第六話・クーンの薔薇
これまでの二つ名のクーンは……
クーンとその仲間達はグループを作り、大きくして成り上がっていくために猟を始めるが、上手くいかない。
プロの助言を求めて外国人の猟師の元へ師事を依頼するが、クーンに不思議な力「ミウタ」の才能を見た猟師は、クーンと共に村へとついて行く事になった……。
「クーン、朝ごはん出来てるわよ」
母の呼ぶ声で僕はうっすらと目を開く。ついで、茹でた肉のいい匂いが漂ってきて気だるい僕の身体に起き上がる気力を巡らせてくれる。藁と毛皮のベッドから起き上がると、部屋の片隅に置いてある桶に雨水を注ぐ。脂っぽい目ヤニの付いた顔を洗うと、秋口の冷たい水が肌に沁みた。
寝間着のままリビングに行くと僕の母は上機嫌で食卓の上にあるスープの入った鍋をかき回し、それをボウルに盛りつけていた。僕はあくびをしながら席に着く。野菜と肉と豆がバランス良く入っていて、挽いた香草を振りかけたあと母は手を大きく伸ばした。そのボウルは僕の目の前を横切って、浅黒く汚れた手の元へと渡された。
「裏の畑で採れた野菜と、クーンが取ってきてくれた兎のお肉を一緒に入れてみたの。ちょっと作り過ぎちゃったから遠慮無く食べてくださいね」
満面の笑みで語りかける母。ありがとうごぜえます、と小さく応える猟師。
彼の身なりは本当に汚なくて、伸びた前髪で口元ぐらいしか顔が見えない。そして口元は口元で伸ばし放題の髭が全力で自分の居場所を主張している。
木のスプーンでスープを掬って飲む様は髭がスープを吸い込んでるみたいだった。
何故……僕たちは食卓を共にしているのか。それを説明するのには一日ほど時をさかのぼらなくてはならない。
……この日の僕は激しく扉を叩く音で目覚めた。すでに日は高く昇っていたのが、窓から差し込む光の強さで分かった。僕は桶に貯めてある雨水で軽く顔を洗うと、寝間着そのままの出で立ちで部屋を出た。
「クーンちゃん、悪いわね」
隣の部屋の母も音に気付いて起きているようだった。母は持病があって、あまり動くことは出来ない。
「ああ、母さんはそのままでいいから」
と言って、僕はまだ音の鳴り止まない扉の方へと急いだ。扉を開けると、そこには近所のおばさま方が勢揃いしていた。いい話じゃないのはすぐに分かった。おばさま方は皆憤慨と怒りの表情をしており、その中には僕たち親子に対するあからさまな軽蔑の表情も混じっていた。
「あー……なんのご用でしょう」
「なんのご用ですかじゃないわよ! 私達にあんな迷惑かけておいて一体どういうつもりなの!」
左耳から右耳へ貫通するような甲高い声にたじろぐ。しかも言っている意味がまるで理解できない。表情を言葉で表現し直しただけで、原因について全く語っていない。
「ええとですね、すいません、何か皆さんにご迷惑をかけたのなら……本当にすいません。ただですね、今僕は起きたばかりで何のことかさっぱり分からないんです」
別のおばさん……というよりおばあさんが前に出てまくしたてる。
「あの余所者を連れてきたのはあなたでしょう! あの薄汚い猟師よ! よりにもよって私達が川で洗濯している時に上流で体を洗っていたのよ! 体を洗っていい時間を教えてなかったの? それにあの姿の汚いことときたら……川が黒く染まるほどだったわ、それに体を洗いながら川の中でオシッコしてるかも、いえ、きっとしてるに違いないわ! あんな不潔で臭い人が近くにいるなんて耐えられないわ!」
あなたの加齢臭もいい勝負ですよ、という言葉が浮かんだけど口には出さないでおこう。
しかし怒る理由は分からないでもない。川の利用にはトラブルがつきものだ。そのためホトリ村では日時計で時間を計り、川の用途をハッキリ分けている。それを知らずに入浴した猟師、それを目撃した主婦のおばさま方。これは弁解のしようがない。
「すいませんでした、あの猟師の人は二日前に連れてきたばかりで、まだ大事な村の掟を知らないんです。ちゃんと教えておきますので、どうか今日はお引き取りください」
平身低頭謝るが勝ち。理屈でなんやかんや言っても火に油を注ぐだけだ。僕の無抵抗な姿勢を見て、戸口に集まった何人かのおばさまは意気を削がれた様子だった。
「まぁ! お引き取りくださいだなんてよく言えたものね! さっさと帰ってほしい気持ちが見え見えだわ!」
くそっ、頑張るなぁ……。顔を見て納得が言った。風車小屋のトムスン家の奥方だ。美人だった(と主張する)若い頃の面影はすでになく、今はただ性格の悪さが顔と体中の贅肉に表れているだけだ。トムスン夫人は何かと僕と母、ニトーシェ家を敵視している。その件については理由もはっきりしているし、今更どうこうすることも出来ないので放置して怒りがおさまるのをただ待つしかない。ただし、夫人の怒りはいつまで経ってもおさまることはない。蛇のごとき恐ろしいまでの執念、いや妄執か。
トムスン夫人の愚痴は続いた。普段の我が家の行い、振る舞いについて。最近若者を集めて何をしているのか、犯罪集団を作っているのではないか、うちの子を巻き込まないでほしいとか、最近近隣で起こっている強盗や婦女暴行事件は僕たちの仕業じゃないのか、等々。
僕は全ての言葉に耐えた。罵倒に疲れたトムスン夫人が、次の一言を口にするまでは。
「ふう……これだからこのクーンって子は、ニトーシェ・ローズの薄汚い……」
そこまで言いかけてトムスン夫人は「ひっ」と短く悲鳴をあげて言葉を飲み込んだ。それまで大人しく夫人の罵倒を聞き続けていた僕の表情が、一変していたからだ。僕の全身は放たれるのを待つ引き絞られた弓矢だった。理性の弦を放てば僕の拳は真っ直ぐトムスン夫人へと飛んでいくだろう。僕は殺意のこもった目で威圧し続けた。それ以上喋るなと。僕に理性を放たさせるなと。
「まっ……まぁ、トムスンさんもこれぐらいにしておきましょうよ。それじゃあニトーシェさん、猟師の件はお願いしましたわよ?」
口をパクパクさせるだけで何も言えなくなったトムスン夫人を下がらせて他の主婦連中が場を切り上げた。
「ええ、分かってます」
ぶっきらぼうにそう答えると、何か言いたげなトムスン夫人を無視して僕は扉を閉めた。
「ふぅ……」
ため息と共に頭が冷静になってくる。周囲の空気が少し重く感じて、だんだん「あぁやっちまった」という心が大きくなってきた。
ニトーシェ・ローズとは僕の母の名前だ。僕自身が罵倒されることには耐えられても関係のない母が罵倒されることには耐えられない。そしていつもの癖で、僕は心の中で弓矢を引き絞る。簡単にキレてしまうことがないよう自分の心に課した安全装置のようなものなんだけど、それを破られた時たとえ相手が王侯貴族だろうと神官だろうと、僕は怒りを抑える事はないだろう。
「クーンちゃん、大丈夫だったの?」
心配そうな顔で母が起きてきた。母の姿を見るだけで僕の中の怒りはみるみるうちに萎んでいった。何しろ、村のおばさま方に比べて母は比較するのも間違いなぐらいの美人だ。ひいき目抜きでそう思う。僕の赤毛と違って母は淡桃色の髪をしている。触れると手の平から儚げにこぼれ落ちていく繊細な髪だ。年に一度、母は髪を切る。商人に髪を売るためで、僕らの知る限り商人は母の髪を高値で買っていく。都ではカツラや帽子に髪の毛を使うんだそうだ。切った直後は、男みたいな短髪で整える。恥ずかしそうに母は外出するときスカーフで頭を覆っているけれど、僕は小さいときからそんな時見える白く透明なうなじの肌が好きだった。僕が見ているのに気付くと、母は決まって恥ずかしそうにはにかみながら片手で首を隠そうとするのだ。今母の髪の毛は半年以上切っていないのでかなり長くなっている。
「あぁ、寝てていいよ、飲み物用意するからちょっと待ってて。いや、この前連れてきたジグラズィ人の猟師のことだったんだ」
「猟師?」
水で薄めた蜜酒を出して、僕は母に二日前に会った猟師の事を説明した。猟の仕方を教わるつもりが、何故か僕たちのグループに転がり込んできたこと。ミウタという不思議な力を使えて、僕にはその素質があるらしいこと、全て隠さずに話した。
「へえー……なかなか不思議そうな人ね」
「うん、正直言ってることは殆ど意味分からないんだけど、凄い猟師なのは間違いないよ。一昨日と昨日も皆の狩りの指導をお願いしたんだけど、やっぱり来てもらって正解だった。皆凄い勢いで上達してるんだ。兎の毛皮も一ダース以上貯まってきたし、今頃弓矢の制作も始めてるんじゃないかな。この辺にはしなりのあるいい木が多いんだってさ。まぁ、ただ、村の掟の事を話し忘れててさ……それでおばさん達が怒ってやってきたってわけ」
「その人って、危ない人なの?」
母は少し身を乗り出して聞いた。嫌な予感がする。
「……いや、偏屈そうだけど危ない感じはしないよ。僕たちに指導する時も怪我をしないようにとか、毒草毒キノコの見分け方とか色々教えてくれてるし」
「じゃあさ、クーンちゃん。その猟師さんに家に来てもらいましょうよ!」
そらきた。あの猟師が?家に?ここ一年で聞いた冗談の中でも最低の部類だ。豚を家の中で放し飼いにする方がまだマシだ!
「あまり、いいアイデアとは、思えない、よ?」
全身で拒否の空気を出そうとする。けれど、母の笑顔には無力だった。ニコニコ顔のまま「そう?」といって僕の手を握る。
「みんなが嫌がるのは、きっとその人のことをよく知らないだけだと思うの。クーンちゃんはその人が誰とも仲良くなれないままでいいと思う?」
「……いいとは思わないけど」
「じゃあまず私達から仲良くならなきゃ!」
そして今に到る。母の強引なること、突進する牛のごとし……って感じだよ。しかし、本当にこの猟師は隣で見ていて本当に気分が悪い。僕だってマナーを熟知しているわけではない、母が時々教えてくれる作法の半分も頭に入っていない。けれど、それでもこの猟師みたいにあちこち汚しながら、服にシミをつけながら食べ散らかしたりはしていない! と思っていると、僕の視界の端から白い腕が伸びた。
「汚れてしまっていますわ、猟師さん」
母がナプキンを手に猟師の口元をぬぐった。僕と猟師はそれを見て硬直した。僕が硬直したのは、母のその振る舞いと、そのぬぐうのに使ったナプキンが先月買ったばかりのまだ一度も使ったことのない新品だったから。猟師が固まった理由は……まぁ、多分まさか白髪も混じる歳になってから女性に口元を拭かれるとは思ってもみなかったからだろう。そりゃそうだ、僕でも赤面する。猟師はしばらく何か言いたげにしていたが、また食事に戻った。今度はずいぶんとゆっくりと、汚さないように気を遣っている。その様子を見て、母は柔らかく微笑んだ。
「ところで猟師さん、ずっとあなたのことを猟師さんと呼ぶのも失礼だと思います。お名前を教えていただけますか?」
猟師は手を止めた。そういえば、一度も名前を聞いていなかった。
「……ランバ、です。ランバ・ラ・インナフス・デ・ハイメ・カイ・イートフ」
長いよ! ジグラズィ人の名前は皆こうなのか。家門名と名前だけの僕たちはずいぶんと楽をしてたんだな。
「ランバ……と呼んでください」
「ランバ・ラ・インナフス・デ・ハイメ・カイ・イートフさんね。ありがとう、覚えたわ! 私はローズ。ニトーシェ・ローズです。お母さんって呼んでくれてもいいのよ」
僕は口に含んだ蜜酒を盛大に吹いた。むせた。母は笑っていた、期待通りの反応だったんだな、ちくしょう。
「あー……ええと、ランバさん。母はからかって遊んでるだけなので気にしないでください。それじゃお母さん、僕は食器を洗ってくるから、どうぞごゆっくり」
睨みつける僕の視線を母は軽く受け流す。猟師のランバさんはまだ食べている最中だったので、自分と母の食器だけまとめて僕は洗い場へと下がった。
全く、母は何を言い出すか全く予想がつかない。
ニトーシェ・ローズとランバは向かい合ったまま座っていた。ローズは微笑みを浮かべたまま、ランバの方は髪と髭で表情は見えないが、そわそわと居心地悪そうにしていた。
「ところでランバさん、お聞きしたいのですけど」
ローズは蜜酒で喉を潤して続ける。
「ワタリの方だと伺ったんですが、やはり狩りをなさっていたのはアンブラシア山脈の方で?」
「……はぁ。ワタリの仲間と別れるまでは、アンブラシアにおりました。といっても南の付け根のあたりです奥様。仲間と別れてからは熊と猪を狩っておりました。どちらもこの辺りの麓には姿を出さねえ獣ですんで、珍しい毛皮はよう高く売れます」
ローズは聞きながら何度も頷く。
「そうですわね、私も生きた熊や猪は見たことがありませんわ。でも、どうなんでしょう……ランバさんは……」
少し首をかしげながら、微笑んでローズはランバの目を真っ直ぐ見る。
「もっと北の方のご出身かと思いましたわ」
沈黙が部屋に満ちる。二人はしばしお互いの顔を見つめていた。
「……はぁ、それはまたどうして」
「いえ、なんだか、なんとなく北の方の訛りが入ってらっしゃるような気がして。ごめんなさい、ジグラズィの方に失礼ですよね。こんな風な言い方だなんて……本当にごめんなさい」
「いや、失礼だなんて、そんな」
「それに私の息子の遊びに巻き込んでいるみたいで……本当に昔から私の言う事を聞かない子なの。頑固で、遊ぶのばっかりが好きで……、あ、でも頭の回転はいい方だと思ってるんですよ、やだ、なんだか私ったら親バカみたい」
「お子さんは……悪い子ではないと、思いますだ」
「今度は友達と一緒に何をするのかしらね。猟師のランバさんを連れてきたんだから、今度は猟師さんみたいにお肉とか毛皮とか薬を売ったりするのかしら? 動物の内臓って薬になるんですってねえ、私知らなかったの、この間クーンが教えてくれたのよ。ランバさんから教わったんだって。でも皆猟師みたいな事するの初めてだから、危険な目に遭わないか心配だわ。ねぇランバさん?」
「……危険なことはさせんで、安心してください。熊や猪や、『何か危険なもの』が現れたら儂が引き受けますんで」
「あらまぁ嬉しいわぁ! じゃあ、ランバさんがずっと見守ってくださるのね」
「へえ、儂みたいなヘボ猟師にはそれぐらいしか出来ることがありませんで」
食器を洗い終えて戻ってくると、「儂みたいなヘボ猟師には……」というランバさんの声が聞こえた。
「またまた、そんな謙遜しちゃって」
と笑う母を見てランバさんは頭を掻いていた。照れなのか、本当にかゆいのか……まぁ半々だろうな。
「じゃあランバさん、随分と不出来な息子ですが、どうか宜しくお願いします」
「えっ、なにそれ、何の話の流れだよ」
「だってあなた猟をするのは初心者でしょう、ちゃんと玄人の方の言う事を聞かないと。……それと、ランバさんにはこの家に住んでいただきますからね」
「えっ?」
と、僕とランバさん両方から声が出る。
「いやいや、それはおかしいし」
「教えを乞うならお礼しなきゃいけないでしょう。うちには雨風をしのぐ家ぐらいしかランバさんにお出しできないのよ」
「いや、だからって」
そこまで黙って聞いていたランバさんが手を挙げた。
「いや、奥様。それは困ります」言葉少なにランバさんは続ける。
「儂みたいなのが一緒に暮らしては奥様に迷惑をかけちまいます」
母は身を乗り出してランバさんの手を掴むと、両手で握って自分の胸元へ引き寄せた。
「人の目は構いません、私はただ私が正しいと思うことをしたいだけなんですから」
結局ランバさんが解放されたのは午後を過ぎた頃だった。母には二人で森の仲間のところへ行くから、と言って抜け出したが、実際は母から逃げたかっただけという。
「クーン」
憔悴しきった声でランバさんが言う。
「お前のお母さん……凄い人だな」
「まあね、疲れるでしょ……強引だし、こっちが赤面するような事平気でやるし。なんていうか、抜けてるっていうか」
「でも、凄い人だ」
「うん」
僕たちはそのまま無言のまま歩き続けた。森への道なき道を歩く。遙か東の山脈が僕たちの前に立ちふさがる壁のようだ。
「クーン。……お前の家に邪魔させてもらう」
「いいよ、母さんの言う事には逆らえないし」
「そんで、儂のことで奥様に迷惑はかけん」
それはどういう意味だろうと、聞きたかったけどランバさんはそれきり口をつぐんで喋ろうとはしなかった。多分彼が迷惑をかけないというなら、決してかけることはないだろう。彼は言葉に重みと真実味を感じさせる男だった。身なりは完全に猟師というか浮浪者なんだけどね……。
でも、僕には少なくとも彼が悪い人ではないという確信があった。母が認めたからだ。ふわふわしているようで人を見る目は恐ろしく鋭くて、僕も友達もそれで助けられた事が何度もある。まるで人の心を読めるみたいだ。
いや、まさかね……?
その夜、僕は夢を見ていた。
真っ暗な場所に立っている夢だ。自分がどこから来たのかわからない。暑さもなければ寒さもない。それでも「これは夢だ」というのは直感的に分かった。
「……ニトーシェ……」
僕を呼ぶ声が聞こえる。どこまでも闇が続く空間の中で、僕は振り返った。
何かがいる。人じゃない。人よりも、もっと大きい何かが。
「ニトーシェ……」
『それ』は目を開いた。目は光り輝き、猛烈な熱気とともに黒い皮膚がひび割れ炎が吹き出した。巨大な鉄のかたまりが擦れ合うような音と振動が響く。『それ』は口を開こうとしている。
「ニトーシェさん、いらっしゃるんでしょう!」
お尻が痛い、背中も痛い。ベッドで寝ていたはずなのに、ベッドが隣にある。あぁそうか、落ちたのか。
扉を叩き続ける音が聞こえる。こないだ同じようなことがあったような……。僕は嫌々起き上がって扉へ向かう。
「はぁい……、なんでしょうかぁ」
「ちょっとニトーシェさんっ!」
耳をつんざくおばさんの大声に僕の鼓膜は酷く揺さぶられた。一昨日の時以上の人数が僕の家の前に集まっている。原因は明らかだ、猟師のランバさんだろう。迷惑をかけないと言った次の日にこれか!
「ちょっと、あのお方は一体誰なの! 私達にも紹介していただきたいわ!」
「は? 誰を?」
おばさん達の話をまとめるとこうだ。今朝、主婦仲間達と一緒に朝一番で洗濯に行くと少し川上の方に先客がいたんだそうだ。別にそれ自体がルール違反とか問題というわけでもなかったが、問題は誰もその男の事を知らなかったということだ。
「どんな人だったんですか?」
「スラッとした長身で割と若かったわね。髪はオールバックの短髪で、美しい銀色の髪だったわ。あごひげも口ひげも無かったわね」
まるで記憶になかった。一番あり得るのは近隣の村人だけど、わざわざ他所の川に来るとは思えない。とすると、次にあり得るのは近隣を荒らしているとおばさま方が噂しているならず者集団の一味……?
「他に何か覚えていることは?」
「あら、分からないの? そぅねぇ……肌の色は全身よく焼けてて小麦色だったわ。あんな凄い筋肉の男の人は見たことがないわ。胸板も、腹筋も……川からあがる時に下も見えちゃって! でもこっちに気づいてそのまま前も隠さずニコッと笑ってくれたのよぉ」
おばさま達から黄色い声が飛んだ。赤面しながら恥ずかしがられても寒気がするんだが……自分の母親より年上の女性達がきゃあきゃあ言ってるのは見てて楽しいものではない。前回より集まってる人数が多いのはその男のファンってわけか。
「水浴びの後に喋ったりしなかったんですか」
「それがねえ、すぐに服を着てどこかいっちゃったのよ。見たことのない獣の毛皮を持っていたわ」
見たことのない獣の毛皮、か。ふうん……。
おばさま方は僕が何も知らないと言うと帰って行った。ため息をついてリビングへ戻り、一人で帝国将棋の木製の駒を磨く。馬の頭の駒、単純な棒のような駒、大きな盾を持った駒、それぞれに動ける範囲が決まっている。駒は母の手作りだ。時々こうして少し油をつけて手入れをしている。
再び扉を叩く音がした。駒を置くと、僕はうんざりな気分で扉へ戻る。
「だから、そんな人のことは知らないって」
「ん? どうした、クーン」
そこには見たことのない男が立っていた。オールバックにまとめた銀色の髪。茶色の瞳。口ひげもあごひげもない見た目三十代後半の若々しい男性で、彼の両肩には見覚えのある獣の毛皮が乗っている。
「……ランバさん?」
「よく分かったな、ババ衆は誰一人気付かなかったのに」
「ババ衆っておいおい……。普通気付かないよ、白髪はどこに行ったのさ! 若くなってるし」
「しばらく洗うてなかったから汚れすぎて黒髪に見えたんだろう。で、本当の地の髪が白髪に見えてたんだな。儂の歳は、これでも三六歳だ。そりゃああんだけ髭伸びとったら分かる歳も分からんわ」
全くその通りなんだけど釈然としない。
「で、なんでまたいきなり……?」
「昨日言うたろ。奥様に迷惑はかけんと。里で暮らすなら里の格好をせんといかん。人間くささが前に出ると獲物に気付かれやすくなるが、仕方ねえ」
「あら、ランバさん随分綺麗になりましたね」
振り向くと母がいた。食卓の上に置いてある帝国将棋の駒を並べていた。僕が磨いた駒を初期の配置に合わせて並べ直している。
ランバは母に向かって深々と頭を下げ、母はいつも通りの優しげな微笑みでそれを受け止めた。二人の所作はとてもおごそかで、寂れた村の小さな家というよりも、何処かのお城の宮殿で出会った女王と騎士のような、そんな錯覚を起こさせるほどだった。
やれやれ、妙な同居人が増えちまった。
でも、母が認めたのなら大丈夫だろうし、男手が増えるのは大歓迎だ。それが村人じゃなくてよそ者なら尚更だ!