りを聞き届けて下さった。生まれてきた子はレイモンドの子供だった。ヘレナはこみ上げる喜びに震えながら、愛しい我が子を抱き締めた。




 その日、ヘレナは早朝から昼まで勤めているパン屋の仕事を終えて、いつものように余り物を貰って家へ帰る途中だった。

 冬の凍てついた空気にすっぽりと毛糸の帽子を被り、グルグル巻きにしたマフラーから目元だけ出して、先を急ぐように歩いていたヘレナは午後からは別の仕事があり一日中働き詰めだったが、そんな苦労も辛くはなかった。息子ブライアンは六歳になって小学校へ元気に通っているし、レイモンドもまだ駆け出しの演出家だが、少しずつ仕事の依頼が増えていった。

 結局、あの事件で舞台を降りたレイモンドはフレッドの元で演出家として修業を始めた。貧しい暮らしに幼子を抱えて、ヘレナの苦労はそれまで以上にきつかったが、自分はニナの身代わりでしかないと思っていた頃に比べると、レイモンドの愛情をひしひしと感じてむしろ今のほうが幸せだと感じていた。


 少し固くなったフランスパンは、オニオングラタンスープの具材にして今夜二人に食べさせようと、ニコニコと歩いていたヘレナの前を塞ぐように、歩道に人だかりが出来ていた。

 道端の電気店の前で、街頭に流されているTVを皆食い入るように見つめている人々の中には、肩を震わせて泣いている人も居た。怪訝そうに近づいたヘレナも覗き込もうとしたが、体の小さなヘレナには背伸びをしても人の背しか目に入らない。が、ボソボソとしゃべる音声が耳に入ってきた。

「それで、ニナの容態は?」

「……昨日、舞台の後再入院しましたが、今は……予断の許さない状況です」

 世界的プロデューサーのキャンベル・マクレガーがその問いに力なく答えていた。

「え?」

 ヘレナが思わず声に出すと、目の前の年配の紳士が涙目で振り返って、

「ニナが……悪性の脳腫瘍らしいんだ。余命いくばくもないと……」

 そう言って悲しそうに立ち去っていった。

 ヘレナは目の前のTVで項垂れたキャンベルの姿を見ながら、今の言葉が信じられずに呆然と立ち尽くしていた。



 その夜、レイモンドが帰宅するとヘレナは飛びつくようにレイモンドに抱きついた。

「レイ! ニナが……ニナが!」

「ああ。君もあの会見を見たのか」

 レイモンドの顔は青褪めていた。

「ニナの、ニナの容態はどうなの?」

「フレッドがハドリーに連絡したが、連絡がつかなかった。事務所に掛けたら、ハドリーはずっと付き添っているそうだ。容態は……良くないらしい。あの夕べのCBAも、ニナが最後に歌いたいと懇願して実現したそうだ。あの歌が最後だと、ニナには分かっていたんだ……」

 力なくソファに座り込んだレイモンドの隣に腰掛けると、ヘレナはひしと抱きついた。

「ヘレナ……僕達も神に祈ろう。どうかニナをまだ連れ戻さないで欲しいと」

「ええ、ええ、レイ」

 レイモンドにしがみ付いて、ヘレナは固く目を閉じた。


 ヘレナにとってニナは長い間恋敵であり、超えられない存在であったが、ヘレナにはニナを憎む気持ちは不思議と起きなかった。

 自分にとってニナは遠い雲の上の存在だった。いくら似ていると言われても、世界中の人に絶賛される稀有な歌声を持つニナと、ちっぽけな自分は比較の対象にはならなかった。けれどニナが死に直面としていると分かった今、ヘレナの心は激しく動揺した。鳴り止まない警報音が響き続けて、こうしてレイモンドにしがみ付いていないと、立っていられないと感じるほどだった。




 そんな不安な日が幾日か過ぎた夜、真夜中にヘレナは心臓がドクンと大きな音を立てて目を覚ました。真っ暗な部屋の中に、その闇よりも暗い闇が立ち込めているのを感じて、激しい動悸を上げ続ける胸に手をやって、目を見開いて大きく肩で息をしていた。

「……ヘレナ?」

 隣で寝ていたレイモンドがヘレナの異常に気付いて目を覚ました。薄ぼんやりとした部屋の中で、ヘレナは苦しそうに息をしながら目を見開いていたが、その黒い大きな瞳からポロポロと涙が零れ出した。


「レイ……ニナが……ニナが逝ったわ……」

 涙の零れる瞳をゆっくりとレイモンドに向けて、ヘレナが小さな声で囁いた。

「え?」

「ニナが逝ったの……今、旅立ったわ、ハドリーや子供達に見送られて、今、旅立ったわ……」

 ヘレナは顔を覆うと、肩を震わせて声を上げて泣きじゃくった。

「ヘレナ? どうして、どうして分かるんだ?」

 狼狽したレイモンドがヘレナの肩を抱いて覗き込むように訪ねたが、ヘレナは黙ったまま首を振るだけだった。震えて泣き続けるヘレナを抱き締めて、レイモンドもかつて愛した人の死に、胸に突き刺さる痛みに必死に耐えていた。

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