一枚の紙切れ
「誰にも譲れないもの」。そう聞いて、今現在あるという人、そうでない人、または何だそれは、などと、人はそれぞれいろいろ考えることと思う。あるという人で例えるなら、それは肉親であったり、恋人、友人など、自分にとって大切な人のことを挙げる人もいるだろう。またある人は、金や物、地位、さらに名誉や自分自身の顔や身長、性格といった個人の持つ特徴を主張する人もいるだろう。さらには、何それわかんないと、とりあえず言ってみた人であっても、よく尋ねるなら、それはつまり個人の持つプライドのことでしょう、と素直に答える人もいると思う。いずれにせよ、それらは私にとってこの小説を書こうと思った原点に繋がる。それは、今現在の生活の中、個人にとってまさに、そこを主張する力が薄れているように感じられるからである。その人本来ある、素直な気持ち、またはプライドが実は何かの力によって後回しせざるを得ない状況になってしまったのではないだろうか、と思ったからである。このように、もしそのようであるならばという思いが強く出てきたため、今回執筆に至った次第である。では、このままだと小説に入らず一つの論文になってしまう可能性が出てきたため、そろそろ本編(短編小説)を始めていこうと思う。
夕暮れ時、けいこは一人歩いていた。稲刈りを終えたトラクターは、がたがたと音をたてながら車庫を目指していた。山から差し込む夕日に、反射したオレンジ色の水たまり。ぱたぱたと音が聞こえそうなほど、大きな羽をしたトンボ達。しんしんと流れる川のそばでは、りんりんと鳴くコオロギ達。けいこはそれらと、まるで会話をしているかのように時々笑ったり、おどけたりしながら家路に着いた。家のドアを開ける頃には、すでに辺りは薄暗くなっていた。「ただいま。」といつも通り、比較的大きな声で家の中に入っていった。しかし、いつもは聞こえてくるはずなのに、いつまでたっても母親の「おかえり」の声がしない。もう一度言うのもなんだし、とりあえず家の中に入ろう、と靴を脱いで廊下を歩いた。すると、まだかすかに夕日が差し込む居間で、弟のあきとがうつむいて座っていた。けいこは「何よ、あき。いるなら返事くらい・・・」と言いかけたとこで、異変に気づかざるを得なかった。弟のあきとは、すすり泣いていた。けいこは弟が泣いている向こうに、畳の上の布団に白い布を顔に被せ、仰向けに横たわっている何かをみつけた。それが、母親であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。けいこのひざは、自分でも知らぬ間にがくがくと震えだし、終いには全身に伝わっていった。弟に何か問いかけようにも、声がほとんどでない。「あ、あ、あ・・・」と。口ががたがたしながら、ペタンと空気が抜けたタイヤのようにその場に座り込んでしまった。かすかな夕日に照らされた一粒の涙が、畳の上で跳ね返ったように思えた。その夜二人は、母親の名を大声で叫び続けたのだった。
母が亡くなるという突然の出来事で、近所に住む普段あまり付き合いのない人達が集まり、皆一見真剣そうな会話をしながらも、その子供を横目に見やりながら、その中の一人がけいことあきとに、「葬式をしないとは、何あほな事を言っているんだい、あんたらは。」と、右の眉毛をひくひくさせながら、ある年配の女性が二人に言った。二人はその言葉を聞き、いったんそれぞれ顔を見合わせたが再び下を向いて黙った。しばらくすると、姉のけいこがうつむいたまま、「骨は川へ。骨は川へ・・・。」と小声で繰り返していた。それを横目で見ていた弟のあきとも、姉の様を真似ながらぼそぼそと「骨は・・・。」と言った。すると、その近所のある人が、「この辺りでは、死んだ人は土の中に埋めることになっているから、それは無理な話だよ。」と諭すように言った。しかしそれでも二人は、その言葉をまるで呪文を唱えるかのようにぼそぼそと、ただただ繰り返すだけであった。
結局、二人の意見が通じたのか、それを見ていた近所の人達が折れたのかどうか定かではないが、母の遺骨は川へ流すことになった。その当日、けいこ、あきと、おじ夫婦の四人以外、誰も参列者はいなかった。けいことあきと二人は、「せーの」と同時に橋の上から両手をかざした。小さな掌の上にあった母親の遺骨は自然に吹く風によって、次第にきらきらと形を残さず消えていった。その様子を見て、おじ達は二人に、「また近いうちにいくから。」と言い残し、その場からさっさと立ち去って行った。残された二人は、しばらくその場で立ちすくんでいた。どのくらいそうしていただろう。気づくと、陽はすでに暮れようとしていた。それはまるで先日、けいこがトンボ達と戯れながら帰宅した時を思い出すような情景だった。それにとっさに気づいてしまったけいこは、慌ててあきとに「あき、これからどうしようか。」と、自らの思いをかき消すかのように言った。弟のあきとは、つま先をとんとんと打ちつけながら、「お母さんは、この川が好きだったよね。お姉ちゃん。」と、突然言い出した。けいこは、あきとに聞いても仕方ないかといった表情で、少し下を向いておし黙っていた。するとあきとは、にこっと笑いながら一人でこう続けた。「夏休みにさ、三人で魚とりに行ったね。あの時、お姉ちゃんはころんでびしょ濡れになったんだよね。」と、けたけた笑いながら、けいこに問いかけた。けいこは、「ねえ、あき。聞いてるの。本当にどうしようか。おじさんの家に行こうか。」と、苛立ちと焦りを少し抑えながら口早に言った。するとあきとは今までの笑顔から一転して、「僕はおうちがいい。」と静かに呟いた。それを聞いたけいこは、なんだかすとんと急に胸が軽くなったよう気がした。あきとは続けて、「お姉ちゃんは、どうしたいの。」と尋ねた。するとけいこは、「お姉ちゃんもその方がいいと思ってた。」と、笑顔で弟に答えた。あきとは、自分と同じ気持ちでいた姉に対してうれしく思い、その手をそっと握った。けいこも、それに答えるかのように、優しく弟の手を握り返した。そして二人はそのまま手をつなぎながら、時には前後に大きく揺らして家路を急いだ。二人で生きていくんだ。そう、お互いが心に決めた瞬間だった。幼い二人にとっては、とてつもなく大きな問題だった。しかし、心のどこかで大丈夫と二人は少しだけ思えてきた。そして気づけば、辺りは急に暗くなっていた。
それからしばらくは、姉であるけいこが幼いながらも、炊事、洗濯、掃除をこなした。いや、こなしたというよりか、こなさなければならない状態だった。そして今日、掃除をしている時のことだった。何気なくたんすの戸をけいこがあけた時、偶然にも一枚の白い封筒を見つけたのだった。そこには、「けいこ、あきとへ。」と書いてあった。それを見てけいこは、一瞬うれしくて飛び跳ねそうな気持ちを抑えつつ、返って恐る恐るその中身を広げてみた。すると封筒の中には、母親の見慣れた文字でこう書いてあった。「二人がこの手紙を読んでいる時には、おそらくお母さんはいなくなった後でしょう。寂しい(さび)思いをさせてしまってごめんね。これから大切なことを書いておくからよく読んでね。まず、けいこへ。あきとの面倒をよくみてやってね。けいこは、お姉ちゃんだからきっと大丈夫。大変な時でも、けいこならきっと幸せにあきとと暮らして行ける。あきとへ。お姉ちゃんの言うことをよく聞いてね。あきとは男の子だから、大きくなったらお姉ちゃんを支えていってね。二人とも、元気でいてね。いつまでも、めそめそしないでね。お母さんは、いつでも二人を見守っているからね。それから、土間のくぼみをあとで見てね。家の貯金と、二人への贈り物が入っているよ。最後に・・・。」と、ここまで読んでいると、その下はけいことあきとの涙でぐしょ濡れになってしまっていた。なんだかお母さんが今ここにいるかのように問いかける、その文字一つ一つがなんとも言えず、たまらなかった。
その手紙を読んでから、さらにけいこは毎日頑張った。朝は四時半には起きて家事一切をこなしていた。夜は、二人とも九時前には床に就いた。そして週末は、幼い子供達を一応心配しているということから、母方の兄とその嫁が家に来る。しかし、けいことあきとは昔からよく思ってはいないこともあり、息苦しく感じながら生活していた。何故二人がそう感じていたかというと、その母親の兄と嫁が来る時は、夕飯の支度は兄嫁が作るため必要ないのだが、その夕飯の後に兄の酒盛が始まる。それは夜10時を過ぎても落ち着かず、子供達にしてみれば夜中まで酒を呑み、あれやこれやと会話をしているのが大人なのかと、いささかがっかりした気持ちを思い出していたからだ。ただその親戚が来ることによって二人には、金銭的な余裕は少し生まれたが、逆に変な疲労が残った。けいこ達は、仕方なく考える他なかった。
昨夜は夜中の12時頃まで、大人達の話声がけいこの耳には聞こえていた。あきとはその間、ぐうぐうと寝息をたてながら始終眠っていた。けいこは突如、明日は6時まで寝ていようと思い、目覚まし時計の針をセットしなおした。しかし、結局一旦6時に起こされたもののあまりの眠さから、なんだかんだ7時頃まで眠ってしまっていた。しかしけいこは再び、はっとして時計を見た。すると、とっくに7時を回っていたので、慌てて飛び起きた。大人たちはまだ寝ているのか、家の中はしんとしていた。洗面所で顔を洗ってから、足早に台所に向かった。するとそこには、長い髪をゆらゆらしながら後ろ向きに立つ女性がいた。そしてその女性が、けいこに気づくとゆっくり振り返りながら、「おはよう。」と言った。けいこは聞き慣れた声と、そのうしろ姿にすぐさま反応した。「お母さん。」けいこは、まさかと思いながらも必死に目を何回も擦り、さらにはその立っているお母さんめがけ、もうすがりつくような思いで流台まで全力で走った。あと少し。もう少しで、あの母の温もりに辿りつける・・・。その一歩手前で、ふっと瞬時に跡形もなく消えてしまった。そしてそこに残っていたのは、母の確かな残り香のみだった。けいこは、「お母さん、お母さん。」と何度も呼んだが、それきり何も起こらなかった。その騒ぎを聞きつけ、おばがやってきた。「いったいどうしたんだい。」と、いかにも不機嫌そうなおばが、けいこに言った。けいこは、目を丸く見開いたまま、「い、今、お母さんがいた。」と、いささか興奮気味に伝えた。おばは、「お母さんだって。夢でもみてたのかい。朝ごはんは私が作るから、もう少し寝てらっしゃい。」と、半分呆れたように言った。けいこは、夢でも見てたのかと自分自身に問いかけた。しかし、顔を洗った時に拭ききれなかった水が、まだ首元で濡れている。このことから、「これは、夢なんかじゃない。」と、心の中で一人確信していた。そしてこの出来事は、これからの不思議な日々の始まりであった。
けいこはそれから度々、母を感じることが出来た。ある日は、誰もいない自宅に着き玄関を開けた時、あのいつもの香りがした。それだけでも、幸せな気持ちになれた。「ただいまあ。」とその目には、うっすらと涙を浮かばせながら、無理に元気よく、声を張り上げてみたりした。しばらくすると、「ただいまあ。」と元気よく、弟のあきとが帰ってきた。返事がないのであきとは、台所で食事の準備をしている姉のそばまで行き、もう一度大声で言った。するとけいこは、弟に気づかれぬよう涙をぬぐいながら笑顔で「おかえり。」と静かに言った。あきとは、「・・・。お姉ちゃん。」と、一瞬、いつもと雰囲気が違う姉を感じ取ったが、すぐさま続けて、「そういえばお姉ちゃん。お母さんの言っていた贈り物ってなんだろうね。」と、首をかしげて、右手をあごの下で握りながら言った。それを聞いたけいこは、はっとして、「そうだ。忘れてた。」と、洗っていた食器を無造作に台所のシンクへ投げ入れ、慌てて水道の蛇口をひねり、それと同時に土間に向かって小走りで行ってしまった。あきとも、すぐに後を追いかけた。土間の隅に大きな柱があり、その横には野菜や米など食料を保管しておくためのくぼみがある。その中にあった古いつぼを見つけるとけいこは、預金通帳と印鑑、一枚の紙切れを取り出した。紙切れには、なにやら漢字で名前が書かれていることは二人とも理解できたが、果たしてそれが誰なのかまったく検討がつかなかった。二人とも、なんだかがっかりした様子でどっと疲れてしまい、言葉少なに「今度、おじさん達が来たら聞いてみようか。」と言った。「贈り物、楽しみにしてたのに・・・。」と、あきとは今にも泣き出しそうだった。それを見てけいこは、自分もがっかりしてはいたけれど気を取り直して、「さ、あき。ごはん食べよっか。」と、あきとの手を引いた。少しぐずぐず言っていたあきとは、姉に手を引かれながらも、しぶしぶと台所へ戻った。しかし、改めて食卓を覗き込んだあきとの表情は、それまでとは一変した。その日の夕食は、いつもより豪華であった。姉のけいこは、母親をよく助ける子供であったのでほぼ毎日、一緒に食事の準備をしていた。そのため一通りの献立はもちろんのこと、少し手の込んだおかずも作れるようになっていた。本日の献立は、ミートスパゲティー、鶏肉のソテー、みず菜のサラダであった。あきとは、先ほどまでとは打って変わった様子でにこにこしながら、「ね、ね。お姉ちゃん。もう食べていい。」と、姉に尋ねたと思いきや、ほぼ同時にフォークに巻きつけていた大人の口でちょうど一口分くらいを、小さな口へ押し込むように食べ始めた。けいこは、そうした弟の様子を見ていたら、なんだか可笑しくなり、試しに自分も同じような食べ方を真似てみた。すると、あきとはむっとした表情で「真似しないでよ。」と、言おうと思った。しかし、もうすでに口にはいっぱいのスパゲティーが詰め込まれていたので、実際には、「まにぇしゅにゃいべよ。」と、なんだかはっきりしない発音をした。それを聞いたとたん、けいこは、いよいよ笑いを堪えきれなくなり、「きゃはははは。」と、声を出して笑った。一度笑い出したけいこは、その後あきとが何を言っても可笑しくなり笑い続けた。あきとは、最初は笑われてむっとしていたが、姉が久しぶりに笑っている姿を横目でみていると、なんだか自分も徐々にうれしくなってきた。そしてそのうち姉と一緒に、近所に響くほど笑いあった。
翌朝、おじ達がいつものように歩いてやってきた。おじ達の家は、けいこ達のところからさほど遠くないところにあるのだが、子供達が歩いていくには少し距離がある場所に住んでいた。共に家の中に入り、お茶を用意するために台所に向かう途中で、けいこは思い出した。すると、仏壇に置いてある母からの紙切れを手に取り、「この紙切れがあったんだけど・・・。」と、けいこはおじにそれを手渡しながら言った。おじは、どれどれと言いながらそれを見た。するとおじは、一瞬「あっ。」と思わず、声をもらした。けいこは首を傾げて、あきとも近くに寄ってきた。二人は不思議そうな表情を浮かべながら、おじの顔を見つめていると、おじは、ふうと一息ついた後に、「この名前は、お前達のお父さんだ。」と、こちらを注目している二人に告げようとした。しかし、実際におじから出てきた次の言葉は、「さあ、誰なんだろうね。」と、落ち着かない様子で答えた。それを見ていたおばも、おじの様子を察しその紙切れを覗き込み首を傾げて、「知らないなあ。心当たりもないし・・・。」と、大人二人は嘘をついた。それを聞いていた、けいことあきとは、母がくれた贈り物の意味がますますわからなくなっていた。あきとは、おじ達に、「ねえ、この字はなんて読むの。」と尋ねた。するとおじは、少し渋ったような声でこう言った。「総重 勝巳。」すると、あきとは、「そうじゅうだって。変な名前。」と姉に言った。けいこは、「人の名前を変とか言っちゃだめだよ。あきとがもし言われたら嫌でしょ。」と尋ねるとあきとは、「うん、わかった。もう言わない。」と、舌を少し出した後言った。その様子を見たけいこは、「この辺りでは、聞かない苗字だね。」と、大人二人に問いかけた。おじ達は、ううんと言いながらあいまいな返事をした。けいこは、もうこれ以上この人達と話をしても何も情報は得られそうにないと思ったのか、「うん。ありがとう。」と礼を言い、続けて「これからは、困ったことがあったら相談します。だから、毎週は来なくて大丈夫ですから。」と、真剣な表情で伝えた。おじ達は、なんだかいたたまれない気持ちになり、けいこの申し出を受け入れた。そして、お茶を飲み終えた後、大人二人は肩を並べて自宅へ帰っていった。
母からの贈り物が、今後二人にどのような事をもたらすのだろうか・・・。次回、「贈り物と二人の子供達。」お楽しみに。




