感動巨変
毎日、同じ時間の満員電車に揺られ、同じ工場のラインに立ち、同じ作業を繰り返す。
昼になれば同じ仕出し弁当を食し、夜は狭いアパートのベッドにただ倒れ込む。
そんな反復運動の日常を貪るだけの男がいた。
彼には親しい友人もなく、休日に打ち込める趣味もない。
ただ漫然と息をして、寿命をすり減らすだけの灰色の人生だった。
ある日のこと。
男はふと立ち寄った古書店で、辞書のように厚い冒険譚を手に取った。
何の気なしにページをめくった彼は、そこに連なる言葉の数々を見て、雷に打たれたような衝撃を受けた。
他者の人生が、感情が、これほど鮮烈に紙の上に定着するものなのか。
「俺も、すごい本を書きたい」
それは彼にとって、人生で初めて芽生えた熱狂であり、同時に妄念とも言えるものだった。
彩りのない人生を反転させ、万人の魂を震わせる感動巨編を紡ぎ出すにはどうすればいいか。
男は珍しく真面目に考えた。
そして、一つの極端な結論に行き着く。
何よりもまず、自分自身が波乱万丈の渦へ身を投じなければならないと。
部屋にこもり、想像の翼を広げるだけでは、妄想の垂れ流し。
真の感動は、真の体験からしか生まれない。
そう確信した彼は、贅沢せずにコツコツと貯め込んできた財産を投げ打ち、前人未到の領域へ足を踏み入れる無謀な決意を固めたのである。
男の行動力は、狂気と紙一重だった。
最初に挑んだのは、太陽の光すら届かぬ深い海溝だった。
大金をはたいて研究用の小型潜水艇に便乗し、暗黒の中へ潜航していく。
アクリル窓の向こうは完全な漆黒であり、海底に近付くにつれて、潜水艇は水圧で恐ろしい軋み声を上げた。
船体にわずかな亀裂でも走れば、即座に肉体はペシャンコに潰される。
その圧倒的な死の恐怖と直面しながら、男は震える手でメモ帳を握りしめた。
次いで彼は、酸素の希薄な峻厳たる高峰へ挑んだ。
プロの登山家ですら命を落とす雪山である。
鋭利な風が吹き荒れ、まつ毛も鼻水も瞬時に凍りつく極寒の世界。
足を踏み外せば千尋の谷底へ滑落する氷壁にへばりつき、低酸素症に陥りながら、彼は凍てつく大空の懐に抱かれ鮮烈な幻覚を見た。
男の渇望は地球に留まらない。
借金を重ねて手に入れたのは、民間宇宙飛行のチケットである。
ついには重力の鎖を断ち切り、広大な宇宙空間へと飛び立ったのだ。
どこまでも続く音のない世界。
青く輝く美しい地球を見下ろしながら、彼は無重力空間の孤独さえも味わい尽くした。
数多の危機を乗り越え、肉体の限界を凌駕した冒険の果てに、男の脳裏には筆舌に尽くしがたい絶景と、心を揺さぶる根源的な情動が深く刻み込まれていた。
これほど過酷で美しい体験をした者は、歴史上のいかなる文豪の中にもまずいないはず。
彼の心は、自らが手にした特異な体験への絶対的な自負で満ちていた。
生還を果たした男は、満を持して机に向かう。
目の前には真新しい原稿用紙の束。
自らの内に広がる荘厳な記憶を、崇高な言葉の織物として紡ぎ出す歓喜の時だ。
男は勇む手で万年筆を握り、深海での底知れぬ恐怖、雪山での絶望と生への執着、そして宇宙で地球を眺めた際の神聖な感情を文字に起こし始めた。
ここで、致命的な欠陥を露呈する。
彼には、己の体験を言語化し、情緒豊かに表現するための語彙力が、絶望的なまでに欠落していたのである。
何日も徹夜をして書き上げられた渾身の原稿には、こう記されていた。
「海の底はすごく暗く、水につぶされそうで、マジでやばいと思った」
「山の上は寒くて、空気がなくて、めちゃくちゃ苦しかった」
「宇宙に行った。星がチカチカして、青い地球はとてもきれいだ」
深淵なる孤独も、死の淵を覗いた哲学的な気付きも、彼の手にかかれば原色で塗りたくられた子供の絵日記となってしまう。
本来ならば、書き上げた文章を読み返した時点で、あまりの稚拙さに頭を抱え、絶望するはずである。
しかし、この男は違った。
自分の書いた「やばいと思った」という一文を読むと、脳内に、あの深海での不気味な音と冷や汗がフラッシュバックし、不足している情緒を自然に補完してしまうのだ。
「なんて素晴らしい文章だ。読み返すたびに、あの時の感動がそのまま蘇ってくる」
彼は文章の拙さにまったく気付かず、高揚感とともに、血と汗の結晶である原稿を、自費出版で堂々と世に放った。
魂の詩たる著作は、文壇から当然のごとく黙殺された。
批評家たちは一瞥もくれず、世間でも話題にされなかった。
だが、数か月が経ち、事態は思わぬ方向へ転がり始める。
男は本の巻末に、冒険の記録写真や映像が見られるQRコードを添付していたのだ。
深海で水圧に怯えながら蒼白になっている顔、猛吹雪の中で凍傷になりながら撮った悲壮なセルフィー、正真正銘の無重力空間を漂う映像。
嘘偽りない命懸けのスペクタクル映像と、本編のあまりにも気の抜けたテキスト。
この両者の間に横たわる銀河のような落差に目を付けた一人の読者が、インターネットのSNSでそれを紹介したのである。
『この本、映像はガチの死闘で凄まじいのに、文章が子供のイヤイヤ書いた作文レベルで腹ちぎれそう』
その投稿をきっかけに、大衆の抱腹絶倒を誘ったのだ。
命懸けのスペクタクルが、彼の貧相な語彙を通ることで、極上のシュール・コメディへ変換される錬金術。
「やばいと思いました、じゃないよ! 死にかけてるじゃん!」
「星がチカチカしてきれいでしたって、宇宙行ったヤツの言葉かよ!」
と、ネット上でツッコミが殺到した。
結果、その著作は『感動巨変』として空前の大ヒットを記録することとなった。
現在、男は莫大な印税で建てた豪邸の、立派な書斎にいる。
「なぜ皆、俺のすごい冒険譚を読んで、腹を抱えて笑うのだろうか」
彼は真剣に首を傾げながらも、決して不満ではなかった。
自分が命を懸けて持ち帰ったものが、多くの人々の心を動かしたという事実だけは確かだったからだ。
彼は生真面目な顔で鉛筆を舐め、次なる命懸けの冒険の構想を練り続けている。
「次はもっと身近な恐怖に立ち向かい、読者の魂を震わせてやろう」
真新しいノートのページに、彼が書き込んだ次なる冒険の目標。
「防護服なしで挑む、巨大スズメバチの巣」




