お迎えまで、あと三分
男が目を覚ますと、天使がいた。
金色の髪に、白い翼。頭の上には淡く光る輪が浮かんでいる。夜明け前の空を背に、彼女は男を覗き込んでいた。
「……誰?」
「天使です」
「そうか」
「驚かないんですね」
「この状況だからな」
男は壁にもたれたまま、自分の身体を見下ろした。服は破れ、血が滲んでいる。少し離れた道路には、壊れた車が止まっていた。
記憶が戻ってくる。道路へ飛び出した子どもと、迫ってきた車。身体が勝手に動いた。そこから先は覚えていない。
「俺、死ぬの?」
「はい」
天使は小さな帳簿を確認した。
「あと三分です」
「ずいぶん正確だな」
「仕事なので」
男は目を閉じかけて、ふと思い出した。
「あの子は?」
「え?」
「俺の近くに、子どもがいただろ」
天使は帳簿を確認した。
「……生きてます」
男は大きく息を吐いた。
「そっか」
天使が男を見た。
「自分は死ぬんですよ?」
「ああ」
「怖くないんですか?」
「怖いよ」
男は少し黙った。
「あのときは、考える暇なんかなかった」
「……え?」
「気づいたら飛び出してた」
壊れた車へ目を向けた。
「死ぬって分かってたら、できなかったかもしれない」
天使は黙って男を見ていた。
「でも」
男は小さく息を吐いた。
「後悔はない」
天使は帳簿に目を落とした。
残り一分。三十秒。十秒。
三、二、一。
――ゼロ。
男は目を閉じた。
◇
しばらくして、男が目を開けた。
「……死なないぞ」
「お迎えを保留しました」
「は?」
「五分だけ」
男は天使を見た。
「そんなことできるの?」
「担当者には、少しだけ猶予が認められています」
「何のために?」
「本人確認や、引き継ぎに問題があった場合などです」
「俺、問題あった?」
「ありません」
「じゃあなんで?」
天使は帳簿を閉じた。
「……なんとなくです」
「職権乱用じゃない?」
「五分くらいなら大丈夫です」
「本当に?」
「たぶん」
「新人?」
「はい」
「だと思った」
天使は少しむっとした。男は笑った。
◇
五分が過ぎた。
「……まだ死なないぞ」
「一時間、保留しました」
「おい」
「はい」
「五分くらいならって言ったよな?」
「言いました」
「一時間になってるぞ」
「はい」
「大丈夫なの?」
「たぶん」
「便利だな、その言葉」
男は空を見上げた。夜が終わろうとしていた。
「まあいいか」
「いいんですか?」
「一時間あるなら、朝日くらい見られる」
天使も空を見た。東の空が、ゆっくり赤くなっていく。
「綺麗ですね」
「ああ」
二人はしばらく黙っていた。やがて、男が訊いた。
「お前、名前は?」
「ありません」
「ないの?」
「必要ないので」
「不便じゃない?」
「天使なので」
「便利だな、天使」
「便利です」
男は笑った。そのまま、二人で朝日を見た。
◇
一時間後、男はまだ生きていた。
「……今度は?」
「一日です」
「一日?」
「はい」
「なんで?」
天使は少し考えた。
「話の途中だったので」
「何の?」
「名前の話です」
「もう終わっただろ」
「終わってません」
「お前、名前ないんだろ?」
「だからです」
男は首を傾げた。
「じゃあ、つける?」
天使の目が少しだけ輝いた。
「つけられるんですか?」
「適当でいいなら」
「適当は嫌です」
「注文多いな」
「一日ありますから」
男は笑った。
「俺の最後の一日、それに使うの?」
「嫌ですか?」
男は天使を見た。
「……別に」
「じゃあ決まりです」
天使は少し嬉しそうに笑った。
◇
男は病院へ運ばれた。
本来なら助からないほどの傷だった。治療を受け、どうにか意識を保っていたが、彼の死が取り消されたわけではない。天使がしているのは、あくまで魂の回収を保留することだった。
そして翌朝、天使が病室に現れた。
「おはようございます」
「……また来た」
「仕事です」
「迎えに?」
「はい」
「昨日からずっと迎えに来てるけど」
「少し難航しています」
「お前が難航させてるんだろ」
天使は黙った。男は笑った。
「で、今日は?」
「一週間です」
男の笑顔が消えた。
「それ、絶対怒られるやつだろ」
「まだ怒られてません」
「まだ、って言ったな」
「気のせいです」
「嘘下手だな」
「天使は嘘をつきません」
「今ついただろ」
天使は窓の外を向いた。
◇
それから、天使は毎朝やってきた。
「おはようございます」
「今日も来たの?」
「仕事です」
「もう仕事じゃないだろ」
「仕事です」
「名前は?」
「まだです」
「候補はある」
「嫌です」
「まだ言ってない」
「顔で分かります」
「天使って読心できるの?」
「できません」
「じゃあ顔で分かるって何だよ」
「毎日見てますから」
男は一瞬だけ黙った。天使も、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
「……何ですか」
「別に」
「笑わないでください」
「笑ってない」
「笑ってます」
そんな会話をして、昼になると天使は帰った。次の朝になると、また来た。
男はいつの間にか、朝が来るのを待つようになっていた。
◇
ある日、男が訊いた。
「なあ」
「はい?」
「最初はなんで保留したの?」
天使の手が止まった。
「なんとなくです」
「まだそれで通すの?」
「はい」
「じゃあ、一時間にしたのは?」
「朝日を見ると言ったからです」
「一日は?」
「名前の話が途中だったので」
「一週間は?」
天使は答えなかった。
「何?」
「……名前が、まだ決まってなかったので」
男は笑った。
「ずいぶん便利な名前だな」
「何がです?」
「決まらなければ、ずっと迎えに来られる」
天使が男を見た。男も彼女を見た。
少しだけ沈黙が続いたあと、天使は目を逸らした。
「早く決めてください」
「嫌だね」
「どうして?」
「決まったら、お前来なくなるかもしれないから」
今度は、天使が黙る番だった。
◇
その翌朝、天使は「おはようございます」と言わなかった。
男はすぐに気づいた。
「怒られた?」
天使が驚いた。
「どうして分かるんです?」
「毎日見てるから」
天使は少しだけ笑って、帳簿を開いた。
男の名前。その横に、文字が浮かんでいた。
《回収保留期限 残り一日》
「もう、保留できません」
「そっか」
「昨日、呼び出されました」
「怒られた?」
「すごく」
「だろうな」
「本来、こんな使い方をするものじゃないそうです」
「そりゃそうだ」
「次に保留したら、あなたの担当を外されます」
男は窓の外を見た。
「それは困るな」
「どうして?」
「最後に知らない天使が来たら嫌だろ」
天使は何も言えなかった。
◇
最後の日、二人は最初に出会った場所へ戻った。
夜明け前。男は壁にもたれて座っていた。隣には天使がいた。
最初の日と同じだった。違うのは、二人の間に流れた時間だけだった。
「あと何分?」
「三分です」
男が笑った。
「最初と同じだな」
「はい」
天使は帳簿を抱えていた。
三分。いつものように《回収保留》を選べばいい。
指が動き、途中で止まった。
男がそれを見た。
「今日は保留しないのか」
「……はい」
「どうして?」
天使は帳簿を強く抱いた。
「保留したら」
声が震えた。
「また明日も、保留したくなるので」
男は何も言わなかった。
残り二分。朝日が昇り始めた。
「綺麗だな」
男が言った。
「はい」
「最初の日も、こんな空だった?」
「こんな空でした」
「覚えてないな」
「私は覚えてます」
「さすが天使」
天使は朝日を見たまま言った。
「天使は関係ないです」
男は彼女を見て、少しだけ笑った。
残り一分。
「結局、名前決まらなかったな」
「はい」
「悪い」
「いいです」
「欲しかったんじゃないの?」
天使は少し考えた。
「もう、いいんです」
「なんで?」
「あなたが」
言葉が止まった。
「何?」
「……何でもありません」
男はそれ以上聞かなかった。
残り三十秒。男はゆっくり手を伸ばし、天使の頭に触れた。
「ありがとう」
天使が顔を上げた。
「何がですか」
「最初の五分」
「……はい」
「一時間も」
「はい」
「一日も」
「はい」
「全部」
天使の目に涙が溜まった。
「仕事です」
男は笑った。
「保留するのも?」
天使は答えなかった。
残り十秒。
「まだ、話したいことがあります」
「ああ」
「聞いてほしいことも」
「ああ」
「明日も来たいです」
男は天使を見た。
「俺も」
天使の目から涙が落ちた。
五秒。四秒。三秒。
男は目を閉じた。
「楽しかったよ」
二秒。一秒。
「じゃあな」
――ゼロ。
男の手が、ゆっくり落ちた。
◇
朝日が昇った。天使は、男の隣に座ったままだった。
「……おはようございます」
返事はない。
「朝ですよ」
返事はない。
分かっていた。彼女は天使だった。この瞬間のために、最初からここへ来た。
それでも、立ち上がれなかった。
やがて、腕の中の帳簿が淡く光った。男の名前の横に、新しい文字が現れた。
《迎え完了》
天使はそれを見つめた。そして、泣きながら小さく笑った。
「……全然」
帳簿を閉じた。
「完了してません」




