第十三話・手紙(2)
一番彼女のなかで大きいのはやはりナシジウム一門の存在だ。まだ帝国すら存在していない昔、のちに初代の正帝・副帝となる二人の恋人達がいた。二人は世界中の人々から愛され、力を合わせて絶滅寸前だった夜明人を救い出したと云われている。その過酷な戦争を生き抜いた『最古の一七貴族』の一門がナシジウム。今や『最古の一七貴族』もその半分が断絶してしまっている。それだけに未だ血脈を遺し続けているナシジウム一門への畏敬の念はマルバシアが想像している以上に大きいものだ。ただしそれが軍での評価に繋がるというわけではない。位階を金で買える制度を残しつつも実力がない者を排除する暗黙の力が、帝国軍の組織をややこしくしている。
そう、帝国の階級は金で買える。必ず二人以上の上官の推薦を必要としているが、相応の金を払えばどこかの拠点の司令になるぐらいは容易だ。金があれば、だが。その代わり現地の兵らが認めるかどうかという問題が残る。彼らが認めれば拠点運営は円滑になる。彼らが認めなければ縦の連携は崩れ不名誉な事態を招き、せっかく金で勝った階級を奪われる結果になる。
ナシジウム・マルバシア、彼女は認められていないと感じていた。部下どころか上司にも。
「貴女が私を選んだのではありません、運命が貴女を選んだのですよ、マリー」
不意に、マルバシアは記憶の片隅に残っていた、自分をマリーを呼んだ老女の事を思い出した。
「軍人としての道を選んだのは私自身です、それはどういう意味でしょうか」
彼女は思い出す、確かこう反論したはずだ、と。
「人には運命があります。思いもよらない幸運から理不尽な不幸まで。全ては我らが主神と暦神が定めた運命の巡りの一部なのです。あなたが自分自身の将来を選んだつもりでも、実はそれも神々の遠大な計画の一部なのです」
「では、私が今ここで軍人になることを止めたら? 毒杯を呷って自殺したらどうなります? それもまた神の計画の一部ですか?」
老女はベッドの上で横たわりながら、ゆっくりと頷いた。
「その通りです。ただし、『それ』はその時になるまで分かりません。その隠された神の意図が実を結ぶのは百年後か、千年後か……夜明人一人の知恵で量れるようなものではないのです」
マルバシアはそこで黙った。老女の意図が見えなかったからだ。
「ですから、私はあなたを選びました。神々が貴女を尊い計画の一部としてくれるように祈ったのです。ですからマリー、まずは自分自身のために、それから貴女の最も親しい人のために頑張りなさい。自分自身のために何か出来ない人が誰かに何かをしてあげることなど出来ないのですから」
「具体的に、何をすれば良いのですか?」
マルバシアからの質問に老女はしばし目を瞑って、ゆっくり答えた。
「マリー、貴女は船に乗ったことがあって?」
「ええ、まあ」
「船は風と波で進むわ。でも強すぎる風波は船を転覆させてしまう。あなたは船よ、あらゆる風と波を上手く使い追い風にしてしまうのよ」
「どうしても越えられそうにない風や波ならば、どうします」
「その時は、最初から出港しなければいいのよ」
(あの人の言う事はよく分からない)
マルバシアは鬣のような金色の髪に手を突っ込んで頭を掻いた。俗世離れしているとでも言うのだろうか、なんとなく雲を掴むようなところがある。それでもマルバシアはかの老女の事が嫌いではなかった。昔は、妹とよく遊んでくれていたことを思い出す。
(妹は大好きだったわね)
マルバシアは昔の記憶を辿った。まるで自分の孫であるかのように可愛がってくれていた。無理をして庭の散策に付き合ってくれた事もあった。彼女と、自分と、妹と……芝生の上に座って、篭一杯のパンを平らげたあの日、彼女は幸せそうだった。本当は入ってはいけないところにまで潜り込んだ妹を探してあちこち駆け回った事もあった。老女は笑って妹の悪戯を許してくれていたが、実際一門の人間は戦々恐々だったろう。一度誰がどう探しても妹が見つからないことがあった。誰もが途方に暮れた時、「いましたよ」と事もなげに妹を連れてきたのは老女自身だった。なんと妹は、隠し通路への入り方を自力で見つけてその中に潜んでいたというのだ。平謝りする父達、ケロッとした顔の妹、優しく笑って許してくれた老女、彼女の表情からは困難の影は見られなかった。誰よりも重いものを背負っているはずなのに。
(神は、あなたにはどんな運命を課されたのですか……?)
追憶の中にいたマルバシアを従者の声が呼び戻した。
「ナシジウム様、お手紙が届いております」