第八話・帝国将棋(6)
ローズは誰かが部屋に入ってきてもリウムが見られてしまわないよう、風呂桶の周りを衝立で囲んだ。
「お湯じゃなくてごめんなさい」
そう謝るローズにリウムは恐縮しながら「おかまいなく」と答えた。
リウムはぼろ布のようになった服を脱ぎ、前を両手で隠しながら風呂桶の中に入った。
「じゃあまずは背中からいきますね」
水を含ませたタオルで優しくリウムの背中を拭く。白い肌をした背中には二筋だけ、狼の爪にやられたような傷跡が生々しく残っている。ローズはその部分だけは特に丁寧に拭いた。傷跡に触れると、リウムがぴくんと背中を震わせた。
「んっ……」
「痛かった?」
「い、いえ。大丈夫です……、ちょっとしみただけ」
首筋から華奢な肩、肩甲骨へと順番に身体を拭いていく。少女の汚れの殆どは土汚れだった。細くて柔らかい腰の辺りまでを拭きおえる。
「腕、いいかしら」
「あ、はい……」
リウムは胸を隠していた手から力を抜いて、ローズに任せた。腕……特に手の擦り傷は多く、爪も少し割れていた。
「実はちょっと恥ずかしかったりします……子供っぽいでしょう? 私……」
「こんなに張りのあるいいお肌してるのに? もっと自分に自信を持った方がいいわよ」
「肌というか、あの」
「……? ああ、胸ね!」
みるみるうちにリウムの顔が真っ赤になっていく。表情は今にも泣きそうだ。ローズは軟膏の入った小瓶を手に取ると、それを指先につけて背中の傷跡に塗り込んでいく。オオバコとタチイヌフグリを混ぜたもので、傷を癒やし抗菌作用がある。
「じゃあ前を向いてね」
うつむいて真っ赤になりながらローズの方へ振り向く。しかしまた胸の前を両手で隠していた。ローズが眉間にシワを寄せて無言の抗議をしても、リウムは手をどけようとしない。
「これならどうだっ」
言ってローズの両手がリウムの脇に伸びる。
「こちょこちょこちょこちょー」
「ひゃっ! い、ゃめっ、ひゃああっ、あはははは!」
身体をくねらせながら必死で逃げる。けれど両手の塞がっているリウムには為す術もない。
「ははっ……あぅ……んっ、や、やめ……!」
耐えきれず腕を解いてローズの両手を掴んだ。
「や、やめてくださいっ……」
「綺麗な身体してるじゃない」
えっ、と間の抜けた声をあげながら下を見る。自分の小ぶりでなだらかな双丘が露わになっているのを見てリウムは「ひゃあああ」と悲鳴をあげてまた隠そうとする。手が動かない。ローズの手を掴んだのはリウムのはずだったのに、いつの間にかリウムの両手がローズに掴まれていた。
「やっ、やめて……離して……くだ……」
リウムの瞳から涙がこぼれそうになってローズは慌てて手を離した。
「ごめんなさい、でも貴女は本当に綺麗よ? 本当に」
「私なんか……サーシャ様に比べたら全然です」
「うーん……、私はそのサーシャさんがどの程度綺麗な人か分からないけど、貴女も凄く綺麗よ? 貴女ならすぐに貴女だけの運命の人が見つかるわ」
ローズはリウムの頭を優しく撫でて宥める。
「でも、でもでも……もしその運命の人が私の事を好きになってくれなかったら!?」
「その時は……」
「その時は!?」
「その時は――お尻を蹴って川に突き落としちゃいなさい。『私の魅力が分からない男なんて願い下げ、もっといい男を見つけてやる』ってね!」
リウムが吹き出して笑って、ローズもつられて笑った。
「っははは……はぁ、ありがとうございます。ちょっと気が楽になりました」
「どういたしまして。女はね、笑顔でいるのが大事なのよ。微笑んでさえいれば大抵の男はコロっと騙されてくれるから。じゃあ、前も拭いていいかしら?」
こくりと頷くと、リウムは手をほどいて胸をローズの前に晒した。ローズはタオルに水を含ませ直してリウムの首から肩、鎖骨、小さめの胸へと順番に拭いていく。
「胸の大きさなんかで女性を決めつけるような男に引っかかっちゃ駄目よ」
「それは、大きい人が言う台詞じゃ無いと思います」
リウムはローズを指さして言った。確かにローズの服の下には人並み以上の膨らみがある。
「まぁ私が大きいのは認めるけど……私は私の胸を見ながら話すような人とはお付き合いしなかったわよ?」
「じゃあ、さっきの息子さんのお父さんは?」
「クーン? クーンの父親はねぇ……。最悪だったわ。私を見るなり言った言葉、想像できる? 『お前、運動しにくそうな体をしてるな』よ? 信じられる? 今思い出しても腹が立つわ! あ、脚もやるからちょっと立ってね」
リウムは風呂桶の中で立ち上がった。水滴が肌を伝って水面へと落ちる。
「シカみたいな脚ね……やっぱりあなた綺麗よ」
「もうやめてください、恥ずかしいですからっ。でも、その人がローズさんの運命の人だったんですよね」
「そうよ。もう二度と会えない私の最愛の人。でもいいの、私は一生分の恋をしたし、あの人はクーンを遺してくれたから」
「あっ……ごめんなさい」
「なんで?」
「いえ……そんな、知らなかったんです」
「別に勘違いしないで欲しいんだけど、私は楽しかった思い出として話したのよ。辛い記憶としてではなく、ね。本当に話したくないことなら最初っから話さないわよ」
「そ、そうですね」
「だから貴女もまだ無理に話さなくていいのよ」
ローズは穏やかな笑顔のまま、そうリウムに宣告した。
「えっ?」
「まだ私達に話していないことがあるわね? 私には分かるの。でも、貴女からは敵意を感じないし嘘をついている様子もない。だから、無理に話さなくてもいいの。その話していない内容が私の愛した人の忘れ形見や、その友達を傷つけそうな話でない限り、ね」
ローズからの視線をまっすぐに受け止めながら、リウムは小さく頷いた。
「じゃあそろそろあがって体を拭きましょう、私の若い頃のお古だけど、いい服があるのよ」