第十三話・手紙(1)
大きな広葉樹の上で何かが揺れた。それは一見して黒い獣のように見えたが、すぐにそうではないと分かる。獣には顎がなかった。代わりに人間の頭が上顎の下に収まっている。彼らはエリゴルの派遣した二人の猛獣使いだった。普通であれば一般人の様な格好をして何食わぬ顔で潜入するところだが、村人全員が顔見知りのホトリ村のような場所で潜入することは不可能。だから、こうして遠巻きに村を見張っているのだ。
「動きがあったぞ相棒」
一人が声を掛ける。もう一人は、のそのそと枝葉でカモフラージュした寝床から起き上がりつつあった。寝ぼけた目をごしごしこすりながらもう一人が指し示す方角を見た。常人には人の姿が点にしか見えないような距離でも、彼らにとってはたやすい距離だ。
「令嬢の付き人だ。移動する気か?」
「泊まる家を変える気かもしれない。今夜……やるか?」
「ああ、今夜か明日、だな」
ナシジウム・マルバシアは騎乗しつつ、眉間に皺を寄せて自分の感情に耐えていた。自分の背後にある全てのものに対して、思いつく限りの罵倒を叩きつけてやりたい衝動にかられた。彼女は女である以前に軍人だったのだ。だからこそ、同じ女であっても背後の『貴婦人達』が織りなす場違いな優雅さが耐えられない。どうしても耐えられない時は想像の中で彼女らをめった斬りにした。それでようやく、いくばくか微笑みと共に声をかける余裕を得られた。
「マルバシア様がこちらをご覧になったわ!」
それも一瞬で砕けた。
何しろ彼女達は、親衛騎士団長であるマルバシアを男装の麗人であるかのように扱い、好き好きに黄色い声を投げかける。それどころか自分達のお抱えの詩人達に『ナシジウム・マルバシアの麗しさを讃える詩』を競って作らせるほどだ。かといって身内からは女だてらに騎士など、と馬鹿にされる毎日。マルバシアは、疲れていた。
(予想はしてたけれど……予想以上の地獄だわ)
そもそも出発からして二日遅れ。本来ならば辺境伯の指示を受けて即出発したかったところを、この物見遊山である。予定が一日、二日遅れたところで討伐見学への参加を打ち切り出発を強行した。それでも一応辺境伯から指示のあった家畜などは頭数を揃えてある。参加希望を打ち切った後も大変だった。貴人にはその位に応じた歓待というものがある。位が高ければ逆にこちらから『お出迎え』に行かなくてはいけない。彼・彼女らのために道中宿泊施設の手配もしたが、これが内海沿いの行軍であれば城や貴族の館、神殿などを手配するところだ。しかし、地図を見る限りそこまで気の利いたものはなかったので町や村に助力を頼んだというわけだ。
最終的に参加した貴人は辺境伯を含めて二〇名になったが、召使い達や従者、下僕を含めると総勢で約一〇〇人の人員増となった。マルバシアはそうした人々の事は全て無視した。それが各町村に送られた手紙にも表れている。
騎乗行進の騎士三〇〇名の他、二〇名の貴人の移動手段は馬車である。まず四頭立ての儀装馬車。扉の部分に辺境伯の家紋をあしらった専用のもので、これは辺境伯と辺境伯が特に希望した貴人が同乗する。更に同じような儀装馬車をもう一台、位の高い貴人向けに用意する。そして残りの『位の高い人々と席を共にすべきでない』貴人が、天幕馬車に放り込まれる。従者達には天幕すらない馬車が用意された。当初の予定では彼らには馬車すら用意されていなかったのだが、行軍速度の遅れを気にしたマルバシアが厩舎の片隅で放置されていた荷車を改造するよう命じて馬車にしたのだ。ちなみにマルバシアの従者も今回の討伐に同行している。
(待ってなさいよ英雄騎士団……私のストレスをまとめて精算してあげるから)
心労の絶えない準備も終わり、出発してしまえば後は進むだけ、というわけにはいかない。主君に絶えず気を配り、彼の不興を買うことがないように神経を集中させなくてはいけない。それでもマルバシアは、幾分か気は楽だった。馬の背に揺られながら古い街道を進み、今まで吸ったことのない空気を吸いながら空を眺めていると自分という存在をひととき忘れていられる。部下達の嘲りも、辺境伯の横槍も、貴婦人達の嬌声も、ナシジウム一門としての責務も。全て忘れていられた。