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-Stature(成長)-

本編第四章『Bring her home』冒頭の頃のお話です。

 無愛想でぶっきらぼう、傍若無人で舞台第一主義と言われ、関係者に恐れられ呆れられていたハドリー・フェアフィールドも最近は丸くなったという評判が一部で囁かれている事に、相変らずムスッとした顔で事務所に顔を出したハドリーは、事務所で何時ものように平然とした顔をしているサラを相手に不愉快そうに呟いた。

「全く。俺は俺だ。何も変わらん」

「そうね。一時は増えた体重も元に戻ったようだしね」

 サラッと言ったサラにハドリーは益々憮然とした顔を向けた。

「そっちの話じゃねぇ!」

「どっちの話でもいいわ。で、今日は帰国の報告に来たんでしょ。明日、次の舞台の打ち合わせがあるから十時に来て頂戴」

「てめぇ、どんだけ俺を働かせるつもりなんだ」

 不満をぶつける相手のキャンベルは今日は不在で、ぶつけどころのない怒りをサラにぶつけてみたハドリーだったが、何事にも動じないサラが相手では分が悪かった。

「貴方が引き受ける限りよ。嫌なら断ればいいのよ」

「俺が断れる立場じゃないのは分かってんだろうが」

 眉間に縦皺を寄せた顔をサラに近づけて恫喝してみたところで、サラに効く訳ないと分かっていたハドリーはフンと不満そうに鼻を鳴らした。


 ハドリーの妻であるニナ・フェアフィールドが第一子出産後の復帰公演をすっぽかして大騒動になった後、そのツケを夫婦で払わされている今、ハドリーにはキャンベルが次々と入れて寄越す仕事を断る事は出来なかった。

 一応夫婦の内の一人には英国のロンドン近郊での仕事を振り分けて、子育て中の二人同時に長期間家を空ける事のないように調整はされていたが、月に四~五日休めればいい方で、しかも二人の休日がかち合わないように仕組まれたスケジュールでは、ニナとゆっくり過ごす事も出来ずハドリーにはフラストレーションが溜まって、そろそろ爆発限界に達していた。

「おーし。断ればいいんだな? 次の夏には絶対休むから覚悟しとけよ」

 そして湖水に逃げ込んで、あわよくば第二子を作って長期休暇を目論むハドリーは挑戦的にサラを見返してフフンと笑った。

「いいけど、仕事の調整はちゃんとしておいて頂戴。どうせその後ニナを休ませるつもりでしょ」

 何処までも冷静に返すサラに、本当に食えない女だとハドリーは鼻白んだ顔で面白くなさそうにフンと息をついた。

 



 昨日までブロードウェイ公演に出掛けていて二ヶ月間不在だったハドリーだったが、ニナはロンドンで公演の真っ最中で、どうせならとその足でシアターに出掛けたハドリーは、親友のラルフ・カールソンが主演を務めるその舞台『オペラ座の怪人』、通称『ファントム』をこっそりと観劇し、楽屋に顔を見せてニナと久しぶりに顔を合わせた。


「どうだった? 舞台」

 ニナと二人で自宅へ戻る帰り道、助手席のニナは期待と不安を籠めた瞳でハドリーを振り返った。

「ああ、ラルフはさすがだな」

 素っ気無く返したハドリーに、ニナはちょっと頬を膨らませて怒った顔をした。

「そりゃそうよ。で、私のクリスティーヌは?」

 催促するニナにハドリーは黙ったまま眉を寄せた。



 ニナは長い間、虐待の影響から自身の成長を止めて幼い容姿を保つように自己暗示を掛けていたが、ハドリーの愛と献身でようやくその暗示を解き大人として成熟を始めたばかりで、子供も授かって母となり、一層輝きを増したニナにそれまでは演じさせられないとオファーの来なかった役どころが次々と舞い込むようになった。


 『レ・ミゼラブル』の娼婦に落ちる悲運の女性ファンティーヌもそうだが、主人公の怪人と幼馴染の婚約者ラウルとの愛に板ばさみになるこの『ファントム』のクリスティーヌも、途中で妖艶な演技を要求されたり、相手役とのキスシーンもあったりでニナには敬遠されてきた役ではあったが、圧倒的な歌唱力が要求される難しい役でもあり、『天使の歌声』と絶賛されるニナには是非やらせてみたい役の第一候補として何時も名前が挙がっていた役でもあった。


「ああ、まぁ良かったな」

 お茶を濁すようなハドリーの答え方に、ニナはキュッと口を結んで不安そうな顔をした。

「……やっぱり私にはまだ無理だったのかしら」

「いや、そうじゃない」

 そうじゃないと言いながらハドリーが不満そうなのは、ニナが完璧に演じていたからだった。


 ニナは舞台俳優であり、舞台上で完璧に演じるのは勿論の事であったし、常にそれをニナに要求してきたハドリーとしては認めざるを得ないのだが、胸の中のモヤモヤとした影のような物がユラユラと浮かんで消えないのは何故だろうと、己でも疑問に思った。

 清楚で一途で音楽に掛ける情熱を迸らせる姿や、再会した幼馴染のラウルとの恋に心をときめかせる乙女心、尊敬する『音楽の天使』への思慕の念、どれをとってもニナは完璧に演じきっていた。元々歌唱力には定評のあるニナだけに、その透き通った歌声は言うまでも無く他を凌駕し、そのニナのレベルに近づこうと他のキャスト達も全身全霊で声を迸らせている舞台は、各所からの絶賛を浴びているのも無理らしからぬ事であった。

 その中でもニナはラウルとの愛に気付くシーンで熱いキスを交わしていたし、劇中劇の中でハスッパで妖艶な女をこれも完璧に演じていたし、ファントムとのキスシーンでは愛情だけでは語れない慈愛に満ちた美しさにハドリーの周りの観客達がため息を漏らすのを、自分もこみ上げる熱いものに胸を焦がされるような思いがしたのは事実だった。


 あれは舞台なんだと、そう心の中で自分に言い聞かせたハドリーは、自分がラルフや、ラウルを演じている舞台仲間のキース・ドノヴァンに嫉妬しているのだというのは薄々分かっていた。

 馬鹿馬鹿しいとハドリーは思った。自分自身も俳優であり、舞台の上の役でこれまで数え切れないほどの女優達と仮初めの恋を演じてきたではないか、と己を戒めるように心の中で呟いた。

 ――舞台の役で他の男とキスするぐらいでこんな事じゃ、俺も焼きが回ったな。

 かつては舞台第一主義と言われ、舞台に関係無い事は全て排除し、冷たい男と詰られても気にもしなかった自分が、舞台と現実をごっちゃにして相手役に嫉妬してるなどとニナには知られなくはなかった。諦めたように小さくため息をついたニナに、ハドリーは自分の内心を悟られないように無愛想に眉を顰めてただ黙っているだけだった。

 



 帰り掛けにアルバートの家に寄って、預かってもらっていたデビッドを受け取ると、もうぐっすりと寝入ってるデビッドがたった二ヶ月の間でまたずっしりと重くなったような気がして、ハドリーはスヤスヤと眠っている息子の顔を繁々と眺めた。

 自宅へ戻り子供部屋にデビッドをそっと運んで寝かしつけると、もうすぐ四歳を迎えるデビッドが片手にしっかりと抱き締めていた本に気付いて、静かに抜き取ったハドリーはパラパラとその中身を見て驚いた。

 子供用の絵本だと思っていた本の中身は宇宙に関する物のようで、写真や絵よりも文字のほうが多いその本をデビッドはもう何回も読み返しているようで、少し角が折れた本を手にハドリーは向かい側でデビッドを微笑んで覗き込んでいるニナに顔を向けた。

「もうこんな本読んでるのか? 俺は知らなかったぞ」

「ええ。先月キャシーに買ってもらったのよ。今は宇宙に夢中みたい。本格的な天体観測用の望遠鏡が欲しいってねだられてて困ってるのよ。結構高いの」

 困ったようにクスッと笑ったニナに、ハドリーは白い小さな頬をぷっくりと膨らませて眠っている息子の頬をちょんと突付いて笑った。

「なぁに、キャンベルに買わせればいい。あのクソ親父、コイツのためなら何でも買うぞ」

「あらダメよ。最近キャンベルはデビッドに嫌われてて落ち込んでるの」

「は?」

 怪訝そうな顔をしたハドリーに、ニナは可笑しそうに声を殺してクスクスと笑った。

「会う度に歌を歌えって言われるから、デビッド嫌になったみたい。この子は余り歌わないの。歌には興味が無いみたい」

「ふん。ざまあみろ。あの狸親父、さぞ悔しがってることだろ」

 ニヤリと笑ったハドリーにニナは困ったように眉を寄せたが、直ぐに真顔に戻って息子を見下ろしているハドリーに、小さく首を傾げた。

「本当に、たった二ヶ月なのに、直ぐに大きくなっちまうんだな」

「ええ。子供の成長って早いのよ。昨日出来なかった事が今日にはスラスラと出来るようになっていたりするの。本当は毎日傍に居て、ずっと見守ってあげたいんだけど」

 ニナも寂しそうな顔になって、デビッドの薄茶色の髪を愛おしそうにそっと撫でた。

 その様子に一層眉を寄せて厳しい顔になったハドリーは決心したように顔を上げてニナに告げた。

「よし、今度の夏は必ず休暇を取る。家族で一緒に過ごそう」

 その言葉にパアッと顔を明るくしたニナが嬉しそうに微笑むと、ハドリーも口元に笑みを浮かべてゆっくりとニナに頷き返した。


 その夜、久しぶりにニナを抱いたハドリーは、腕の中の愛しい人を抱き締めてその甘い香りに酔い痴れた。

 舞台の帰りに感じていた黒々とした澱のような感覚は、ニナから吹く暖かい風に跡形も無く消え去り、明るい春の風に満ちた心には穏やかな春の草原が広がっていた。

 うっすらとバラ色を帯びた白い肌も、切なそうに少し開けた赤い小さな唇も、潤ませた鳶色の瞳も、全てが自分の手の中だ、とハドリーは思い知った。

 ――蝶は飛び立っても必ず俺の元に、この大木に戻ってくる。力をつけてより一層輝きながら。

 白い腕を伸ばしてハドリーの首元に縋り付いてきたニナを抱き締め返しながら、ハドリーはニナの香る栗色の髪に顔を埋めて心の中で勝ち誇ったように笑った。

 ――ああ俺は変わった。だから何だってんだ。俺は成長した。愛を知って成長した。その俺を見せ付けてやる。

 腰を深く沈めて全身でニナを感じながら、ハドリーは今の幸せに酔い痴れていた。

 




 翌日、上機嫌で事務所を訪れたハドリーに、一瞬だけ眉を小さく上げたサラだったが、それから何事も無かったような顔に戻って短く告げた。

「キャンベルから伝言よ。前の打ち合わせが押してるから、三十分遅れるそうよ」

「そうか。じゃあ茶でも飲むかな」

 普段なら不機嫌になって怒鳴り散らすかムスッと黙り込むハドリーが、変わらずに機嫌が良さそうなのをサラは口元で小さく笑って、「それから」と付け加えた。

「オファーが来てるわ。四年後だけど」

「四年? そりゃまた随分先だな。そんな先の事は分からないと返事しとけ」

 普通でも大体二年先ぐらいまでのオファーで、四年も先と言われても実感の湧かないハドリーは、その頃には第三子が欲しいな、とおぼろげに考えていたが、サラは顔色を変える事なくハドリーに訊いた。

「仕事の中身を確認しないの?」

「どうせロクでも無い仕事だ。聞いてもしょうがないだろ」

 事務所のポットで簡単にティーバッグでお茶を入れたハドリーが熱い紅茶をすすって答えると、サラはつっけんどんに言い返した。

「ヴァルトビューネなんだけど」

 その言葉にブッとお茶を吹いたハドリーが、

「ヴァ、ヴァルトビューネ?」

 と、目を丸くすると、サラは顔を上げずに書類に目を落としたままサラサラと言った。

「ベルリンを拠点とするドイツの交響楽団ベルリンフィルハーモニーが、シーズン最後の六月末頃にベルリンにある森林公園ヴァルトビューネで開く野外コンサートの事よ」

「そんな事知ってるわ! そうじゃなくて、俺がヴァルトビューネに出るのか?」

 畑違いのクラシックの、しかも世界に知られた音楽祭に呼ばれたと知ってハドリーは驚愕を隠せずに行ったり来たりしながらサラを睨んだが、サラの顔色が変わる事は無かった。

「そうよ。尤も貴方とニナが招待されたんだけど」

「って、俺らクラシックじゃないぞ?」

「さぁ? 私が関知する事じゃないわね。向こうが招聘したいと言ってきただけよ。で、断るの?」

「待て、サラ、待て。断るとは言ってない」

 慌てたハドリーが飲みかけの紅茶のカップを持ったまま、うろたえてウロウロと歩きまわっているのを、サラはじっと眺めていたが、

「四年後よ。それまでもっと自分を磨く事ね」

 とフッと笑ってハドリーを見上げた。


 まだ興奮したように頬を染めてブツブツ言いながら事務所の中をグルグルと歩き回っているハドリーに、珍しく笑みを浮かべたサラが黙って見守っているのを、ロンドンの春の風も穏やかに吹き込んで、優しい春の香りを運んで悪戯そうにユラユラとカーテンを揺らしていた。

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