演技派の天使
アメリカ、ロサンゼルス郊外。一軒家の一室。
雨の降るしずかな夜に、一人の男が書斎の椅子に腰掛けて、自分がこれから犯す罪をゆるしてくれるよう神に祈っていた。
誰にも聞き取れないような小声で、彼はつぶやいている。
「……神様、妻と息子が俺の人生からいなくなっちまった。さびしくてさびしくて、耐えられそうにないんだ。
俺の人生は順風満帆だったはずだ。彼女に初めて会ったときのことを今でも覚えてるよ。あれは、俺が大学に入学したてのころだった。大学のキャンパスで道に迷ってうろうろしてた俺に声をかけてくれたのが彼女だったんだ。
彼女は俺より一つ年上の2年生だった。とても聡明で、明るくて、前向きで、とにかくとてもすばらしい女性だった。こんなことになった今でも、俺は彼女のことを悪く言うことができないんだ。初めて出会ったときから、俺は彼女に恋をしていたのかもしれない。
俺は彼女をデートに誘ったさ。そして4回目のデートの誘いを彼女は受けてくれて、俺たちは付き合うようになった。自分で言うのもなんだが、俺は彼女をしあわせにするために頑張ったよ。一流の商社への就職も決めたんだ。
そして、俺の卒業式の日が来た。
俺は自分に聞いてみたよ。彼女を、キャシーを、キャサリン・アイゼンバーグを愛しているのか、って。
俺の心からの答えは……イエス、だった。
だから俺は、その日に彼女にプロポーズしたんだ。彼女は笑ってオーケーしてくれたよ。うれしかった。本当にうれしくて、俺は泣いた。
それからの日々を俺は決して忘れることができない。本当に幸せだった。本当に充たされていた。子どもも生まれた。名前はジョー。最高の日々だった。
でも……ある日を境に、彼女の様子がどんどんおかしくなっていった。聞いても、『なんでもない』って言うばかり。
そして、あの夜。
彼女は泣きながら、俺に離婚してほしいと言った。どうしてさ。俺はわけを聞いた。
キャシーは初恋の人と再会していたんだ。そして、彼女は確信した。自分の人生における運命の人はこの人だって。俺じゃなくて。
俺は何も言うことができなかった。結局離婚することに同意した。
彼女は息子も連れて行くと言う。おれは反対した。向こうに行って、そいつからいじめられたらどうするんだ。俺が育てる。そう言った。裁判にまでなった。そして俺は負けた。子どもの親権は母親が持ってるほうがいいんだそうだ。
なにを言っても無駄だった。
キャシーとジョーは俺の人生から旅立ってしまった。
それだけなら、俺はこんなことしようとしない。頭は半分おかしくなってたけど、それでも仕事にすがりついて生きていこうって決めたんだ。
でも、あの日。俺は見た。海岸沿いの遊歩道から、俺は見た。
ビーチに彼らがいた。
パラソルの下で、そいつとキャシーは仲むつまじそうに肩を寄せ合っていた。ジョーは、俺の知らない小さな女の子と砂山をつくって遊んでいた。
ジョーのその子を見る目は、ああ、なんて優しいんだ。太陽がまぶしくて少しだけしかめた顔でも、口元に浮かぶ笑みですぐにわかる。
ジョーはその子を愛してる。
その子は慣れない手つきで、プラスチックのスコップですくった濡れた砂を山のてっぺんからかける。ジョーはその砂を自分のスコップでならしていく。二人で砂山をつくる。その子が笑う。ジョーも笑う。
ジョー、お前は立派なお兄ちゃんさ。俺はそう思った……」
男のくちびるはぶるぶる震え、目の端からは涙が伝いYシャツへと落ちていく。
「でも、神様……この杯は、俺には苦すぎるよ。ッ胸やけが、ひどく、て…もう耐えられそうにないんだよ……ッ!」
そうして彼は自分のこめかみに銃口を押し当てる。
「……きっとこれでいいんだ。他にどうしようもないんだ」
男の指が、引き金にかかった。
次に男が見たのは、自分の死体だった。
書斎の椅子にひどく傾いだ姿で腰掛け、右のこめかみからは鈍く赤い色の血がゆっくりと流れ出ていた。
――これでよかったんだ。他にどうしようもなかったんだ。
頬を伝った涙のあとが、そんな言い訳を繰り返していた。
男は、その傍らに立って、かつて自分だったものを黙って見下ろしている。
そのとき、天使がその部屋に姿を現した。その気配に男は振り返る。
「ああ……」
白い服を着て、頭の上に光の輪を浮かべている天使を、男は古い友人と久しぶりに再会したときのような笑顔で迎えた。
「俺を連れて行くのかい?」
「いいえ」
天使は首を横に振る。
「自殺した人を連れて行くことは、できないんです」
「そうか……」
男は、緩慢な動作でソファに座った。
「でも、償いをしたら……償いをしたら、天国へ戻れます。だから私、そのことをあなたに伝えに来たんです」
「いいんだ」
男は笑う。
「おじさんはもう疲れたんだ。だから、ここにいるよ」
天使は、少し口をつぐんでから言った。
「でも……この世界で無限の時間を過ごすことはとてもつらいことですよ?」
「……」
男は何も答えない。
「あの……」
「見ろよ!! これを見ろよ!!」
男は立ち上がって、自分の死体を指差しながら叫ぶ。
「俺はもう終わったんだ!! ほっといてくれよ!!」
ほんの少し前、天使に笑いかけた顔からは想像も出来ない絶望と焦燥。自分で自分の命を絶ったのに、男はまだ苦しみから逃れることができないでいるようだった。
「もうウンザリなんだ! もうこれ以上、俺に何かを要求するなよ! 俺はもう空っぽで何もないんだ……!!」
声は次第に小さくなっていく。
「見ろ、こんなふうに、ぜんぶ流れ出ちまった……。終わらせてくれ。もういいんだ、ほっといてくれ……」
言い終えて、男は再びソファに座って顔を両手で覆った。その肩はふるえ、男は泣いていた。その姿は、ただ痛恨と後悔とを胸に抱く人のように見えた。
男はロマンチストな愛妻家で親バカだった。男にとって家族はすべてだった。そんな彼も、この絶望だけはどうすることも出来ずに今日という日を迎えた。運命が彼のために準備していた日だった。天使の役目は、そんな彼を天国へと連れて帰ること。
男の喉からは、くぐもった嗚咽の声がもれている。天使はそんな男の隣にそっと腰掛けた。そして、男の背中に手を置いて、ゆっくりと撫でる。演技派の技法その1「とりあえずスキンシップ」である。少女特有の華奢な手が背中を撫でる感触に男は顔を上げ、天使の方を見た。
「あ……」
男は驚いた。天使はやわらかく微笑んでいた。しかしその頬には涙が伝っている。
「どうして、泣いてるんだい……?」
涙をぬぐおうともせず、天使は答えた。
「あなたの悲しみが、伝わってきたから……」
演技派の技法その2「いっしょに泣いてみせる」である。泣きながら微笑むその顔は、光輪の光と相まってきらきら輝くようだった。天使は男にぴったりと寄り添い、男の耳元でそっとささやくように言う。
「あなたの祈りの声、聞いていました。ねえ、つらかったですね……」
かすかに喉にかかる涙声。
「私、あなたに触れてるから分かるんです。あなたの中にキャサリンさんへの悪い感情が見当たらないんです。本当に、やさしい人ですね……」
演技派の技法その3「とにかく褒める」である。相手がどんな点をどんな言葉で褒めてもらいたがっているか、瞬時に察知して、とにかく褒める。この技法を天使はほぼ毎回使っていた。これは、人の心をやわらげるのに、それほど確かな手段なのである。
「今でも、キャサリンさんとジョーくんのことを心配してる……。素敵です。あなたの魂は、触れていてとても心地良いです……」
ここで天使は少し甘えたような声を出した。さっきまで絶望のどん底にいた男も、少し顔色を和らげる。
「……さっきは怒鳴って悪かった。でも、もう、ほっといてくれよ……」
「ほっとけませんよ」
少し調子を強くして、天使が言う。どうやら演技が乗ってきたようである。
「だってあなたは私の……お父さんになるはずの人だったんですから」
「なんだって?」
顔を上げて天使のほうを見る男に、天使はうなずいてみせる。演技派の技法その4「手っ取り早く親近感を持ってもらう」である。いまだかつて、あなたの娘(予定)です、と言って心を開かなかった男はいないと言われており、これも天使がよく使う手である。
「もう一度、あなたに『運命の出会い』が訪れるんです。キャサリンさんのことが忘れられないあなたは……それでも戸惑いながら恋に落ちるんです。やがて二人は結婚して、そして私が生まれるんです……」
もちろん嘘である。しかし男は大いに真に受け、呆然として天使を見た。天使は困ったように笑う。
「私、そのときをずっと待ってたのに」
男の手の甲に、天使は自分の手のひらを重ねた。
「ひどいですよ、こんなことして。私、この世界に生まれてみたかったんですよ。雨に打たれるのって、風に吹かれるのって、どんな感じなのか、私、知りたかった」
男の目に、新しい涙が浮かんでこぼれる。
「誰かに抱きしめられて、あたまをなでられて、どんな気持ちになるのか、私、知りたかった……」
天使の台詞が雨音に溶けて、部屋に余韻を残していく。
「ゆるしてくれ……」
男の声が部屋に小さく響いた。天使は優しく微笑む。
「いいんです、もうゆるしてますよ。だって、こんなにもひとりの人を愛せるなんて、パパらしいなあって思いますから」
そして、天使は男から視線を逸らして、夢見るようなひとみで、ぽつりとつぶやいてみせる。
「でも私、パパの子どもに生まれたかったな……」
沈黙が訪れた。天使は絶好調だった。窓の外からは、かわらず雨だれの音が聞こえている。
「きっとパパは、私のこと、たくさんかわいがってくれたよね?」
「ああ、もちろんだ。もちろんだとも……」
男は天使の肩を抱いて、いっそう自分の方へ引き寄せた。
「よかった」
天使が男の肩にあたまを預ける。そのまま二人はソファに寄り添って座っていた。ふたたび沈黙が訪れる。男の心が満たされていくのを感じた天使は最後の仕上げにとりかかった。
「ねえ、パパ。もし私が『いまからでも、やりなおせるよ』って言ったら、なにがしたい?」
男は天使の顔を見た。天使はいたずらっぽく微笑んでいる。男も微笑みを返す。
「そうだな。はやく君に会いたいから、運命の人を探すだろうな」
「ありがとう、とってもうれしい……。ねえ、お仕事も頑張ってね」
「もちろんさ」
「あ、教会の慈善事業には、なるべく参加してあげてね?」
「まかせとけ。慈善事業と名のつくものは、なんでもやってやる」
「それから……お兄ちゃんのことも忘れちゃダメだよ?」
「わかってる。あいつが立派な男になるまで、俺は影で見守るつもりだ」
そこまで話して、男はさみしそうに笑った。
「でも、俺はもう……」
「だいじょうぶ。私が奇跡を起こすから!」
天使は男を励ますように言った。そして立ち上がって、男の頭を両手で抱き、そのひたいにくちづけた。
「ねえ、パパ。いま言った事、忘れないでね。約束だよ?」
天使の体を淡い光が包んでいく。男にはこれから何が起こるのか分からなかった。しかし、天使との別れが近づいているのを、たしかに感じていた。
「ああ、約束するよ」
「うん、ありがとう……」
天使は男のひとみを交互に見つめて、にっこり笑った。
「それじゃあ、がんばってね、パパ」
淡い光のなかに、天使の姿は次第にかすんでいく。そんなとき、はたと気付いたように男が聞く。
「そうだ、君の名前を聞いてなかった」
「ふふっ……」
天使はちょっと含み笑いをした。会心の決め台詞を思いついたからである。
「パパは私をなんて呼びたいの?」
茶目っ気たっぷりの笑顔で、天使は言った。そして光はあふれていき、天使の姿はその光のなかに消えてしまった。演技派の技法その5「ラストスマイルからのフェイドアウト」である。男は天使の消えた空間を両手でつかもうとして、その手はむなしく空をかき抱いた。握り締めた両手を胸に抱くようにして、男は目を閉じた。
男が目を開けたとき、男は書斎の椅子に腰掛けていた。その右手には拳銃が握られ、こめかみに銃口が押し当てられていた。男は慎重な手つきで銃を下ろし、机の上に置いた。いままでのことは夢だったのだろうか? 男はそんな目つきで辺りを見回した。演技派の技法その6「自殺する直前に強制催眠」である。一度死んだことにしておくと、いろいろ説得がしやすいという経験則に基づいて編み出された技法であった。
カーテンの隙間からはうっすらと光が漏れていた。男は立ち上がって厚いカーテンを開けた。
朝が来ていた。雨は上がっていた。地平線は朝焼けに染まり、空はその青を夜から取り戻そうとしていた。この空模様の変化は、男の心に生じた変化によく似ていた。演技派の技法その7「わりとベタな演出」である。
男は窓を開け、朝のさわやかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そして固い決意に充ちて、こうつぶやくのである。
「見ていてくれ、俺はかならず生き抜いてみせるよ。そして君に会うんだ」
その後、男は百まで生きた。男は仕事で世界中を駆け回り、町のありとあらゆる慈善事業に首をつっこみ、息子の結婚式には教会を見下ろす丘の上に双眼鏡片手にはせ参じ、しかしてついに、天使の言う「運命の出会い」は訪れないまま、男は老いたのであった。
ある穏やかな昼下がり。例のソファの上で、うとうととまどろみながら、男は自分の死期の訪れを知った。男を迎えにきたのは、やはりあの天使であった。
天使は上目遣いに微笑んで、男に言う。
「ねえ、『パパ』。私のこと、怒ってる?」
演技派の技法その8「はにかんでスマイル」である。これでどうにかならなかったことは一度も無いといわれる、文字通り、天使の微笑みであった。
男は苦笑してかぶりを振った。
「いいや……怒ってないよ」
そして、のろのろと両手を広げて言う。
「ほら、おいで……『アリス』や」
「うんっ!」
天使は男の両腕の中に飛び込み、そしてそのまま男の魂を天国へと連れ去ってしまった。
(おしまい)