第八話・帝国将棋(3)
「クーン、ローズさん! 開けてくれ!」
激しく扉を叩くその声の主はリカルドだった。僕は慌てて扉へ向かう、が僕よりもランバさんの方が早かった。扉が開く。外に立っているのは半裸のリカルド、そしてアルフ……いや、リカルドの背中にもう一人。栗毛の髪の女の子が乗っている。小柄な身体のあちこちに擦り傷ができている。元々着ていたらしい服は無残に切り裂かれていた。僕はこの子を見たことがなかった。村の女の子ではない、一体何があったのか……。
「北の林から逃げてきたんだ。狼二匹に襲われていた。大丈夫、目立った傷はない……ローズさん、寝室を貸していただけますか、あと、出来ればこの子の身体を拭いて――」
「ええ、分かったわ。こっちに来て」
母がリカルドを寝室へ案内する。お風呂(といっても水を張った桶)も寝室にあるからちょうどいいだろう。
「今の子は……」
「知ってるんですか、ランバさん」
ランバさんはしばらく女の子の後ろ姿を見ていたが、やがてかぶりを振った。
「いや、知らん。ただ狼に襲われたとなると……この辺で狼は普段出んだろう」
「うん、僕も本物は見たことがない」
「うむ、精霊サンが狼に里へ下りてくるなと言っとるからな。人間が狼の縄張りを侵さない限り狼は人を襲わん。だからあの女の子は狼の縄張りを侵したか、それとも儂の想像も及ばん何かに巻き込まれているか、だな」
ランバさんの言葉に不吉なものを感じつつ、僕らも寝室へ続いた。女の子は藁と毛皮のベッドで横になり、麻のシーツをかけられていた。
「さっきのおかしなミウタはこの子からだったのか……」
僕は誰に言うわけでもなく独りごちた。この子の前に立つとハッキリ分かる。生温かい重く湿った『風』がこの子から発せられている。僕がランバさんと出会って二ヶ月が過ぎ、ただミウタを感じるだけならだいぶ慣れてきていた。強い感情ならミウタを通して感じ取ることも出来る。
「そうだ。この子の心の有り様がこの子自身と周囲のミウタに悪影響を与えておった。何があったか知らんが、ただならぬ悲しみと絶望を含んだミウタだ」
「治す方法は?」
「あるにはあるが、錬金術師か魔法使いでないと無理だ。それに、それは悲しみを酒で紛らわせるのと同じで根本的な解決にはならん。原因を除いてやらねば」
「んっ……」
女の子が呻いた。皆が注目する中、女の子はゆっくりと目を開いた。
「こ、こは……」
「もう大丈夫よ、ここは私の家。私の名前はニトーシェ・ローズ。これは私の息子クーン、彼はリカルド君で、こっちがアルフ君。この人はランバさん」
「狼が……狼が追ってくる……。逃げないと……サーシャ様……」
まだ混乱しているな、とアルフがささやいた。リカルドが女の子に語りかける。
「リウムさん、狼は全て退治しましたからここは安全です。サーシャ様というのは……さっき気を失う前に言っていた辺境伯令嬢のことですね?」
リウムと呼ばれた女の子はこくんと頷いた。ヘンキョウハクって何なんだ? 皆質問しないけど分かってるのかな、いや、まさか分かってないの僕だけ?