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腕の中で冷たくなった、彼女を抱きかかえて、ただ己を嗤った。
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青年の1日は変わらず流れていくはずだった。彼にとって、変わらない1日とは、生まれてからの日常とは違う。変わらない1日とは少し語弊がある。1年前から変わらない1日、と訂正されるべきなのだろう。
予想外の事はいつでも起こる。
「どうなっている」
本を整理していると、静かな声、しかし異様に凄味のある声が青年の耳に届いた。恐る恐る声の主を見ると、黒いスーツの男が立っていた。
青年は軽く周りを見てから、その男を手招きした。案内したのは資料が保管してある倉庫だった。図書館を利用する一般の人はおろか、司書もよっぽどの用事がなければ入らない場所だ。
「何かあったのですか」
「とぼけんじゃねぇ。確かに『女神アルセアの力』なんだよな?」
音量を押さえた、爽やかな青年の声とは対照的に、男は苛立ちを隠せていないようだった。今にも掴みかかって来そうな男は青年を睨む。
「確かです。……まさか」
「なかった。バレたんじゃないよな」
「いえ、そんな動きはどこにも……。騎士団も中央図書館には目もつけていませんし」
男は大きなため息を一つ、吐いた。
倉庫の中は少し温度が低く、ひんやりとしていた。
「仲介人を雇うようになってからこっちも商売上手く行ってたんだ。んなとこでおじゃんだなんて冗談じゃねぇ」
男はそう呟いた後、そう言えば、と少し笑いを含んで言った。
「お前も困るよなぁ、あの女からアレをもらえなくなるのは、よぉ?」
青年の手に力が入る。しかし、ぎゅっと握られた拳は正面にいる男からは見えてはいなかった。青年は平静を装って相手の瞳を見つめた。そんな様子が、男には面白くはなく、つまらなそうに青年を見た。
「僕が探してみます」
「ほー。ま、俺も探す」
男は青年の横を通り過ぎて倉庫を出て行こうとした。青年の横に並んだ時、彼の方に男の手が置かれた。腕にはめられた金の腕時計の金属音と共に、男の声が青年に聞こえた。
「誰かに取られたんだとしたら……分かっているよなぁ、レイ?」
男はクスッと笑って、肩をぽんぽんと叩き、青年を置いて出て行った。青年はしばらくの間何かを考えていたが、何事もなかったかのようにその場を出て行った。
扉を開けた青年は外が予想以上に明るかった事に驚き、目を細めた。
「あ、レイさん! そうだ、ユースリアさん、今日はもう帰るって言っていましたよ。お話しましたか?」
「そうなのですか? ユースリアには会っていませんが……」
昨日の事もあり、早く帰りたいと思っていたルーナは図書館の中に入り、リースを探していた。その途中で偶然レイを見かけたため、彼に聞いてみようと声をかけたのであった。
ルーナはレイを見てユースリアの事も思い出し、聞いてみたのだが、レイは首を傾げるだけだった。
「ユースリアさん話してから帰るって言っていたから、まだ、図書館の中かな……」
「私も先ほどまで奥で作業していましたので、もしかしたら、見つけられなくて先に帰ったかもしれません」
「そうですね。あと、リース見ませんでした?」
「見ていませんが……また、C区画にいらっしゃるのでは?」
「いなかったんですよね……新聞かな……。呼び止めてすいませんでした。私探してきます」
ルーナと分かれたレイは、立ち止まって、外を見た。
(ユースリア……)
ルーナがリースを探しに行くと、リースは真剣な顔をして、新聞を読んでいた。初めは驚かせてやろうと考えていたルーナだったが、近づくにつれて、とてもそんな事が出来るような雰囲気ではなかったため、静かにリースの隣に腰を下ろした。
「驚かさなくていいのか?」
新聞を見つめたままそう言ったリースにルーナはドキッとする。
ルーナが驚かせてやろうと考えていた事がリースには分かってしまっていたのだった。ルーナ自身はかなり頑張って気配を消していたつもりであったため、ますます驚きを隠せなかった。数秒固まっていると、リースは読んでいた新聞を畳んで立ち上がった。
「帰るぞ」
「……え」
リースはそれだけ言って、歩いて行ってしまうのでルーナは慌てて追いかけた。
帰り道を歩いている最中、リースは何も話そうとはしなかった。ルーナは1人でも話をしていたのだが、途中から何だか馬鹿らしい気分になり、2人で黙って道を歩いたのだった。
いつも帰る時間とは違い、明るい道を歩く。
(もしかして、昨日の事があったから……?)
明るく、活気のある街の中を歩いている時、ルーナはふとそんな事を思った。いつもと変わらない表情、何を考えているか分からない表情のリース。そんなリースの横顔を見たルーナは、まさかと自分が一瞬考えた事を疑った。
「ねぇ、レイ。レイは何にも悪い事、しては、いないわよね……?」
家に帰って待っていた愛しい彼女は、彼の一番の恐れでもあった。
「これ、何なの……?」
彼女が手にしている狂気の薬。服用していない彼までもが、狂わされている。
「私の、せい、なの……?」
透明で、穢れのない瞳には、輝くものが溢れていた。
――君の零れる涙を僕は、拭ってあげたい。
青年は己の手を見つめた。




