第十二話・準備と異変(5)
「……ローズ様戻ってきませんね」
「そうだね」
その味気の無い受け答えに、しかしテグゼンは心の中で万歳した。
(やった、やっと口を利いてもらえた!)
対局を始めて三〇数手、テグゼンとリウムは一度も言葉を交わすことなく進んでいた。リウムの手番の時、彼女が盤面に目を落としている時、彼はずっとリウムを見ていた。
彼女は髪を束ねていたが、余った髪を耳に掛けていた。
彼女がかがむとその絹糸のような髪がさらさらと儚げに垂れる。彼はずっと彼女のことを見ていた。
下を向いた彼女がまた顔を上げるまで鼻梁の線が整った様に見とれていた。
彼女のわずかな所作一つ一つが彼の胸をときめかせる。村の娘と比べて、はたして彼女は同じ生き物なんだろうか、とテグゼンは思った。肌の血色も髪の艶やかさも、そして都会人らしい仕草の優雅な様も、彼にとって彼女は理想そのものだった。けれど、何を話していいのか分からない。最近テグゼンがしている事といえば猟師仕事や人材集めぐらいなもの。ワタリが動物の腎臓や心臓をなんと呼んでいるかとか、皮のはぎ方など話しても好意は持たれないだろうな、と彼は感じていた。
「ほかの方は何をしてらっしゃるんですか?」
突然の言葉にテグゼンの心臓が跳ねる。必死に気を落ち着かせて平静を装いつつ答える。
「皆救出作戦の準備だと思うよ。ここいらでこれだけ人数を集めたグループは他にないんだ、きっと成功するよ。ご令嬢の身もきっと大丈夫だよ」
「……あのリカルドという方は?」
「リカルド? ああ、あいつは……廃城の偵察に行くって聞いてるよ。なにか用事だったかな」
リウムは手を進めながら答えた。
「狼に襲われた時に助けていただいたのですが……きちんとお礼がまだなので。そうですか、砦に向かわれたならしばらくお会い出来ないですね」
すうっと目の前から色彩が失われて椅子と椅子を隔てる将棋盤が無限の大きさを持っているような、テグゼンはそんな錯覚に囚われた。何故いきなりリカルドの名前が出たのか、それを聞けないほどテグゼンは臆病だった。彼は長考をしているフリをして、その実殆ど意識をよそに飛ばしたまま次の手を指した。
「あ、それ赤騎がタダですよ」
「えっ」
盤面を見るとついさっき動かした剣士の駒が赤騎を守る形になっていたのに、それを動かしたものだから守る駒が無くなっていた。
「あーっ……しまったぁ」
「えへへ、これでかなり有利になりましたよ」
しまったなぁと頭を掻きつつ彼はにやけた顔を引き締められないまま続きを指す。自分に対して好意を向けてくれた訳では全くなくても、彼女が自分に向けて笑顔を見せてくれたことが嬉しくてしょうがないのだ。その代わり攻めの要となる駒を奪われて、テグゼンは今から猛烈なカウンター攻撃を受けること必至の展開となっている。
(って、普通に将棋をしてるだけじゃダメだ。リカルドが帰ってくる前に何とか手を打たないと・・・)
「あの、リウムさん」
「は、はい?」
真剣味を含んだテグゼンの口調にリウムはちょっとだけ声をこわばらせた。
「もし、迷惑じゃなかったら……」
「……?」
次の言葉を考えるまでに時間稼ぎにテグゼンは一手指す。攻めの一手ではない、守りの一手だった。それだけにリウムは考え込み、もっとも効果的な手を考えている。
「迷惑じゃなかったら……明日、僕と見回りしませんか?」
「……見回り?」
「うん、いや見回りっていうか、結構いい所なんですよホトリ村。僕たち同胞団のこととかも見てもらいたいし。ずっとクーンの家にいるのも暇だろうし、ちょっと気分転換にどうかなって」
「でもサーシャ様が……」
まだ捕まっているから、とまでは言わなかった。後はかほそい声でテグゼンの耳には届かなかったが、やんわり断られたのだと察する。テグゼンは肩を落として表情を暗くした。
「……しかし、一度こういう辺境の村を見てみたいと思っていたんです。……案内してくれるのですか?」
テグゼンは顔を上げてリウムの表情を直視した。少し困ったような、はにかんだ表情は多分、自分への好意ではなく同情が入り混じったそれだと、彼は気付いた。でも、それでもよかった。明日も一緒にいられる。それだけで今日一日をずっと幸せなままで過ごしていられる。
それだけで十分だった。