けいこの苦悩
昼食を終えた三人は、再び魚釣りを始めた。あきとが竿を投げ入れてしばらくすると、ボタンが一気に下に沈み竿が激しく曲がった。「よし、今だ上に引き上げろ。いいぞ、かかったぞ。いいか。落ち着いてそのまま引き上げたままにしろ。ようし、いいぞ。」と、父親は語気を強めた。あきとは、「う、うん。こらあ。あんまり動くな。」と、水中で動き回る魚と格闘していた。けいこはその時、ごくりと息を飲んだ。次の瞬間、ばしゃんと大きな水をはじく音と共に、一匹の大きな魚が顔を出した。父親は「よし、今だ。おもいきり引き上げろ。」と指示し、あきとは一気に竿を持ち上げた。すると、大きな魚が水面から浮き上がり、やがて土の上でぴちぴちと尾で地面を叩きつけながら動き回っていた。「やったあ。でかい。釣れたよ。」と、あきとはそれを見て、満面の笑みを浮かべて言った。「よっしゃ。でかした。」父親は、得意そうに針を外し尾びれを持ち上げ、あきとに言った。けいこもそばへ近寄り、「うわあ。結構大きいの釣れたね。あきとすごいよ。」と、弟の健闘を称えた。あきとは照れながら、「えへへ、やったよ。でも、この竿や餌も良かったんだよね。お父。」と、父親に言った。すると父親は、「そうだな。」と言い、しばらく間を置いて、思い出したかのように続けて「お父か・・・。いいなそれ。」と、こぼした。それで気づいたのか、あきとはさらに照れくさくなっていた。するとすぐさま、「ねえ、そういえば釣竿なくても魚、捕れるんでしょ。」と、あきとは父親に詰め寄った。父親は得意げに、「おう。捕れるぞ。やってみるか。」と言い、自分が履くズボンの裾をひざまで捲くり、ばしゃばしゃと川へ入っていった。そして獲物を追いかける父親の後姿は、まるで魚の尾びれが動くような動きをしていた。あまりうるさくするものだから、魚達は遠くへ行ってしまった様だ。水はとても澄んでいた。魚は当然のことながら、水の中を住み家としている。人間は、地上を住み家としている。当たり前だが、魚は地上では生きられなく、人間は水中では生きられない。水辺で人間などが騒ぎ出すと川の魚は一度、岩の陰などへ姿を隠す。そして静かになった頃、何事もなかったかのように再び泳ぎだす。「ねえ、お父さん。もうそれだけ大きい魚釣ったから、もう帰ろうよ。」と、けいこは言った。「お前は、お父さんか・・・。」と、それを聞くと同時に、自らの動きをぴたりと止めた。そしてその場でじっと、何かを考えるようにしばらく立ち止まった。父親は、二人に対して確かな手ごたえを実感していた。今までの出来事が一気に父親の脳裏に浮かび上がり、その目にはうっすらと涙が浮かんできた。父親はそれに気づかれぬよう、わざと水面に顔を近づけ急に顔をわざと洗い、ばしゃばしゃと何度も濡らした。子供達は一瞬、いったいどうしたのかと思ったが、その姿を見ているとなんとなく父親の気持ちが伝わるような気がした。やがて父親はすくっと起き上がり、「いやあ、冷たくて気持ちいいぞ。は。ははは。」と、何事もなかったかのように不自然に言った。二人は、「はやく魚、捕まえてよう。」「あきとが一匹釣ったから十分でしょ。もう、帰ろうよ。」と、それぞれ父親に言った。父親は顔を手ぬぐいで拭きながら、「それもそうだな。これだけの大きさ一匹あれば十分か。帰るとするか。」と、川から岸へと上がってきて言った。あきとは、「いやだよ。早く捕ってよう。」と父親に言ったが、「また来た時捕ってやるさ。ははは。」と、父親は上機嫌で言った。するとけいこは、あきとが釣った魚を持ち帰るために持ってきたバケツの中の土を、きゃあきゃあと言いながら、近くに草むらにそっと中身を空け、川のそばに行き水をくみ上げた。その中に父親が魚を押し込むように入れ、「いくらか狭いな。」と言い、続けて「さあ、帰ろう。あきと。」と、ふてくされているあきとの手を引いた。けいこは、裁縫箱やいろいろな道具を片付けようとしていた。裁縫箱は片付け終わり、後はペンチを風呂敷の中に戻さなくてはと思い、それを手に取りながらちかくにあった風呂敷の袖をそっと広げた。けいこはその瞬間、動きが止まった。
その風呂敷の中身は、工具を入れる木箱だった。それにはあの写真が貼ってあったため、けいこは顔を近づけ覗き込むようにして見ていた。すると、それに気づいた父親が近づいてきて「どうだ。なかなかよく撮れているだろう。」と、得意げに言った。けいこはきょとんとして、「え。これってお父さんが撮ったの。」と尋ねると、父親は「そうだ。」と言った。続けて、「お前らが生まれる前のお母さんだ。こっちは結婚した頃だな。」と、いくらか照れくさそうに言った。あきとは、まだふてくされていたが、相当気になるようでちらちら横目で見ていた。「へええ。なんかお母さん若い。私に似てる感じがする。」と、けいこは真剣にその二枚の写真を見つめていた。その様子を見て、父親は笑いながら「まあ、子供だからな。」と嬉しそうに言いながら、「さ。もういいだろ。片付けて帰るぞ。」と、風呂敷をまとめてそれを持ち、歩き出した。けいこは、あきとの手を取り裁縫箱を抱えながら後を追った。あきとは姉に渡された竿を肩にかけ、変わらずとぼとぼと歩き出した。
自宅に付く頃には、すでに日が傾き始めていた。いくらか冷たい風が吹くと、それに合わせて緑色の苗がさらさらと音をたてる。父親は道中、あきとに「さあ、みんなでこの魚を焼いて食うぞ。きっとうまいぞ。あきと、よく頑張ったな。」と、嬉しそうに声をかけた。あきとは、「うん。でも、今度は絶対お父が捕ってね。約束だよ。」と父親に念を押した。父親は、「なんだ、まだ心配してるのか。大丈夫だ。任せとけ。」と、笑顔で答えた。それを聞いたあきとは、ようやく機嫌を直し始めた。その時、「はっくしょい。」と、あきとは、くしゃみをした。「ははは。なんか寒くなってきた。」と父親に言った。父親は、「よし。家に着いたら、まず俺は風呂に入る。あきと、お前も一緒に入るか。」と、問いかけた。あきとは、鼻をこすりながら「うん。入る。早く入りてえ。」と、おどけて言った。その時後ろから、「私も・・・。」と、けいこが静かに言った。父親とあきとは驚いて、「え。お姉ちゃんも一緒に入るの。別にいいけど・・・。」とあきとは声を詰まらせた。父親は、ただけいこの方を見つめていた。するとけいこは、「はは。ははは。」と空を見上げて笑い出した。「あきと、一緒に入るわけないじゃない。ちょっと言ってみたかっただけよ。ははは。ああ、おかしい。」と、けいこは真に受けた弟をからかうように言った。父親は、ようやくあきとの機嫌が良くなってきたのに、ここでけいこの一言で台無しになるような気がしたので、「なんだ。俺も一緒に入って構わないと思っていたんだがなあ。まあ、いいや。あきと、家に着いたらすぐに湯を沸かしてくれよ。」と、あきとに笑顔で伝えた。あきとは下を向いていたが、やがて父親の顔を見て「うん。わかった。任せとけい。」と言い、「先に行ってるねえ。」と走って行った。けいこは、「いつもなら、私に何か言ってくるのに・・・。」と、少し意外な表情を浮かべて呟いた。父親は、口笛を吹きながらそんなやり取りを楽しそうに眺めていた。
家に着くと、あきとは父親に頼まれたように、風呂の準備を進めていた。やがて父親達の姿に気づき、「あ、お父。もうちょっとで入れるよ。」と言ってきた。父親は、「ようし。構いやしねえ。入るぞ。あきと。」と、風呂場へと向かった。あきとは、「え。だからまだだって。」と言いながら、その後ろを着いていった。そうだ、けいこに一言伝えておくかと思った父親は、くるりと振り返り「おおい、けいこ。お前は、魚焼く準備をしておいてくれ。」と叫んだ。けいこは笑顔で「わかりましたあ。」と、やけに素直に答えた。父親はその返事を聞くと、満面の笑みを浮かべて「よし、あきと。かかってこい。」と素っ裸になり、あきとの胸を自分の掌で、ぐいぐい押した。あきとは意気込んで「よおし。いくよ。」と、父親の腹部目掛けて向かっていった。父親は「どうした、そんなものか。ほら、どうした。」と、あきとを煽った。するとあきとは、これでもかと必死に父親の腹の辺り押した。しかし父親は、全然ぴくりとも動かない。あきとはおかしいなと思いつつも、さらに自分の力を出せる限り向かっていった。すると父親は、「お。そうだ。いいぞ。もっと押せ。」と、顔を真っ赤にしているあきとに言った。しかし、そうは言ってもあきとの力では長続きせず、「はあはあ。もうだめ。」と、風呂場の床に大の字で寝転んだ。父親は、「ま、まだまだ負けないぞ。ははは。」と、かろうじて言った。それを悟られないように父親は「よし、もういいだろう。入るぞ。」と、浴槽にさっと跳び込んだ。それを見たあきとも、やがてゆっくり起き上がり、父親の真似をするように浴槽へ入った。湯は少しひんやりするが、寒くはなかった。あきとは、心の中で父親を賞賛した。
二人が風呂から出てくると、あらかた食事の準備が整っていたが、魚はまだ焼かないで置いてあった。「じゃあ、私も入ってくるね。」とけいこは、風呂場へと向かった。「あれ、お姉ちゃん。これから魚みんなで焼くんだよ。」と、あきとが言ったが「ううん。私はいいや。入ってきちゃうね・・・。」と、風呂場へと向かっていった。父親達は、どこか悲しそうな表情であったけいこに対して、一瞬気になったが「まあ、いいだろう。おれ達で進めよう。」と父親はあきとに言った。そうだね、と二人は魚の準備に取り掛かることにした。それにしても、あの姉の表情が気になる。あきとは、なんだか不安に思って父親に「なんか、お姉ちゃんの様子。おかしいよね。」と尋ねた。しかし父親は、「お姉ちゃんか。大丈夫だよ。疲れたんだろ。」と、あまり相手にしないといった様子で、どんどん魚を捌いていった。「なあんか、おかしいような気がするんだよねえ。」とあきとは言いながら、皿の準備や捌いた魚に塩を振ったり自分の仕事をこなしていたが、あの姉の横顔が妙に気になっていた。やがて魚を焼ける段階となり、父親は「いいか、最初は強火で焼き目をつけるんだ。」と、あきとに言った。あきとは、「どっちから焼くの。」と父親に尋ねると、「好きなほうでいいぞ。」と言った。あきとは、少し考えた。いつも父親が焼いた魚がおいしいのは、魚の皮がぱりっとした食感であったことだと思い出した。そのため、「わかった。じゃあ、皮がついたほうから焼いてみる。」と、魚の切り身をフライパンへ入れた。父親は「よし。おれと一緒だ。」あきとの頭を撫でながら言った。こうして焼き目が付いたらひっくり返し、今度は弱火で蓋をしてしばらく焼いたら出来上がり、という一連の魚の焼き方をあきとは覚え、さらに実践することが出来るようになった。「うわあ。うまそう。」と、焼きあがった魚をそれぞれの皿に盛り付けている父親の横から、あきとは目を輝かせて言った。「ははは。いい焼き上がりだ。合格だ。」と、父親は嬉しそうに言った。
そしてしばらくすると、けいこが風呂から出てきた。やがて三人は、それぞれの座席で食事を始めた。最初は、昼間の話をして最近のように団欒といった様子であったが、けいこが焼き魚を食べ始めてしばらくすると、その箸を静かに置いた。あきとは先ほどから姉を心配していたのもあり、「どうしたの、お姉ちゃん。」と、一言尋ねた。するとけいこは、ややうつむき「ううん、なんでもないの。」と答えた。次の瞬間、けいこは食器を片付け始めた。それを見て父親が、「どうした。気分でも悪いのか。」と尋ね、けいこの頬を手の甲で触れたり手首を軽く掴んでみたが、顔色が幾分良くない他は特別大したことはないと判断した。ただその時、父親とあきとは、姉の今日の一日のことを思い出していた。そしてよく考えてみると、姉は釣りにはあまり興味が向かないようだったことや、川にいる時もいつもより静かであったことを思い出した。すると今度はあきとも、「ぼくも、もうごちそうさま。」と静かに言った。そして続けて、「お母さんは今頃、どこにいるんだろう。川から海へと行っちゃったのかなあ。」と寂しそうに、泣きそうなのを堪えつつ呟いた。父親はこれを聞き、やはりと思う他なかった。母親が生前、大好きだった川。そこで母親の骨を流した。きっとそのことが今回の釣りに対して、けいこの気分が進まなかった大部分を占めているのであろうと。このけいこの表情は今までとは全く違う、深刻なものだ。しかし、だからといって、ここで子供達の悲しみに共に付き合うのでは、自分がここへ来た意味がない。父親はこの時初めて、けいこの苦悩に立ち向かう必要があることに気づいたのであった。
あの川で釣った魚を目の前にして、けいこは食事をやめた。その苦悩に父親が立ち向かう。子供達に、きちんと現実を見つめる術を伝えることが必要と決断した。次回、最終話。その笑顔、きっと届く。お楽しみに。(次回で、いよいよ最終話となります。)




