第十三話・手紙(4)
マルバシアは自分の耳が信じられなかった。
――何を言っている? この人は。ただでさえ遅れている行軍をそのような気晴らしのための余所事で更に遅らせるのか?
……だが、彼女はそれを口にしようとはしなかった。言えば最後、罷免されるのは確実だからだ。だからそれと気付かれないように、彼女はゆっくりと深呼吸して考えを練った。
「……それは良いお考えです。ですが閣下、私は連日の行軍で少々疲れておりまして……申し訳ありませんが今は全力で戦うことが出来ないのです」
「なんだ? 我が親衛騎士団の長ともあろうものがそのような軟弱な様では困るな」
「誠に申し訳ありません、この日ばかりは女の性を授かって生まれたことが恨めしくあります。男であったらどれほど楽でしたか」
よく分かっていなさそうな辺境伯の耳に、隣に座っていた夫人がそっと耳打ちする。辺境伯は、はっとなって彼女の方を見た。
「そうか、それでは仕方あるまい。ではその……何日で元に戻れるのだ?」
「私は少々重い方ですので、そうですね……七日ほどいただけたらと思います」
辺境伯は心底残念そうにうつむいた。彼女がほっとしたのも束の間、すぐに顔を上げる。
「ならばお前が本調子になるまでの間に勝ち抜き戦をやろう」
「……は?」
「毎夜騎士達に試合をやらせて勝ち抜きをさせるのだ。七回やれば三〇〇の騎士も……ええと……三人にまで絞れるだろう。その最後に残った三人とお前が試合すれば良い。どうだ、名案だろう」
それは名案ですわ、私今から楽しくなってきました……などと、馬車の中の貴婦人達は口々に喋りだした。
(こ、この人は……)
マルバシアは目眩を起こしそうだった。彼が言っているのはつまり、騎士団の全員を戦闘前に怪我人にしかねない事だ。賊が聞いたらさぞかし喜ぶだろう、とマルバシアは思った。賊は戦わずして騎士団の全員に被害を与えることに成功したわけだ。だが辺境伯が決定を覆すことはあり得ない。マルバシアは彼の名案を褒め讃えて、丁重に馬車と併走する名誉を辞した。
隊列の元の場所まで戻ると、従者がマルバシアの側へ馬を寄せた。
「如何でしたか?」
馬車での経緯を話すと、従者は大きくため息を吐いて悪態をついた。
「主をそういう風に言っちゃ駄目よ」
マルバシアが窘める。とはいえ、彼女も同じ気持ちだった。自分の軍歴の最後になるかもしれない遠征をこのような形で汚されてしまうのかと思うと、今すぐ馬車に引き返して中の人間を全員血祭りにあげてやりたくなる。しかし決定は決定である。既に騎士達の間で勝ち抜き戦の事が噂になり始めている。
「三〇〇人で勝ち抜き戦か、最後は楽勝だからそれまでは頑張らないとな」
そんな声がどこからか聞こえてきた。最後とは勿論マルバシアとの戦いの事だ。彼女は手綱を力いっぱい握り締める。
(いいわ……やらなきゃいけないならやるわよ。その代わりこの馬鹿げた見世物を私のために利用させてもらう。二度と舐めた口を利く馬鹿が出ないように、徹底的にやらせてもらうわ)
そしてその夜、最初の勝ち抜き戦が行われた。試合は木刀を使って行われる事となった。基本的には参ったと言ったら負け。それまでは血が流れようが腕が折れようがお構いなし。
第一戦では三〇〇人中一五〇人が次戦へ進んだ。重傷者はなかったが、軽傷者が三〇数人出た。打撲による傷が殆どだが、うち数人は腕や足の痛みを訴えて調べたところ骨折が分かった。貴婦人達や辺境伯はこの催し物を大いに喜び、真剣に戦い合う騎士達に感動したと言って、最後にナシジウムと戦い勝利した者には賞金を与えると言った。割れんばかりの歓声が響いたことは言うまでもない。だがその頃、当のマルバシア自身は会場となった村の集会場から離れた家の中で休んでいた。表向き彼女は月の障りの最中だからである。
「失礼します」
ドアをノックする音に彼女は入れと答えた。声の主は従者だった。
「外は凄い歓声ですよ」
「知ってる。ここまで聞こえてくるもの」
「閣下はマルバシア様に勝った騎士に賞金を与えると約束なさいました」
「……明日は今日以上に怪我人が出るでしょうね、まったくあの領主は!」