本の中の少女
異人館通りを南に下り、センター街、中華街を抜け、美術館と海の間の通りにその建物はある。
白漆喰の壁に紫の煉瓦の屋根。
ビル群が立ち並ぶ中で、その建物だけが浮いて見えた。
建物の中に入ると正面に雑貨屋が入っており、入ってすぐのところにエレベーターがある。
一人の少年がその建物に、そのエレベーターの中に入っていった。
少年はエレベーターの扉を閉め、一から三のボタンを押さずにカバンの中から何やら取り出す。
取り出したのは図書券だった。
ラミネート加工されたその図書券をボタンを押す所にかざすと、赤い光が放たれた。
ぱかりとふたが開き、B1のボタンが現れる。
少年は迷うことなく、そのボタンを押した。
ふわりとした浮遊感を覚えながら、少年は図書券をカバンの中にしまうのだった。
エレベーターが止まる。
そこには紙とインクの臭いが充満していて、薄暗い。
湿度は無く、恐らくは本にとって最適の環境を保っているのだろう。
奥では店主らしき老人がテレビをぼんやり見ながら、茶をすすっていた。
少年はチラリと店主を伺い見るが、店主の方は少年を気にする様子は無い。
少年は本をあさり始めた。
背表紙を指でなぞり、目的の本を探している様だった。
その本屋には一種類の本しか置かれていない。
全ての本にハードカバーが付いており、そして背表紙に名前が書いてある。
色は様々であるが、似通ったその本の中から目的の物を探すのは至難の業かと思われた。
二時間後、ようやく少年は目的の本にたどり着く。
ふらふらとしながらも少年はその背表紙の名を見た途端、正気に戻る。
『ユナ』
そう背表紙に書かれてあった。
愛しき少女の名に少年は打ち震え、本を開いた。
強盗は三人だった。
一人は家の中を物色している。
一人は隣の部屋で母を犯している。
そして、もう一人は目の前にいた。
血まみれで動かなくなった父を見つめ、笑っていた。
私も父と同じように殺されるのだろうか?
それとも母と同じように犯されるのだろうか?
声もあげられず、体は震えるばかりで言う事を聞かない。
足首を掴まれた。
父の血でぬるぬるとした手は熱を持ち、這いずる感触は拒む事を許さず、私はそのまま・・・
少年は本を閉じた。
間違いない、彼女のだと少年は確信する。
そして、本をカバーの中に仕舞い、店主の元へ持っていく。
「これを」
声をかけられ、店主は湯呑を置いた。
値札の無い本を眼鏡をくっとあげて、覗き見る。
「二千万だ」
「二千万?・・・冗談だろ・・・」
「冗談なんかじゃない。君もここに来たのならこの本が何なのか分かっているのだろう?それぐらいの価値があると言っても不思議じゃないだろう、君にとっては。むしろ二千万じゃ安いくらいだ」
足元を見らえている。
そうは思うも確かに少年にとってその本は絶対に必要なものだ。
しかし、少年に店主の言うような大金は無い。
頼るべき相手が脳裏をよぎり、逡巡する。
それでも背に腹はかえられない。
「本当に二千万でこの本を譲ってくれるんだろうな?」
「当然だ。商売だからな」
「そうか・・・だったら金は必ず用意するから、それまで誰にもこの本を売らないでくれ」
「それは出来ないな。もしもっと高値で買ってくれるお客様がいたら・・・」
「売らないでくれ!絶対にだ!」
少年の剣幕に店主は肩をすくめて、「分かったよ」と返事をした。
そして、少年は気を荒げながら、その店を後にするのだった。
男の前に少女が一人。
彼女は何処を見るでもなく、ぼんやりと虚空を見つめていた。
男がどんなに熱い視線を送ろうとも彼女は何も反応しない。
対面し、座っているだけで男の心臓は早鐘の様に打つというのに。
報われぬ思いが渦を巻き、男の心の中をかき乱す。
その柔らかい唇はどんな味がするのだろう?
それを確かめるのは出来ない約束であった。
何をするにしても三人で、それが交わされた約束。
それが男の背負うべき業であった。
男に許された事は少ない。
けれど、それでも男は彼女を愛さずにはいられない。
男は彼女の頬に手を触れる。
すると彼女は微笑むのだった。
それが心無くした彼女の唯一の反応だった。
「何をしている!」
「何も・・・何もやましい事などしていない」
「当然だ。そんなことしていたら俺が兄貴を殺している」
実の血の分けた弟から嫉妬に彩られた瞳で睨まれるのは辛い。
しかし、兄弟であるが故か、兄も時折同じような瞳で弟を見つめる事がある事も良く知っている。
「ただいま、ユナ」
そう言って少年は少女の頬に触れる。
すると今度は少年の方を向いて、微笑むのだった。
複雑な心境で少年の兄はその様子を見ていた。
「早かったな。学校は今日は午前中で終わりだったのか?」
「いや、サボった」
「おい、サボったって・・・」
「サボって、ユナの記憶を探していた」
「そんなもの探したって見つかるもんでもないだろ。この間二人でユナが正気に戻るまで我慢しようって確認し合ったところだろうが。それなのに・・・」
「あったよ。ユナの記憶。本の中にあった」
突飛なセリフだ。
頭がおかしくなったのだろうかと疑ってもおかしくない。
けれど、兄は弟に何も言えなかった。
「だから、ここでいくら待ってもユナは戻ってこない」
「・・・何処でその本を?」
「美術館を南に下った所にある秘密の地下の本屋・・・なぁ、ここまで言ったらわかるよな。一体兄貴は何を知ってるんだ?」
「教えてくれ」とせがむ弟に兄はどうしたものかと逡巡する。
真実を語れば、きっと彼は兄を許しはしないだろう。
しかし、このまま黙っている事も出来ない。
「・・・俺がユナの記憶を奪って、本の中に閉じ込めた」
呆気にとられた少年の顔。
けれど、すぐにその顔は鬼の形相に変わる。
握りしめられた拳は兄の頬をえぐった。
「何で!そんな事を・・・」
「仕方ないだろ!お前はユナにおばさんみたいに死ねというのか!」
「それは・・・」
少年は自ら命を絶ったユナの母親の事を思い、閉口した。
「あのままじゃユナ、絶対おばさんの後を追っていた」
兄は口の端が切れ、そこから流れる血を手の甲で拭う。
「俺だってしたくてしたんじゃない。でも、ユナを失いたくなかった」
兄の気持ちは分かる。
しかし、胸の中のわだかまりは消えない。
「じゃあ、兄貴はユナを元に戻せるんだな」
「・・・出来る・・・けど、したくない」
「何で?!兄貴はユナがこのままの状態でいいっていうのかよ!」
「死ぬよりましだ」
「何で決めつけるんだ。死なないかもしれないだろ。いや、俺が絶対そんなことさせない!」
兄は弟を羨ましく思う。
「俺がユナの傍にずっといる。どんなに苦しくてもずっと傍に。どんなにつらい過去だって、ユナが克服するまで俺が支え続ける」
「・・・たとえ記憶が戻ってもお前を選ぶとは限らない。拒絶されても尚、お前はユナの傍にいるつもりなのか?」
「それはユナが俺じゃなく兄貴を選ぶってことかよ?」
「いや、どちらも拒絶されるかもしれない。それでもお前は・・・」
「傍にいる!俺はユナを愛している!」
ただ真っ直ぐな思い。
「愛しているからと言って、思いが返ってくるとは限らない」
「それでも、俺は・・・」
「それはただの押し付けじゃないのか?」
「でも!愛しているんだ、俺は!」
俺だって、と心の中で呟き、兄は少女を見る。
無表情に虚空を見つめる。
まるで人形の様だ。
「・・・分かった。ユナの記憶を戻そう。あそこの店主は知り合いだから、俺が何とかしよう」
「兄貴」
「でも、覚悟しておけよ。最悪の結末も」
少年は神妙にうなずく。
そして、兄は少女の頬に触れる。
少女はただ微笑む。
もうこの笑顔すら見られなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、彼らの心は切なく軋むのである。




