第九話・辺境伯マシウス・デイツ(2)
「ふう……紙は足りたかね、書記官」
マシウスはわずかに皮肉を込めて言った。
「ええ、閣下。この上なく丁度良い区切りでした」
それを真っ向から受け止める書記官。それでいい、とマシウスは思った。そういう職人意識こそ信用できる。
ドミニーシャ辺境伯領は帝国内でも税率の低い地方だ。国境線を睨む軍団の食料、補給品、軍装費は帝国から補助が出たし、言うほど戦争が起きることもない。というのも、ジグラズィと帝国の間には乗り越えがたい文化の壁があり、お互いがお互いの土地に魅力を感じていないのである。無闇に戦争を起こすよりは荘園を適切に管理して利益を伸ばす方が遙かに理に適う。そういう判断がまず、帝国側のマシウスにはあった。今回の裁判もその一環である。税率を低くし平民の自主性を促しつつ、帝国から与えられた裁判権を行使して罰金や財産の没収によって財政の足しにする。ある種の放任こそが最も理に適うとマシウスは信じていた。
「では、ナシジウム……次は何だ?」
ナシジウムと呼ばれた側仕えの女騎士、金髪の鬣の女性は辺境伯の耳元に顔を寄せて囁く。
「妙な男が来ております。格好は平民そのもので、……その、言いにくいことですが」
「何だ?」
「……お嬢様の事についてお話がある、と」
マシウスの窪んだ眼窩に暗い光が点った。頬杖を突いていた格好を改め、姿勢を正す。
「次の者を中へ!」
衛兵が「はっ」と応え、扉を開くと、一人の男がおどおどとしながら入ってきた。マシウスは彼の様子を見て眉をひそめた。格好は平民と言うより貧民そのもの。垢と尿にまみれて黒ずんだ衣服を着ている。マシウスは自分の所へ臭いが届く前に片手をあげてそれ以上近付かないように止めさせた。
「名は?」
書記官が尋ねる。
「ウジーマ・ドークールです。やっと入れたっす。俺もう三日間も待ってたんすから、宿代も無くてかっぱ……いや、野宿してたもんですから」
「用件をのべよ」
「あ、はい、用件っすね、はい。俺ぁ英雄騎士団っていう騎士団の団員です、そこの王様のお嬢さん、マシウス・サーシャを預かってます」
男の背後の衛兵達がざわめく。男はおどけて両手をあげてみせた。
「おおっとっと、ふぅー……。俺に何かあったらお姫様の命の保障はないっすよぉ」
マシウスは男の言葉を聞き、何度か深呼吸したあと、初めて直接口をきいた。
「……ふむ。我が娘、マシウス・サーシャを誘拐したのか。誘拐したとあらば身代金の額があろう。いくらだ?」
「五〇トラスです。でも、他のお嬢さんと一緒だった人質達も全部ひっくるめて五〇トラスっすからね! お得でしょ」
それでも法外なことに変わりはなかった。五〇トラスは傭兵を一万人以上雇っても軽くお釣りがくる金額だ。普通ならばそのまま攻め込まれてお仕舞いだが、男は強気だった。自分たちは価値のある人質をとっているし、居場所もばれていない。だから安全だと信じている。
「五〇トラス……五〇トラス、か。ナシジウム」
「はっ」
「星貨を持ってこい」
女騎士は一礼すると謁見の間から退出していった。