弐
――夢を見た。
『とのお、とのお』
あどけないその呼び声は、出会った頃の姫のもの。
* * *
「そちの名は珍かじゃの」
ころころと文字通り鈴を転がすような笑い声を、俺は平伏したまま聞いていた。
俺が屋敷に入ったのは、姫が齢五つの時だ。
幼い頃から忍びの特訓を受け、隠密活動を主とする御庭番となった俺の初仕事は、白美津姫の護衛だった。
護衛、といってもそれは表立ってのものではない。どちらかといえば、話し相手の一人、お世話役といったところだろうか。元服を終え大人振りたかった俺は、(恐れ多い話ではあるが)姫を己が子のように可愛がっていた。
外に出ること叶わぬ姫の為、俺は毎日ちょっとした土産を持ち込んだ。
それは野に咲く草花であったり、街の団子屋の新作であったり、時には小さな鈴虫であったりした。
姫様はいつも俺の名を、舌足らずな甘え調子で、
「とのお」
と呼んだ。
俺の本当の名は野斗男であったが、結局、姫は一度もその名で呼んではくれなかった。
姫の七つの祝い日に、その話はきた。
強い呪いのかかった金鉱山の土地神の怒りを鎮めるため、国長の姫は大社の巫女姫として大量の鈴を身に付け、邪気を払い清める生活を送らねばならない。
それが代々御屋敷に生まれる姫の定め。
「とのお、一つ願いがある」
入社の前日、夕餉の前のひとときに白美津姫が言った。
「今夜一晩、寝所で寄り添うてくれぬかの」
「おや、お寂しいのですか」
と俺はわざとからかった。からかわないと、こちらが寂しくて仕方無かった。
本来許される筈の無いその願いは、幼い我が子を哀れに思った国長により見張り付きの条件で特例として許可された。
「とのお、とのお」
寝所の御簾内でにこにこしながら裾を引き、顔を見上げる白美津姫の顔は本当に愛らしかったので、俺はほとんど寝ることなく一晩中頭を撫でていた。
* * * * *
姫が白美津の名を捨て大社に入り、『鈴姫』と名乗るようになって、五年。
俺は『鈴替え』の役を任ぜられた。
月に数度、大社に赴き、鈴姫より直接邪気を封じた鈴を解く。そうして、新たな空鈴を身に付けさせ、印を入れるのだ。
「鈴替えを行う者は少なからず邪の影響を受ける。苦痛を伴う役ではあるが、引き受けてくれるか」
上役の言葉に、俺は頭を垂れつつ微笑んでいた。
我が子のように想っていた姫に会えるのだ。
多少命が縮んだところで、何の不満があろうか。
白美津姫――ああ、今では『鈴姫』だ――は、今でも俺の事を覚えておられるだろうか。
息を切らしながら石段を登る。幾重にも重なった塗りの鳥居の奥、大邸の御簾の向こうにおそらく鈴姫がいらっしゃる。
俺が鳥居をくぐり抜け大邸を見たその時には、既に御簾が上がっていた。
「とのお!」
階段を駆け下りながら大声で呼ばれたその声は、変わらず鈴の音そのものだ。
「お久しぶりです」
膝を付き頭を垂れる俺の前まで、はあはあと息をきらしながら鈴姫は駆け寄ると、
「表をあげよ」
と仰られた。
見上げたそのお姿は、思い出の中の幼子ではなく、
「――老けたな、とのお」
艶やかで凛とした、
「姫様はお美しくなられましたな」
雪日に咲く、椿の花のようだった。
* * *
夢で見た幼い姫は、俺の頬を両手で挟んでいた。
『つめたいのう、温めておくれ』
雪遊びで真っ赤に腫れた手のひらを、俺は頬の上から包み込んでじっとしていた。
『とのおの手は温いのう』
姫は嬉し気に笑い、俺は幸せを噛み締める。
ああ、娘を持つというのはこんな喜びがあるのか。
娘。
その言葉が、再会の日から少しずつ意味を変えていった事に、俺は気づかぬ振りをしていた。
* * *
「――さて、これで御終いです」
ぱたん、と白木の箱を閉じ、濃紺の呪い紐で結びを作りながら俺は言い、
「これで、終いか」
と鈴姫様も呟いた。
「のう、せめてそなたの髪束の一筋でももらえぬかのう」
「勿体無い御言葉痛み入ります。ですが、お立場ゆめゆめお忘れにならぬよう」
ああ、その言葉は俺自身に言ったのだ。
姫を、自分の娘としてではなく、一人の娘として愛してしまった己を諌めて。
初潮を迎え、女となった鈴姫様は隣国へと嫁がれる事となった。
箱を紐解き、蓋を開け、呪いを封じ終えた鈴の束をかき抱く。
鈴よ。
その溜め込んだ呪いで、この俺を憑き殺してくれ。
じわじわと冷たい風が身体を覆うように染みていく。
俺は笑った。
そうだ、このまま憑き殺すがいい。
叶わぬ恋に疲れ果てるより、いっそすぐさま楽になれたら。
「野斗男殿!」
通りかかった社の者に見付かる頃には、俺の身体は紫色に腫れ上がっていた。
* * * * *
姫が隣国に嫁いでから、もう三年が経つ。
俺はあれから命を取り留め、そのまま御庭番として働いている。身体が紫の斑模様になった為、裏庭番として隠密業に関わり、国長の信任を得ていた。
誰も、俺が姫に焦がれていた事など知らない。
封印箱が解かれたのは、物の怪の仕業となっている。
「野斗男、頼みがある」
国長に呼ばれ、座敷に参上すると、俺の他に四人のお庭番達が膝を付いていた。
「其方等を呼んだのは他でもない。
嫁ぎに出た白美津の事だが」
ドクン、と一際大きく心臓が跳ねた。
「実はもう半年も前から白美津は行方知れずなのだ。
隣国でも四方八方手を調べ回ったそうなのだが、そこで分かった事実がある。
――あやつは、もう駄目じゃ」
床に付く両の拳が震えだす。
「白美津は、気が触れて金鉱山の神蓑になっておる」
山神は女神である。
神蓑とは、その女神が降り立つ寄り代の人間の事だ。
本来であれば、名誉あるお役目なのだが、金鉱山は呪いの地。呪い神の宿る女は、蓄えた強い呪いを撒き散らしながら山に死を近づけていくという。
「既に大社の力及ばぬまでに強い呪詛を吐きながら山を巡っているという。
白美津――いや、神蓑を討て。
心の臓を破り、悪しき連環を止めよ」
はっ、と答えると、お庭番達はすぐに引き下がっていった。
身体が、動かない。
はやく、さがらねば。
「野斗男……お前には酷な命令だと分かっておる」
国長の痛ましげな声が胸に刺さる。
「だが、もう他にどうしようもないのだ。後戻りはできぬ。
せめて、幼き頃より親子のようであったお前が、白美津の最期を看取ってくれ。
儂は、そうしたくともできぬ身なのだ」
「…………は」
俺は頭を下げたまま、国長に言った。
「お気遣い痛み入ります。
必ずや、俺の手で姫の……」
それ以上、言葉が続かなかった。
「期待しているぞ。野斗男」
俺は深々と頭を垂れて引き下がった。
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『とのお、とのお』
今宵夢に出てきたのは、十三の姫だった。
赤い唇が小さく開き、艶やかに俺に誘いをかける。
『待ちくたびれたぞ、とのお』
ああ姫、どうか待っていてください。
せめて俺の手で
――貴女の胸に、赤い椿を。
制限時間二時間で、お題は「たった一つの道」でした。
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