資金援助の花嫁? お断りです――港の契約書で婚約者の未来を沈めました
港の噂は、潮より早い。
朝一番の荷が入る前に、誰が誰に微笑んだかが決まっている。昼の鐘が鳴る頃には、それが“物語”になっている。夕方には、当人の知らないところで結末まで付いている。
私――セラ・アーレンは、その物語の登場人物にされるのが、昔から苦手だった。
アーレン商会は船主ギルドの筆頭だ。船も、倉も、信用も、うちの名前で動く。だから私は、笑うときも、黙るときも、常に“商会の顔”でいなければならない。
なのに。
私はいま、港の物語の中で「資金援助の花嫁」と呼ばれている。
相手は港湾伯爵家の次男、ラウル・ヴァンデル。家同士の同盟として取り交わされた婚約者だ。伯爵家にとっては造船計画の資金が要る。商会にとっては港の利権と航路の安全が要る。互いに合理的で、互いに大人で――そのはずだった。
ただ、ラウルは合理的な男ではなかった。
彼は、誰が見ても“超”がつく美貌を持っている。鏡の前で作られたものじゃない。生まれついて、どこに立っても絵になる。人当たりも柔らかく、相槌も上手い。つまり彼は、どこに行っても人の視線を集める。
そして。
彼はその視線が大好きだった。
視線が褒め言葉に変わり、褒め言葉が拍手に変わるのが好きだった。拍手が途切れる瞬間が怖かった。誰かに「お願い」と袖を引かれると断れなかった。好かれていたい。期待に応えたい。求められたら、つい笑ってしまう。
それが、彼の“弱さ”だった。
悪意はない。むしろ優しい。本人も、たぶん本気で「誰も傷つけたくない」と思っている。
でも、第三者から見ると――彼の優しさはいつも外向きで、いちばん近いところにいる人間が、いちばん後回しにされる。
その“いちばん近いところ”が、私だった。
翌日 倉庫街
「セラ様、昨夜の夜会……また、ですか」
倉庫の見回りから戻る途中、古参の会計係が、言葉を選びながら顔を曇らせた。
彼は直接は言わない。商会の人間は、噂を口にするだけで価値が落ちると知っているから。けれど黙っても、黙った分だけ、相手の想像が勝手に膨らむ。
私は帳簿の束を抱え直し、ただ頷いた。
昨夜の夜会で、決定的だったのは一つだけだ。
ラウルが歌姫ミレイユの控室へ入っていくところを、私は見た。
扉の前で侍女が小声で止めたのに、彼は困ったように笑って言った。
「大丈夫。少しだけ。……泣いてる子を放っておけないだろ」
扉が閉まった。
廊下の楽団が曲を一つ終えても、扉は開かなかった。次の曲に移って拍手が起きても、まだ。私は通りすがりの顔を作ったまま、足元だけがじわじわと冷えていくのを感じていた。
――しばらくして、ようやく扉が開いた。
ラウルはいつもの顔で出てきて、私を見つけると、むしろ安心したように目を細めた。
「誤解しないで。慰めてただけだよ。君の立場を壊す気なんてない」
そう言える程度のことしかしていないのかもしれない。
でも、“そう言える程度”で線を引かなかった事実だけで、港の噂は完成する。そして完成した噂は、私の胸だけじゃなく商会の信用を削っていく。
「……彼、悪い人じゃないのにねえ」
会計係がぼそりと呟いた。
そう。悪い人じゃない。
だから余計に、話がややこしくなる。
悪意のある裏切りなら、怒って切れる。
善意の顔で繰り返される裏切りは、怒る自分の方が悪者みたいに見える。
私の肩書は“商会令嬢”。怒りを露わにすれば「資金援助の花嫁がわがままを言った」という物語にされる。沈黙すれば「やっぱり彼女は同盟のためなら耐える」と物語にされる。
どちらに転んでも、物語の作者は私じゃない。
だから私は、物語ではなく――書類を見ることにした。
深夜 商会事務室
夜更けの事務室で、私は父が「形式だ」と言って放ってよこした付帯合意書の控えを読み返していた。
父はこれを渡すとき、印章箱の鍵も一緒に机に置いた。
「形式だ。読め。――必要になったら、お前の手で押せ」
たった一枚の紙が、船を動かすことがある。港ではそれが常識だ。荷は契約でしか動かない。信用も、契約でしか守れない。
そして、その紙の端に、私は見つけた。
――婚姻成立前に、当該伯爵家が商会の信用を著しく毀損した場合、本合意は無効とする。
――信用毀損の例:公然たる交際による商会の社会的評価の低下、取引先の不安の増大……
私は息を止めた。
ラウルの顔が、笑う口元が、控室の扉が閉まった瞬間が、紙の上に重なる。
私が傷ついた、という話ではない。
商会の信用が揺らぐ、という話だ。港の取引が揺らぐ、という話だ。船が止まる、という話だ。
私が守るべきものの名前を、紙は正確に書いている。
そして紙は、感情と違って、曖昧さがない。
胸が冷えていくのが分かった。冷えるのに、指先は熱い。腹の底が妙に静かで、代わりに世界の音がよく聞こえた。
係留索のきしみ。遠くの波音。ランプの火の小さな揺れ。
私は、決めた。
恋ではなく、同盟を切る。
噂ではなく、形式で動く。
翌朝 ギルド庁舎
翌朝のギルド庁舎は、開庁前から人が並んでいた。
港は一日遅れれば損が出る。だから皆、紙を抱えて来る。私も同じだ。
提出箱の前で、私は書類の角を指で揃えた。
通知書、控え、添付――そして、昨夜から握りしめている付帯合意書の写し。
投函口に差し入れようとした、その瞬間。
「そこ、入れる箱が違います」
背後から、落ち着いた声がした。
振り返ると、窓口の内側にいる若い局員が、私の手元ではなく署名欄を見ていた。人の顔より先に名前を読む目――港で生きる人間より、紙で生きる人間の目だ。
「……違う?」
「伯爵家が相手の通知は、こちらでは受理できません。差し戻されます。形式の問題です」
形式。
その一語だけで、胸の奥が薄く冷えた。私は形式という言葉に甘えて、ずっと黙っていた。形式に守られて、同時に縛られていた。
局員は引き出しから薄い台紙を一枚抜き、私の書類束の下へ滑り込ませた。
「これを敷いてください。角が潰れると印影が読みにくくなる」
手つきに迷いがない。荷役の手でも、社交の手でもない。紙が相手の手だ。
「ノール・ヴェルン。法務局の書記です」
「セラ・アーレンです」
「存じています。造船許可証の署名、癖がある。……でも読みやすい癖です」
私は、息を吐いた。笑うには乾きすぎていて、泣くには遅すぎる気分だった。
「じゃあ、聞かなくても分かる?」
「推測はできます。ただ――推測で動くのは嫌いです。手続きとして、ちゃんと通しましょう」
その言い方に、私は救われた。
優しさで慰められるより、形式で支えられる方が、今の私には合っている。
私の指先から、力が抜けた。
「……助けて」
「はい。受理させます」
ノールはそれ以上、何も聞かなかった。
“何があったのか”ではなく、“どう通すか”だけを見ている。
その姿勢が、私にとっては何よりの味方だった。
数日間 法務局
手続きは淡々としていた。
受理先。必要な控えの枚数。文言の整え方。誤字が生む解釈の危険。提出順。期限。
ノールは、こちらが焦っても焦らない。こちらが迷っても責めない。質問には答えるが、余計な推測はしない。
そして、ふとした瞬間に、彼は小さく釘を刺す。
「セラ様。これは“復讐”ではありません。信用の保全です。言葉を間違えると、負け筋が生まれます」
私は頷いた。
私がやりたいのは、相手を殴ることじゃない。
相手が勝手に傷つくのを眺めることでもない。
私の名前を守る。商会を守る。港を守る。
それだけだ。
でも――港の人々は、たぶんこう見るだろう。
「資金援助の花嫁が、ついに牙を剥いた」と。
「かわいそうな伯爵家の次男が、切り捨てられる」と。
ラウル本人も、そう思うかもしれない。
彼はいつも“見られ方”に敏感だから。反応が欲しくて、反応に怯える男だから。
港祭りの夜 桟橋の宴席
港祭りの夜、提灯の光が波に映り、音楽と笑い声が桟橋を満たした。
新造船の進水祝いの宴。アーレン商会と港湾伯爵家の共同事業――名目上は、そういう場だ。だから私は出席した。最後の形式として。
ラウルは、中心にいた。
人の輪の真ん中。視線の真ん中。
彼は、そこにいるだけで、世界が少し明るくなるみたいな男だ。
今夜も彼の周りには、言葉と笑いと触れる指先が絡んでいた。彼はそれをほどくのが下手だった。断れない。離せない。誰かの落胆が怖い。
ラウルは私を見つけ、ぱっと表情を変えた。
私に向ける“婚約者の顔”。
「セラ! 来てくれたんだね。ほら、みんながセラに挨拶したいって」
――みんな。
いつもそれだ。彼の世界では、個よりも輪が先に来る。
私は、微笑んだ。商会の顔として。
そして輪の外側に半歩ずれて、ノールの立つ位置を確保した。
ノールは目立たない制服で、目立たない顔で、しかし一切ぶれない姿勢で立っている。彼がそこにいるだけで、この場が“社交”から“手続き”に変わる。
「ラウル様。お話がございます」
ラウルは一瞬、周囲を気にした。
笑い声が途切れるのを嫌う目だった。
「今? 祭りの最中だよ。あとで――」
「今です」
私が言い切ると、輪の中の笑いが一拍遅れて静まった。
港の人間は、“船主令嬢が低い声を出した”ときの意味を知っている。
ノールが一歩前に出た。
「ギルド法務局書記、ノール・ヴェルンです。アーレン商会より提出された通知の受理が完了しましたので、関係者へ口頭にて確認いたします」
その瞬間、ラウルの目が揺れた。
「……通知? なに、それ」
彼は笑おうとした。場を明るくするために。
けれど笑いが途中で固まった。ノールが書類を差し出したからだ。
私は、淡々と告げた。
「港湾伯爵家との資金協力の付帯合意について、無効条項の適用を通知しました。婚姻成立前に、当該伯爵家が商会の信用を毀損したためです」
会場がざわめいた。
“信用”という言葉は、港では刃だ。
愛より重い。噂より確か。金より怖い。
ラウルの喉が鳴った。
「セラ、待って。僕は――僕は君を大切にしてる。君の立場を守りたいんだ。……だから、大ごとにしたくなかった」
その言葉は、たぶん本心だ。
けれど、私の胸の奥には別の意味で届く。
大ごとにしたくない。つまり、今まで通りでいたい。
今まで通り、みんなの顔色を見て、いちばん近い私にだけ我慢してもらう。
私は首を振った。
「私の立場を守りたいなら、まず信用を守ってください。噂は勝手に流れます。でも、線を引くのは――引ける人が引くものです」
「噂なんて、勝手に――」
「ええ。だからこそ、勝手にさせない努力が必要なんです」
ラウルの目が、必死に周囲を探した。
助け舟を出してくれる“誰か”を探す目。
けれど、拍手は起きなかった。
この場にいるのは、港の大人たちだ。信用が揺れるとき、誰も軽々しく味方の拍手をしない。
ラウルの顔から、いつもの“眩しさ”が少しずつ剥がれていく。
褒められないと不安で、拒絶されるのが怖くて、だから目の前の一番大事な人に甘える顔。
「セラ……僕は、君を失いたくない」
私は、言葉を選んだ。
裁きたいわけじゃない。ただ、終わらせたい。
「失いたくないなら、“失わせる行動”をやめるべきでした。私が何度も黙ったのは、あなたを守るためでもあった。……でも、その黙り方では、商会が沈みます」
ノールが静かに続ける。
「資金協力が無効となるため、伯爵家の新規造船計画の支払いスケジュールは再審査になります。担保は見直しです。必要であれば、別途、再契約の協議を」
「待て!」
ラウルが声を荒げた。
その瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。
「それは……それは、困る。セラ、君だって港のために――」
私は一拍置いて言った。声を荒げずに。
「港のため、という言葉は、今夜は借りないでください。港のためなら、なおさら――信用を削る行いはできないはずです」
ラウルが口を開けたまま固まった。
彼は反論できない。
正しさが欲しいのではなく、許しが欲しいのだ。でも今、この場で誰も許しの拍手をしない。
反応が消えた瞬間の顔を、私は初めて見た。
可哀想だ、と思ってしまう自分がいた。
同時に、その可哀想さを理由に、私はもう戻らないとも思った。
私が守るべきものは、私の同情より重い。
翌朝 庁舎の階段
宴の後、港の風はいつも通り塩辛かった。
庁舎の階段を下りる途中、ノールが私の半歩後ろで言う。
「セラ様。これで“物語”は一つ、終わります」
「終わるかな」
「終わります。少なくとも、あなたが作者になります」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
優しさではなく、形式の言葉で。
私は足を止め、海の方を見た。
提灯の灯りが波に揺れている。
港は、明日も動く。
信用がある限り、船は出る。
「ノール」
「はい」
「私、ひどいことをした?」
ノールはすぐに答えなかった。
彼は推測で動くのが嫌いだと言った人だ。
だから彼は、事実の方から組み立ててくれる。
「あなたは、信用毀損を理由に無効条項を適用しました。条項は合意書に存在し、提出手続きは適法です。あなたは、相手を侮辱していません。あなたは、港の取引先に説明可能な形を選びました」
そして、少しだけ声を落とす。
「ひどいのは、あなたではありません。“選ばないことで誰かに耐えさせる”癖です」
私は、小さく笑った。
港の風が、髪を揺らす。
塩辛いのに、今日は少しだけ気持ちよかった。
「ねえ、ノール。あなたは……誰かに好かれたいって思わないの?」
ノールは眼鏡の位置を直し、海の方を見た。
「思います。けれど、好かれるために誰かを犠牲にするのは嫌です」
「……強いね」
「強くないです。形式が好きなだけです」
その言い方が可笑しくて、私は今度はちゃんと笑えた。
私は、決めた。
恋を選ぶのは、もう少し先でもいい。
でも、私の名前を安売りする未来は選ばない。
港の物語は、潮より早い。
だからこそ――私は今日、紙で、確かな速度を手に入れた。
明日からの航路は、私が引く。




