ジェミーの恋 -2-
最初から何処かおかしいとジェームズは感じていた。
居間の明かりは点いているが玄関灯が点いていないし、鍵を開けて「ただいま」と言っても、いつも出迎えにくる母キャシーの姿も無い。訝しげにジェームズが大きな出張カバンを片手に居間のドアを開けると、寒々とした冷気に一瞬顔を顰めた。
居間のソファに、父アルバートとキャシーが項垂れて座っていた。キャシーは顔を覆ったまま肩を震わせているし、アルバートも消沈した表情で固く目を閉じていた。その二人の前に座ったアニーは後ろ向きで表情は見えなかったが、母と同じように顔を覆って肩を震わせて小さな声で泣き続けていた。
「……一体どうしたんだ? 暖房もつけないで。風邪引き大会でもやってるのか?」
呆れたジェームズがカバンを下ろして両手を広げると、顔を上げたアルバートが静かに、「ジェミー、此処に座りなさい」と、強張った表情でジェームズに声を掛けた。
「なんなんだ? 一体」
戸惑ったジェームズが指示通りに二人の向かい側、アニーの隣に腰を掛けると、「……お兄ちゃん」と、アニーがジェームズの腕に縋り付いて嗚咽を漏らしながら泣きついてきた。
「嘘だ!」
アルバートの説明に、ジェームズは顔を赤くして立ち上がって叫んだ。
「みんなして俺をからかおうと思ってるんだろ? こんな大芝居打ってさ。だって有り得ないよ、そんな事。で、俺が泣いたら、みんなで笑うつもりなんだろ? 騙されないぞ、俺は。騙されないぞ!」
必死で首を振りながら否定するジェームズをアルバートは悲しそうな顔で見上げ、「ジェミー……」と呟いたがその先の言葉は出ず、アルバートの瞳から堪えきれない涙が零れ落ちた。
「嘘だ……嘘だ……嘘だ!」
頭を抱えて激しく首を振り続けるジェームズに、思わず立ち上がったキャシーが抱き付いて息子の頭を抱え込んで、「ジェミー!」と、ジェームズを抱き寄せて泣いた。
「嘘だ……母さん、嘘だと言ってくれよ。頼むから、嘘だと言ってくれ」
涙を溢しながらキャシーの耳元で何度も繰り返すジェームズを、キャシーは黙ったまま腕に力を込めて抱き締め続けていた。
翌日は会社を休んだジェームズだったが、翌々日には憔悴した表情で出社した。いつも明るく笑っているジェームズの異様な様子に皆心配そうに声を掛けたが、「なんでもない」と、虚ろな目で口数の少ないジェームズに、ただ戸惑って首を振るばかりだった。
昼休みにも食事を取らずに、ジェームズは黙々とPCに向って作業をしていた。そんなジェームズの背後に立って黙って見ていたミミが、PCに踊る文言を見て、眉を寄せて目を見開いて肩を震わせた。
「あの……」
ミミの小さな声にジェームズが振り返った。
「ニナに……ニナに何かあったんですか?」
ミミの見開いた黒い瞳から涙が溢れそうになっていた。初めて見せるそんな彼女の様子にジェームズが戸惑っていると、
「ニナに何があったんですか?!」
手を固く握り締めたミミが、泣きそうな声で叫んだ。
ジェームズが昼食も取らずに没頭していたのは、ニナのCBA出演を宣伝する告知を、あらゆる関係サイトに紹介する事だった。おそらくニナの最後の歌になるであろうこの機会を、出来るだけ多くの人に知って貰って、多くの人に聞いて貰いたい、出来るなら全世界の全ての人に聞いて貰いたい、ジェームズはそれだけを願っていた。
ミミを屋上へ誘ったジェームズと並んでロンドンの街並みを見下ろしながら、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「私……『ハンセン児童養護院』に居たんです」
最初にミミがそう話し始めた時、ジェームズは驚いて彼女を振り返った。
ミミは英国人の父と日本人の母の間に生まれ、三歳までは両親と幸せに暮らしていたが、家が火事になりその火事で両親を失い、親類縁者の居なかったミミは行政の手によってあの施設へ送られた。
「ニナは、いつも泣いている私に優しく歌ってくれました。本当に優しい声で、天使のようでした」
ミミは遠い目をして、ロンドンの空を見つめた。
ニナと同様に虐待を受けていたミミは、怯えて感情を表さない子供になっていた。ところが、ミミが七歳の時に、ニナや施設出身者の手によってようやくハンセンが捕らえられ、子供達が助け出された。その後を受けたサムによってミミは育てられ、奨学金も受けて大学まで進み、ジェームズの会社に入ってきたのだった。
「でも、どうしてもあの施設出身だって言えなかったんです。私はニナのように強くはないから、後ろ指差されるのが怖かった。きっと私もあんな酷い事をされていたんだろうと、邪推されたり、同情されたりするのが怖かった……」
ミミは俯いて、悲しそうに小さく呟いた。
「ミミ……」
「でも、でも! 私はニナを助けたい。いつも、いつもニナの歌を聞いてました。私が施設を卒業してからは、会える事も余り無くなってしまったけど、でも、いつも公演に行って、ずっと、ずっとニナを……ニナを……」
そこまで話すとミミは大きな黒い瞳から涙を溢した。
「ニナに何があったんですか? 貴方がそんな憔悴して、あそこまでニナの歌を聞いてくれと言うのには訳があるんでしょう? 教えて下さい!」
泣きながらジェームズを見つめるミミに、ジェームズは悲しそうな瞳で向けた。
「実は……ニーナは……」
次の日から、ジェームズと並んで昼休みに一緒にPCに向って一心不乱に作業をするミミの姿があった。二人で話し合いながら、関係各所やニナに関する記載のあったあらゆるサイトやブログをピックアップして、その作業はお互い家へ戻っても続いていた。ジェームズ同様ミミも憔悴した表情だったが、二人普段の仕事は黙々とこなし、ひたすら作業に没頭していた。
ニナはジェームズがロンドンに戻って三日後に一度退院してきたが、ジェームズは会いに行く事が出来なかった。普段通りに過ごしたいと望んでいるニナを前にして、泣かずにいる自信は無かった。いつも会社の帰りにニナの家の前で暫く佇んで、明かりの灯った居間を見つめて、黙ったまま見守るしかなかった。
そんな日々が一週間ほど続いたある日、ずっと家の前で佇んでいたジェームズの前に、玄関から静かに出てきたハドリーが目の前に立って声を掛けた。
「ジェミー」
悲しそうにジェームズを見るハドリーに、ジェームズは目を逸らして苦笑して呟いた。
「ハドリー、俺って情けないよな、本当に。俺もニーナを守ってるつもりだったのに、彼女の望みを叶えてやる事も出来ない。平常心でニーナに会う事なんて出来やしない。ハドリー。やっぱ、ハドリーにニーナを任せて正解だったな。ニーナを守れるのはアンタしか居なかった」
首を振りながら呟くジェミーに、ハドリーは静かに近寄ると肩を叩いて微笑んだ。
「そんな事ないぞ、ジェミー。お前忘れたのか。あの時、ニナが眠ってしまってた時、お前がニナを救ってくれたじゃないか。お前が居なかったらあの歌は無かった。お前の力で、ニナを呼び戻したじゃないか」
「ハドリー……」
「それに、俺だって情けない。毎晩泣いてるんだ。恥ずかしいくらいに」
ハドリーは照れくさそうに頭を掻いた。
「お前がニナの家族で……弟で良かったと、俺は思ってる」
ハドリーの言葉に、ジェームズは顔をくしゃくしゃにすると涙を溢して声を殺して泣き始めた。そんなジェームズの肩を抱いて、ハドリーは微笑んで頭叩いて慰めた。