三年間不倫していた夫が「やり直そう」と泣きついてきましたが、もう遅いです ~レトルト食品に救われた私の静かな再出発~
「頼む……やり直そう……」
三年ぶりに会った夫は別人のように痩せていた。
髪はボサボサで髭も剃っていなければ、服も何日も着たままで洗っていないような気がした。
さすがに仕立てのいいスーツだから、見た目から不潔さが漂うことはないけど、着ている夫が汚いのだ。
会社では期待されるエリートでスーツに気を使うような人がここまで落ちぶれるなんて……。
三年間、不倫相手と楽しく過ごしていると思っていたけど……。
「……」
いえ、実は偶然だけど、夫が不倫女と別れたことは知っていました。
ここまでボロボロな状況になっている理由はわからないけど、もうどうでもいいのよ。
あなたへの想いなんて、三年間で、私の心にはもう、一欠片も残っていないの。
あなたは私の中で死に絶えた人。
◇
三年前。
たまたま、あなたと不倫相手を見かけてしまった。
駐車場に停まっていた車の中で仲の良さそうなあなたと女性がいた。
一瞬で胸が苦しくなったけど、ただの友人や知り合いなのかもしれないと思った。
不倫と決めつけられる状況ではなかったし、夫が浮気しているなんて思いたくなかった。
思い返せば、記憶の中の二人の表情は親密そのもので、私の夫への気持ちが、真実を見るのを避けただけだと思う。
安心したくて、夫の後を車でつけたら不倫女のアパートに入っていくのを見てしまう。
呆然と私はただハンドルを握った。
夫が不倫していた——。
事実を受け入れるまでに、どれくらいの涙を流したか。
家に帰って数日は、泣いたあとに自分が見たことは間違いだったと思うような日々だった。
ただ、泣いて腫れている目の私に、夫は気づくことはなかった。
それが、夫の私への関心のなさを表していた。
その事実を否定したくて、不倫なんてしてないと、夫の口から聞きたくて、問い詰めた。
◆
「お前みたいなつまらない女と結婚したら、不倫くらいするだろう」
問い詰められた、夫は開き直っていた。
私は、不倫なんてしていないとか、不倫を認めても、悪かったと謝ってもらえると思っていたから、ショックだった。
「つまらないって、何が?」
本当にわからない、私は何も変わっていないのに。
「お前の話はつまらないから、話していても面白くない。俺から話しかける価値がお前にあると思えない。一緒の家にいるだけで陰気になる」
不倫女にするみたいに、あなたが私に笑いかけたら、同じように笑うのよ。
夫は、自分のことは棚に上げて、私のせいにしている。
夫は完全に私を見下していて、関心なんてなかった。
ここで、もう出ていけば良かったのに、私は不倫女のところにも行ってしまう。
だって私は妻なんだもの。
あの日選ばれた私は、幸せになる為に白いドレスを着ていたのよ。
◆
「あなたがやっている事は不法行為なのよ。慰謝料を請求します」
なぜか、不倫女と夫が一緒にいた。
「慰謝料なら俺が払う。俺の分は記入してあるから、後はお前が書いて出しておけ」
目の前には離婚届があります。
本当に夫の名が記入されている。
ニヤっと不倫女が夫の影で嫌な笑みを見せる。
無言だけど、勝ち誇ったような表情で私をみくだしている。
慰謝料を払ってでも別れたい女と手に入れたい女。
明確な差がここにはあった。
これ以上はただ惨めになるだけだった。
「そんな簡単に離婚なんてしない! 慰謝料をもらってからもずっとあなたは私の夫よ!」
惨めになるだけの言葉をはいて、益々不倫女を勝ち誇らせて、私はその場を後にする。
頭に登っていた血が落ち着くと、惨めさが涙になってこぼれ落ちた。
私のバッグに突っ込まれた離婚届は、涙で濡れたり簡単に破られたりしないようにファイルとビニールでできた袋に厳重に守られている。
離婚届の方が夫によっぽど大事にされているわ。
風が吹いて私の身体を冷やす。
怒りに任せて家を出て来た時には感じなかった寒さに、涙が冷たくなって、また私を惨めにする。
私の手元には夫が記入した離婚届が残った。
◆
私は慰謝料を請求せずに離婚届も出さずに、ただ家を出た。
必死に仕事を探したけど、不採用が続いて、夜中に一人で泣いた。
夫だけでなく、全ての人に私は必要とされていない。
不倫女が夫の後ろで私を見下して笑った。
あの瞬間が、真実だったのかもしれない。
「うっ……ヒク……ッ」
真っ暗な真夜中に明るく光る異様な所で、昼間よりも濃くなったような影の中、私の嗚咽と秒針の音だけがやたらと大きく響く。
やっと採用されたのは、地元の飲食店だった。
でも、外に出るとあなたと不倫相手の幻影が見えてしまう。
テーブルに座って背中を向けた髪の長い女が不倫女のように見えて、女の身体で隠された向かいに座っている男性は夫に見えた。
ガチャ
運んでいた料理を落としてしまう。
夫と不倫女じゃないことがわかっても、指先の震えが止まらない。
今回は違っても、いつかは出会うことがあるんだ。
幸せな二人の前に、生活のためだけに働く自分を晒すと思うと想像だけで胸が締め付けられた。
私は、精神的におかしくなっていたんだと思う。
仕事の時間になっても身体が外に出ようとすると動かなくなる。
仕事に行けなくなった私はクビを言い渡される。
泣く気力もない。
心の中は空洞で怒りも悲しみもなくなっている。
何も感じずに、部屋の影が移動するのをただ見ていた。
◆
暗い部屋に、外の街灯の灯りだけが影を落とす。
お腹が空いてた。
僅かな貯金もそこをつきかけている。
それでも冷蔵庫の食材で料理をする気力がわかずに、スーパーにすぐに食べられるモノを買いに出かけた。
暗い道に車のライトだけが流れる。
闇の中を流れる無機質な光の中を歩くと心が落ち着いて来る。
私はもう人に会いたくない。
スーパーの光の洪水の中には人がいた。
でも、誰とも関わることなくセルフレジで目的のものを買うとすぐに帰った。
地元の有名企業のレトルト食品でレンジで温めたらすぐに食べられる。
存在は知っていたけど、自分で料理するから食べるのは初めてだった。
プラスチックの袋状の容器を破ると湯気と暖かい空気、美味しそうな匂いが飛び込んでくる。
底に沈む野菜が暖かい暖色を放ち、煮崩れしそうでいて微妙に形を保っている。
そこに人がいて、今、作ってくれたような暖かさを感じた。
こんなに美味しいものがあるって知らなかった。
他にも種類があったのを思い出してサイトを検索する。
四種類の商品が紹介されていた。
でも、さっき食べた感動がこのサイトのデザインにしぼんでしまう。
別に他の種類は食べなくてもいい……。
ゴロンと寝っ転がった。
……。
「!」
私は起き上がった。
そうだ、デザイン!
webデザインなら家でも出来る!
このサイトデザインを変更すればもっと売れる!
私はスマホ画面を見つめる。
メニューや商品説明の動線が弱いけど、内容は悪くない。
少し直せば……。
私は結婚前の経験を思い出して、徹夜でプレゼン資料を作り朝一番で地元の有名企業に電話していた。
◆
web部門の責任者が会ってくれる。
思ったよりも若い男性だった。
もしかしたら私よりも年下かもしれない。
ここまでは何も考えずに入って来る情報だ。
もう私の心は、人には何も動かされるものがなかった。
ただ淡々とwebサイトの改善点を説明した。
訪れる人を数字としてしか見ていない、けれど正しいデータの分析だった。
責任者は興味を持ってくれたけど、採用するまでにはならなかった。
「……私を救ってくれた味だから、もっと多くの人に知って欲しかったけど。残念です」
帰り際にいった言葉に責任者が反応した。
「味に救われたとはどういう意味ですか?」
夫の不倫から家を出たのに、仕事もクビになって後がない状態だと、たぶん、仕事上の関係の人に話す話ではない。
けれど、私の心は壊れていたから、何の感情もなく淡々と話していく。
事実だけを淡々と。
レトルト食品の暖かさにふれた瞬間のことを話す時だけ、ホッと心がもどった気がした。
話終わると責任者は態度を一変させて、是非、webサイトをつくって欲しいと言われる。
同情されたのかと思ったけど、
「あなたは、あの商品の魅力をわかっている人だ。是非、お願いします」
違うらしい。
その後に、変更したwebサイトから売上げが増えて、他商品のwebサイトも任せられる。
地元の他の企業からも依頼がくるようになって、私の生活は安定した。
「責任者さんはいらっしゃらないんですか?」
ある日、地元の有名企業に電話をすると責任者がいなくなっていた。
彼は創業一族の御曹司で、今は別の部門で働いているらしい。
私は後任者と連絡を取り、いつものように死んだ心で淡々と仕事をこなす。
仕事は順調で、良い商品と売上げの増加だけが心を溶かした。
◆
安定した日々の中で、不倫女が御曹司と婚約したという事を知ってしまう。
御曹司はweb部門の責任者でなくなった後も私に時々問い合わせてくることが多かった。
新商品の開発や既存商品の対応、会社のイメージ戦略など、宣伝から考えた方がいいと思っている人だった。
御曹司との繋がりが深くなるのは生活の安定のためにも悪くない。
仕事のみで、プライベートはどうでもいいはずだった……。
別に御曹司が誰と結婚してもいいけど、プライベートが原因で仕事に支障が出るのは困る。
不倫するような女と結婚して、仕事を今までのようにこなせるのか……?
杞憂に過ぎないのかもしれないけど……。
あの日の不倫女の私を見下す顔が過ぎる。
あの顔は、人を落とし入れて楽しむ人の顔じゃないの……?
ゾクっと背筋が寒くなる。
せっかく安定した生活が遠のいていく予感。
何より、御曹司には仕事でお世話になっているのに、言わずに後から後悔させるわけにはいかない。
でも、夫みたいに妻より不倫女を選んだらどうしよう……。
御曹司にとっては、私は妻ではなく、守るべき社員ですらない、ただのフリーランスの取り引き相手だ。
言って機嫌を損ねたら、私の仕事に支障がでるかもしれない……。
夫に見捨てられた後の日々を思い出したら御曹司に同じことをされそうで怖い。
私の心はもう、壊れて死んでいる。
そう思っていたけど……。
まだ、弱い心が残っていたみたい。
夫と不倫女を思い出して、動けなくなる。
そんな、弱い心はいらないのに。
……乗り越えないといけない。
私は不倫女と御曹司を結婚させたくないんじゃない。
仕事に支障が出るかもしれない可能性を潰したい。
感情的にならないでただ事実を伝える。
いつもやっていることだ。
事実で判断できない人は私の人生にはいらない人。
ただそれだけ。
◆
「伝えてもらえてよかった」
「事実のみをお伝えしましたから、後は御曹司の判断にお任せします。仕事でお世話になっている御曹司に黙っていていい事ではないと思っただけです」
「……俺が彼女をどうするのかも興味ないのか? 彼女への興味ではなく、俺への興味はないのか?」
「……ありますよ。仕事がどうなるのかは死活問題ですから」
「恋愛的な意味でだよ」
御曹司と私が恋愛?
御曹司にそう言う気持ちがあったなら、不倫女なんかと婚約はしないでしょう?
「君と彼女は似てる……」
「え!?」
死んだ心が復活してしまったと思う。
私はものすごく嫌な顔をした。
「君もそう言う顔をするんだね」
私はただ微笑んだ。
「隠しても仕方ありません。私はあの女が嫌いです。それだけのことをされたので仕方ありません。婚約者のあなたの前ではもうこの感情は見せません」
「見せてくれていいよ。俺も不倫女は嫌いだ。婚約はデマだ。きっと外堀から埋めていくつもりで不倫女が流したんだろう」
「え? デマ!?」
「嫌いだなんて本人には言ってないからな。勘違いしたんだろう」
そういった御曹司に、私の心の重荷がおりた気がする。
私の顔を見て、御曹司も笑っています
「スッキリした顔をしてる」
「御曹司のおかげで、不倫女の存在を完全に消して、まともな人たちの世界に戻って来れた気がします。不倫女に似ているって言われたことは心外ですけど」
嫌いな女に似てるんじゃ、御曹司にとっても私は恋愛対象じゃないわね。
「君が最初に来たときに、人間に興味がないみたいに淡々と話していた。興味があるのはレトルト食品だけだった。その様子に不倫女が似ていると思って興味を持ったが、動機は全然違ったな」
……。
確かに、そこだけ見たら同じなのかもしれない。
捨てられて人間への興味を失った私と、自分のことだけで他人に最初から興味がない不倫女。
似ていると言われたら、本当に不快だけど。
「!」
そして、完全の過去を切り捨てられたことで、夫と私に関する重大なことを思い出す。
「御曹司……。私、とんでもなく大変なことを忘れていました……」
固まって、魂がぬけたように遠くの一点を見つめる私。
御曹司が、何事かと私を見つめている。
——あれだけ固執していたのに、すっかり忘れていた。
◆
「頼む……やり直そう……」
惨めな夫がいます。
御曹司と不倫女のことから、夫が捨てられたとは思っていたけど……?
どうして、今日、現れるの!?
夫は聞いてもいないのに、経緯を話し出す。
興味もない話を、あやしまれないためにだけ黙って聞く。
夫から不倫女との別れを切り出したら、別れたくないと不倫女が喚いたらしい。
会社であることないこと嘘をついたら、たまたまそのうちの一つが本当にあった出来事だった。
調べられるうちに、次々と余罪が出て来て、全て夫がやったことにされたらしい。
冤罪で会社を首になって、借金で住む場所もなくなった。
夫はそう言った。
冤罪でも事実でもありそうなことだと思うけど、会社が冤罪に気づかないほど無能だとは思わないわ。
あるいは、会社からハメられたか……。
まあどっちでもいいわ。
私には関係ないことだから。
今は、これから私がしようとしていることを邪魔されるのが怖いだけ。
冷や汗が背中を伝う。
私は財布から一万円札を取り出す。
「あの喫茶店で待っていてください。用事を済ませたらすぐに行きますから」
夫は一万円札を受け取ると喜んで喫茶店の方に歩いていく。
私はそれを見送って、もう追いかけてこない事を確認すると、逆方向に歩き出す。
とにかく何でもいいから、あの一万円で今だけ時間を潰してくれさえしたらいい。
一時間あれば往復できる。
おかしいと思われないように、はやる気持ちを抑えて、いつも通りの速さで歩く。
区役所に着いて、書類を提出する。
無事に受理された……。
ホッと身体の力が抜ける。
その場の椅子に腰を下ろすと、もう立てない程だった。
「もう終わったのか……」
声をかけられて身体がビクつく。
夫が追いかけて来ていたの?
でも、もう終わったこと。
夫ではなく、元夫だ。
離婚届が受理されて、元夫になったのだ。
見ると御曹司がいた。
「時間が出来たから、君が無事に離婚届を提出出来たか気になって来てしまった」
御曹司に、私はニッコリと微笑む。
それで全てが伝わった。
御曹司も笑う。
食事に誘われたけど、元夫を待たせていることを伝える。
私が夫に、私たちがもう関係はないことを伝える間、喫茶店の外で待っていてくれると御曹司は言う。
私が喫茶店に入ると夫はいなかった。
夫らしき人が朝から入って来た様子はないと店員が言う。
一万円札を渡した時の夫の顔を思い出す。
髭も剃っていない薄汚れた顔がニヤリと歪む。
あれは一万円札を手にした喜びだったのか——。
元夫への想いなんて、一欠片も残っていない私の心に、得体のしれない怪物を見た恐怖が競り上がってくる。
あなたは社会的にも、もう死んだのね。
外で待っていた御曹司の暖かい血の通った顔にホッとする。
「どうしたんだ?」
私の様子に心配してくれる。
「あなたがいてくれて良かったと思ったのよ」
◆
「引越しをしないと……」
帰り道で私が御曹司に漏らす。
「元夫があの様子じゃ、またお金の無心に来そうだから。一万円で何日くらいいなくなってくれるのかしら」
「一万円なんてすぐになくなる。今日また現れることだって……」
御曹司が言い終わらないうちに、元夫が姿を見せた。
朝と同じ場所に朝と同じように立っていた。
「誰だ、そいつは」
元夫が御曹司を見て言う。
一万円は数時間しか夫を遠ざけてはくれないらしい。
「君こそ誰だ」
御曹司が言った。
「俺は、こいつの夫だ」
元夫が当然のように答える。
「違います。朝までは夫だったけど、あなたはもう他人です」
私が言った意味が夫がすぐに飲み込めなかったらしい。
「……なに……!?」
けれど、みるみる顔色が変わっていく。
一万円札を渡された意味を察したようだ。
「私は一万円をあげるなんて言ってないわよ。喫茶店で待っていてと言っただけ。あなたは妻でもない、他人のお金を盗んだのよ」
夫が膝から崩れ落ちる。
数時間前の自分の浅はかな行動に後悔して、顔が絶望で歪んでいる。
「今後、二度と私の前に現れないと約束してくれるなら警察には行きません。あなたが少しでも私と関わるつもりがあるのなら、警察に訴えて記録として残しておく必要があります」
「うちの会社の顧問弁護士を紹介しよう。接近禁止の記録は必要だ。なに、優秀な取引先の君のためだ、手間は惜しまないよ」
御曹司が追い打ちをかける。
元夫は私たちを見上げる。
肉食獣に追い詰められた小動物のような怯えた瞳をしている。
私はあなたを追い詰めるつもりなんて一切ないのよ。
ただ関わりたくないだけなのに、手間をかけさせられている。
「……ッ!」
私たちが何をしたっていうのか、怯えた瞳のまま夫は逃げて行った。
途端に緊張が消えて、住宅街の平和な空気に包まれる。
「……もう来ないとは思うが、一応、顧問弁護士には相談しておいた方がいいな。本当に、君に何かあればうちの会社にも支障があるから、俺も不倫女のデマの対応を依頼するから、一緒に行こう」
不倫女も元夫と仲良く社会的に破滅するのね。
でも、御曹司に私がそこまで評価されていたなんて、つまらない出来事に巻き込まれたと思ったけど、収穫もあったわ。
「ありがとうございます。おかげで引っ越ししなくてすみそうだから、弁護士は自分で探します」
部屋は気に入ってるし、引っ越し代が無駄だもの。
御曹司にはこれ以上の迷惑はかけられないわ。
「引っ越しはすぐしてもらうことになると思うけどね」
「?」
御曹司の言葉の意味がわかるのは、ほんの少し先のことです。




